ビー太郎サバイバル日記

武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。「正忍記」その5
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家康公の時計―四百年を超えた奇跡

ieyasukounotokei
家康公の時計―四百年を超えた奇跡
落合偉洲著(久能山東照宮宮司)
2013年7月24日初版第一刷
平凡社



先日コメントをいただいて、薦められたので早速入手して読みました。

途中、コメント欄に記入しましたが、読後感は大変興味深いものでした。

本書では、久能山東照宮の沿革を伝えた後、スペイン国王フェリッペ二世のお抱え時計師ハンス・デ・エバロの機械式西洋時計(1581年制作)がなぜここにあるのかというミステリーにいざないます。

そして、宮司が企画する、平成二十七年四月十七日の家康公、御鎮座四百年大祭へむけての国宝指定の活動報告の一環としてこの書籍が刊行されました。


よくぞここまで調査し、行動に起こし、まとめられたという感慨深いものがあります。

本来検証されるべき徳川時代が、明治維新後の為政者たちの意向で手つかずのまま、アポーツ現象のように現代になって現われた感じです。

いいえ、時計はずっとそこにあったのですから、アポーツ現象とは違いますが、人々から忘れられていたおかげでほとんど当時のままの形が残されてきたのです。



さかのぼること、文禄五年(一五九六)六月に起きたサン・フェリッペ号事件が、スペインによる日本の植民地化戦略をはっきり伝えています。(『家康公の時計』、221頁)

秀吉の治世の時代以前から、日本もまた大航海時代の標的にされていたのです。

秀吉はこのときサンフランシスコ会のパードレ(神父)と日本人宣教師合わせて26人を長崎で処刑しています。


話しはずれますが、私が海外青年協力隊でメキシコで語学研修で滞在していたクエルナバカ市のカテドラル(大聖堂)には、ちょうどこの26聖人の殉教をモデルにした壁画がありました。

当時は、はるばるこんな地にこのようなものが、と、いぶかしく思いましたがそれ以上調べることはしませんでした。 このサン・フェリッペ号はマニラからメキシコへの航海の途中であったのです。


その他参考:

太平洋の覇権(16) 日本の「大航海時代」(1)
 Jack Amano 翻訳:堤 淳一

http://www.mclaw.jp/01division/jt_txt_taiheiyo16.html




そうした時代背景を知る上でも、「家康公の時計」は重要なのです。 当時の複雑な外交事情を物語る貴重な手掛かりの一つなのです。 日本の歴史上では、家康公の下した非常に重要な決定に関わっています。 日本の将来を決定づけた、カソリック布教の禁止に関わる唯一の証拠です。

当時、カソリックが世界を、そして日本を支配しようとした事実に家康公は直面して、その対応策を示しました。 その証拠が、スペイン国王からの贈り物としてビスカイノが持参した時計です。 四百年を経て、今では、「家康公の時計」と呼ばれていますが、その時計を見ることで当時の激しいやり取りまで頭に浮かべることができるのです。
(同書、228頁)





この本に登場した火縄銃研究者の澤田平さんは、東京テレビの「なんでも鑑定団」で周知されている方です。

その澤田さんは、

「火縄銃製作の技が時計に」
http://isv.sakura.ne.jp/kojyu/wadokei.html

と、主張されています。

徳川時代になって大量にあった火縄銃は消え、その後どうなったかというと、和時計の制作に活かされたのだと言っています。


日本という国は情勢が変われば大転換をやってのける柔軟さがありました。

その柔軟さはどこからくるかというと、自生力からではないでしょうか。

火縄銃の使用目的は殺傷のみです。

このまま増え続けたらどうなるのか。

生存への本能が働いてトップが決断し、民がそれに従ったのです。

天武天皇の殺生肉食禁断の詔勅もそのようなもので、それが明治維新になるまで続いていました。


平和のためとか、そのような生易しい決断ではないと思います。

人間が人間として進化するための、知恵であり、それを実行する力です。


この本は、それを再確認できる素晴らしい本でした。

紹介してくれた方、ありがとうございます。
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[ 2014年01月15日 00:53 ] カテゴリ:ビー太郎日記 | TB(0) | CM(0)

天使―堕天使、人間

これは、前回の「家畜人ヤプー」から「進撃の巨人」への続きです。

この本文はだいぶ前に書いていたのだが、この夏からインターネットをあまりしなくなった。

しなくなったら、インターネットに束縛されない解放感に慣れてしまい、なくても平気になった。

スマホを持ったノマドにはまだなりたくない。



本文ここから、

「巨人をしのぐためには人間性を捨てなければ…勝てない」


くどいように何度も出てきたこのフレーズは、私たち人間の課題でもあるかのようだ。

古来より存在するものとして、教科書にも掲載されている中国の古典を元に書かれた小説「山月記」もまた似たような場面が登場する。

これは、自尊心が強いゆえに虎になった学者の話しで、戒めの話しである。

自尊心が強すぎると人間性がなくなるということか。

学生の頃はそんなのでも納得していたが、今はもっと突っ込んでみた。

人間性とはどのようなことをいうのか。




アニメ「進撃の巨人」の最終回でも、はっきりと定義づけていなかった。

定義づけていないが、目星をつけている感じである。

そうでないと、物語の世界観が崩れてしまう。


きっと、人によって違った意見を持つことだろう。

物語の進行で立場の違う人間に意見を言わせて、押しつけず考えさせているのもよい効果だ。


エヴァンゲリオンと似ているシーンもあるそうだが、私はこちらのほうを見ていない。

このような壮大なテーマを扱う場合、基本的な構想は単純なものだろう。

伎(わざ)が何万通りあっても原理は数えるくらいしかないのと同じだ。


一人の人間が何万通りもの違った動作を行なったとしても、出所はその一人の人間である。

その一人の人間の人間性を捨てた場合、何が残るのか?


人間性を捨てるのか、人間性を超えるのか?


人間性をとっぱらって、かわりに動作をおこなうのは、悪魔か天使か。

悪魔は、天使が堕ちたものだから堕天使ともいう。


このアニメの主人公が巨人態になって巨人と闘ったり破壊活動をするとき、あまり理性が働いているようには見えない。

むしろ、この世の破壊者になるのではないかという結末を想像してしまう。



アメリカ・インディアンの上級のシャーマンが危機を脱する時使う力が、やはり人間性を越えたものであるそうだ。

しかし、自分で制御できなければならないという。


「山月記」の虎人間は、最後に自分で制御できず、本当の虎になってしまう。




天使、悪魔、人間と分けるのか?

人間がすべてを包括しているのか?



[ 2013年10月19日 02:24 ] カテゴリ:ビー太郎日記 | TB(0) | CM(0)

「家畜人ヤプー」から「進撃の巨人」へ

「家畜人ヤプー」というのを聞いたのは、故太田龍先生の著書によってであった。

幕末明治維新の西洋の文化と学問の導入と流入により、急激な軍国化、極端な工業化、農村の疲弊、日清・日露戦争を経て大東亜大戦/第二次世界大戦に突入し、敗戦し、日本が米国に進駐され従順になっていたとき、西洋人の本質を見抜いた日本人の作家の一人として評価されていた。


この作家沼正三は、西洋人をサディズム(加虐症)、マゾヒズム(被虐症)の二面性(二極性)が異常に発達した人種であると観察し、そのサディズムとマゾヒズムに満ち充ちた「家畜人ヤプー」を書いた。

かといって、この小説の内容が奇譚な趣向の読み物になっており、自分は一巻を全部読み終わることなく投げ出してしまった。

多分、主人公は家畜人のままではないかと想像する。

ので、最後はどのような結末かはしらないが、のちに本名(天野哲雄/1926-2008)で綴った随筆から察してもこの状態を乗り越えているようには思えなかった。



西洋人自身の心理が、このサディズムとマゾヒズムで調教され、キリスト教のもとでコントロールされていたとしたら、

…誰に調教されたのか?

ゆえに西洋史は侵略と略奪の戦争の歴史でもある。

獣を狩猟して調教するように、他民族に侵略し、隷属させる手段がサディズムとマゾヒズムであり、それを秘めた宗教のもと、原住民のキリスト教化を建前に人々を家畜化していった。

英語圏では「シープル」という言葉がある。
ヒツジの「シープ」と「ピープル」の合成語でつくられた。


現代は宗教だけがそのシステムを使っているわけではなくなった。

一般社会にまでそのシステムが伝染していく。

世界が悪魔主義主導の西洋の管理下に入って、殆んどがそのシステムで機能し始めている現代。

「家畜人」が、ひとつの流行語のように言われ続けていた。

自覚しているが他人をののしる言葉に使うのか、ヘンタイ向けの趣向として使われるのか。

私自身、このように機能している現実の日々の生活の中で、どのように振る舞うべきか、どこに身を置くべきか悩んでいた。


断っておくが、キリスト教のシステムと個人のキリストは別であると考える。

イルミナティ悪魔主義者は人間が創ったものを剽窃したり、乗っ取ったり、詐称する。




9月27日、最終回を迎えたアニメ「進撃の巨人」は、人類が家畜であった、と気づいたことから始まる。

原作は読んでいないので、このアニメを見ただけの感想だが、後発のアニメだから原作者以外の制作スタッフも参加してより練られているような感じがしたし、繊細な描写と演出、アクションと効果音が場を盛り上げた。




アニメの主人公たちは、この壁にさえぎられた内側の「家畜人」の秩序状態から抜け出る兆戦であるかのようだ。

それとも、壁から出ることをこばませ、「家畜人」の自覚をより強化させるものだろうか?

壁の外側にいる巨人に立ち向かう人種とより家畜化して堕落してゆく人種とに分かれてゆく。

敵は巨人だけではないというわけだ。


現実の世界感が、想像を超える物語の中に投影され盛り込められているので、観賞しているものは身近に起きている出来事と錯綜してみている。

謎は解決されないままだが、このアニメの示した路線は、私には違和感がない。





昭和の時代が終わって、欧米主導で世界統一化がさらに進み、拝金主義の蔓延とより高度な管理社会が作られつつあり、法律と制度でがんじがらめにされていく「家畜化」が進行中であるかのようにも見える。

しかし、生きている人間であれば抵抗する。

このアニメの出来は、その抵抗の一つの現れのようにもみえた。

アニメか…日本人らしいかもしれない。



最後に物語の中で繰り返された文句。

「巨人をしのぐためには人間性を捨てなければ…勝てない」

というメッセージについては、次回に述べたい。

[ 2013年10月01日 02:11 ] カテゴリ:ビー太郎日記 | TB(0) | CM(0)

家畜人は自殺はしない



昨日、「人工的動物とは家畜人のことではないか」

とふっと思い立って書いてしまったので、その続きを一晩考えた。



家畜は自殺しない

だから子供は家畜人ではない。



と私は結論付けた。





家畜は自分で死期を決められないトサツがあるだけだ。

だから、家畜人は食糧に困らず、住むところがあれば、自殺はしない。




自殺は人間的な行為であると、先の論者はいう。

私もそう思う。




では、子どもが自殺してしまう事件はなぜ起きるのか。

子ども=動物

と定義づけたとしても、子どもは人間であって、進化の過程における動物的感覚の優勢の時期のことで、成長とともに教育によって人間の知性を養っていく。


動物的感覚が優勢であれば、生きることに集中するので自殺などしない。

どの宗教でも自殺を否定的に見て、自殺しないよう呼びかけるのは、悲しみ以上に魂の問題だからではないか、と思っている。



では、人間はどうして自殺するのか。



ここで少し視点を変えてみる。

西尾幹二氏のビデオを見ていたら、ある回で「いじめ」について話していた。

「いじめ」による痛ましい事件が多くなっているのが背景にある。

彼もまた子供時代にいじめにあったとかなんとかで、どのように対処したのか持論を展開された。

私もそうだなと思ったことは、

「今の子どもたちは戦い方を教えられていない」ということだった。

いじめは人間の成長の過程において起きるものなのだ。

いじめっ子、いじめられっ子だけでなく、周りにいる大人や子どもたちも空気が乱される一大事である。

当人同士で決着がつかなかったら、

兄貴格の子どもが仲裁に入ったり、

近所の大人が注意したり、

社会構造が何重にも取巻き機能していたことを話された。



何が正しいか、何が間違っているか、どこが問題なのか、こうして学んでいくものだろう。

そして地域社会が子どもたちを守り育てていたのだと。



それはそうとして、

今まで構築してきた確固たる社会構造が破壊され、今までの観念が覆され、さまざまな要因で社会が不安定になったりして、

大人たちがつくる社会の問題を解決できなかったりしていたら、子どもの社会にも影響が及ぶ。

「いじめ」に対する「戦い方」を教えられていないのと同時に、

「生き方」が教えられていない。



どのように稼ぐか、儲けるかは「生き方」ではない。

自然と一体という人間の本来の「生き方」である。

「生きる方法」を知っていたら、「生きる」ために死を選ぶことはあっても自殺はしない。




もう一つ疑問がわいた。

人間に自殺することを教えたのは誰か。


[ 2013年05月27日 21:30 ] カテゴリ:ビー太郎日記 | TB(0) | CM(0)

消えゆく「人間」的知性=家畜人


新しく購入したパソコンがLED仕様で、昨年末から頭痛と目の痛みがひどくなり、度付のブルーカットレンズのめがねを新調してなんとか治まったもののやっぱりインターネットは向いていないと思うのこのごろである。

けれど、文字で綴る日記が長続きしないのに、これはこれで続いているのはどういう訳なのか。



5月23日の東京新聞朝刊第7面「論壇時評」覧に


大人のメディアと子どものメディア
消えゆく「人間」的知性


佐藤卓己(さとうたくみ=京都大学院準教授、メディア史・大衆文化論)

の記事が掲載されていた。

この論文は雑誌に掲載された論文の批評をしている形になっている。

そして、「新潮45」6月号の特集記事のひとつ濱野智史(はまのさとし)の「信者でもアンチでもなく」の」論文を大いに褒めている。


以下引用。


人間至上主義は、ウェブ技術が人間、すなわち理性的な主体を強化すると考える。

つまり理性的市民が熟議する「電子公共圏」の成立をウェブに期待するわけだ。

だが濱野によれば、ウェブは「人間」的ではなく「動物」的な知性を強化する。

それは「食欲」のグルメサイト、「性欲」の萌え系サイトなどで驚くべき「集合知」が蓄積されていることからも明らかだろう。

もちろん、これに反中嫌韓サイトなどの「破壊欲」を加えてもよい。

つまり、ウェブは熟慮する大人よりも即決する子供に適した技術なのである。

他方、機械至上主義者はウェブ上に蓄積された「ビッグデータ」のマイニング(解析)で人間行動の合理的予測を夢見る。

(中略)

濱野は、こうしたデータ解析も「動物」的な行動の分析には有効かもしれないが「人間」的な行動への適用では役に立たないという。

(中略)

その意味では、大人メディアである新聞雑誌を読む「スローな知性」の方が、ウェブ上の「ファスト的な知性」よりも実際には役立つといえるのかもしれない。

濱野も「人間という動物」の二面性を踏まえた技術の使い分けを主張している。


新潮45・6


以上。


人間は、「スローな知性」も「ファスト的な知性」も両面もつ生き物である。

「スローな知性」はこれこれこうで、
「ファスト的な知性」はこれこれこうで…

とデジタル的な解説で面白くもりたてて、現実ではその中間をとってアナログな生活をしている。


平凡にまとめるとたいていこのようなパターンでおさまるようだ。


私がインターネットはどうも慣れないと思いつつ技術的な面で使用し続けるように、現代はそのようにシステムが出来上がって生活の一部になっているように、道具として使っている。


ここでいうように、ウェブが「動物」的行動する子供に適しているというなら、現代のように生まれたときからインターネットに囲まれてウェブで育つ子どもは「動物」的反応に偏るのではないだろうか。

「スローな知性」とここで言っている新聞雑誌が肝心なことを突っ込まないことに日ごろから歯がゆさを感じているのは、結局、できあいの世界に収まっている感が強いからだ。

それは、社会全体が子供を「人間」ではなく「動物」にしようとしている事に加担しているのではないか。





この項目の前に『現代思想』5月号(特集・自殺論)の伊藤茂樹「子供の自殺を消費する社会」を取り上げ引用している。

「子供はもともと自殺する存在とは見なされていない。 動物が自殺しないことから明らかなように、自殺という行為はきわめて人間的なものである」


現代思想5月号


ここでは

(子ども=動物)→自殺しない


となっている。


しかし、自殺する子どもが増えているという痛ましい事実がある。

子どもは「人間」なのか「動物」なのか。


動物は本能の範囲で襲うことはあっても、人間のやるような民族絶滅を目論むような殺し合う「戦争」もしない。


人間の知性を失くした動物。

しかし、自然の動物でもない。


人工的動物とは家畜人のことになるのではないか。

そしてさらに考える。

家畜は自殺するのだろうか。






[ 2013年05月26日 17:46 ] カテゴリ:ビー太郎日記 | TB(0) | CM(0)
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