ビー太郎サバイバル日記

武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。「正忍記」その5
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忍者少年の仙人入門(7)「今=中庸」

「仙人入門」の著者は、日本でも中国でもどこでも押しかけて弟子にしてもらっていた。

正規の手順に沿った教授法は著者にとって不要なのかもしれない。

与えられたものに全力でぶつかってゆき、その中で自分なりに解釈し取得していく様子は読んでいて晴れ晴れする。

それだから、仙人も姿を現したのではないか。


「仙人入門」
程聖龍著



から引用する。


…いくら仙人に会いたいと思っても、会えるか会えないかの前に、まず見えるか見えないかで選別されてしまうのかもしれない。

他の仙術修行者と話をしたときも、仙人らしき人物の風貌については意見がまったく違っていた。 私が見たのはいかにも仙人らしい服装で、痩せた髑髏のような風貌をした人物だったが、別の人の話では布袋様のような服を着て、顔も身体も福々しい人物だという。 どうやらそれぞれが自分のイメージに応じて、まったく違うものを見ているらしい。

(中略)

あとで他の仙術修行者に尋ねたところでは、皆同じように空中に浮かぶ彼を見た経験があるという話だった。 すると、全員で揃って催眠術にでもかかっていたのかもしれない。

仙術というのはあくまでも「術」であるため、私も含めて修行者が自分自身の見たものを心の底から信じていなかった。 自分の知覚が誤っているかもしれないという視座を常に抱いたまま、それでも見てしまったものは見てしまったものであるというスタンスで修行を続けていた。

(『仙人入門』、157~159頁)




著者は、軍事訓練にて武術の教授を務めたことがある。

場所は書いていないが、日本ではない。

平和時の話しではなく、平和だった場所が突然戦場になるような国境沿いにゲリラが出没する危険地帯であった。

初めて戦闘に遭遇し命からがら脱出できたものの、この時見たものが何だったのか、仙人のもとへ何度か尋ねて行った。

連絡しようがないので突然行っても会ってくれたようである。



……けれど私が戦場の様子を話し、生と死についての疑問を口にしたとき、彼からは意外なほど素っ気ない返事しか返ってこなかった。

「それがどうしたというのだ」

私は言葉を失った。 彼は淡々と続けた。

「おまえが死んだのなら、話さねばならぬことも、考えねばならぬこともあるだろう。 しかしおまえはこうして生きている。 ならば、それでいいではないか」

それだけで終わりである。 他には見事に何も言わなかった。

死んだのなら、考えねばならないことがある?
しかし、死んでしまったら考えられないではないか。

彼が何を言いたいのかわからぬまま、私は消化不良の気持ちを抱えて山を下りた。

(『仙人入門』、220~221頁)



その後、ゆっくり時間をかけ著者がわかってきたことは、

「過去を軽んじているわけでもないし、未来を軽んじているわけでもない。 内家拳という武術を通して、『今』という中庸の真の在り方を探り続けている」(同、221頁)


ということで、「今=中庸」についての記述を引用する。


世界が「天地人」と「過去・現在・未来」のすべてが渾然一体となって存在するなにものかであるならば、それは中庸の意味を考えさせられる。 中庸とは「何かと何かの真んなか」ではない。 つまり「良い」と「悪い」の真んなかに「ほど良い」があるわけではない。 それを中庸だと考える、その考え方自体が間違っている。 なぜなら「良い」と「悪い」は別々に存在することなどできないからである。 「良い」と「悪い」は一方の在り方が、そのまま他方の在り方を支えているひとつの対概念であり、どちらか一方では存在しえないものだ。 

だから「中庸」とはあっちこっちに存在する「良い/悪い」の中間点を探す作業ではない。 「良い/悪い」の両方が同時に存在している地平を探すこと、それが中庸を見出すということなのだ。

同じように「過去」と「未来」も別々には存在しえないものである。 未来はずっと遠くのどこかではないし、過去ははるか昔のどこかではない。 そして「過去」と「未来」がふたつながら同時に存在している地点が「今」なのだ。

だとすれば今と過去のつながりは、どこかで今と未来のつながりに連なっていく。 今をちゃんとすることが過去を作り、今をちゃんとすることが未来を呼び寄せる。 おそらくはそれが中庸であり、自分の生命を継続させてゆくものとなる。

(『仙人入門』、219~220頁)





著者を通じて仙人の生き方、考え方を私は学んでいる。

まるで禅問答のようなやりとりである。


同じようにトム・ブラウン・ジュニアを通じて、アパッチ族のインディアン・グランドファーザーの生き方、考え方を学び、そこに共通するものがあることを感じた。

だから、友人が私の話を聞いて、この本を紹介してくれたのだと思う。

「生きることの証」をそれぞれが見つけるのであって、どっちが上だとか下だとか価値や優劣判断したり、他人のまねをしなくていいのである。

仙人入門
仙人入門―悠久の大地に生を求めて
東京書籍 (単行本:2000/09)


著者のHP:
程聖龍国術舘

中国武術講座 第2回
中国武術の特徴
http://www.kokujutsukan.co.jp/tokutyou.html
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[ 2013年02月05日 14:53 ] カテゴリ:忍者少年の仙人入門 | TB(0) | CM(0)

忍者少年の仙人入門(6)仙術修行2

仙術修行といっても組手をするのではなかった。

なかには、カイジの高層綱渡りよろしく、谷底から吹き上げる強風の中を岩棚の祭壇に線香を立ててくることを申しつけられた。


「仙人入門」
程聖龍著


から引用する。



手のなかには火の点いた線香がある。 これが消えるまでに祭壇上に上げて、戻って来なくてはならない―その思いすらも消えるまで。

やがてすべてが見えてきた。 自分を取り巻く空間の全体が。

ここに山があり、ここに岩棚があり、風が吹き上げ、自分が座っている。

その全体のなかで、自分が何かをやろうとする―たとえば、線香を上げようとする。

すると、そのことに意識が囚われる。 囚われた瞬間、全体は見えなくなる。 すると、線香を上げることはできなくなる。 つまりは、そういうことなのだ。

(中略)

私が進めなかったのはただ「風が強い」からだけではなかった。 風の強さへの恐れを含めて、あのとき、私は様々な思いに囚われていた。 その思いに深く囚われている間、私は「全体」が見えていなかった。

けれど風がゆるやかになったとき、すべての囚われが消えた。 あるいは、すべての囚われが消えたとき、私は、風がゆるやかになっているのに気づくことができた。

そして私は、立ち上がって歩きだし、線香を上げた。

(『仙人入門』、154~155頁)





もうひとつ岩棚での修行は、タイガーマスクの虎の穴の修行よろしく、逆さ吊りの修行だった。

足を持つのは仙人ではなく高齢者ぞろいの仙術修行者達であった。

前回と今回とのちがいは、線香を上げるという「自分で何かをする余地」があったのに対し、今回は「他社に委ね」なければならない。

でもタイガーマスクと違うのは、悪役レスラー養成ではなかった点はもとより、これもまた、他者がどう感じようと、自分はこうだった、という認識を持つことでいいのだろうと思う。

逆さ吊りにされ下を見た時、著者は見えないはずの山の麓の豆粒のような小さな人間をはっきり見てしまった…という。




なぜ見えたのだろう? このとき、見えるはずのないもの、見えるとは思わなかったものが見えたのは、いったいなぜだったのだろう?

仙術修行で経験した、こうした「ものの見え方」は内家拳の「ものの見え方」に通底していた。

内家拳では「天」で相手を見る練習をする。 天とは「天地人」のひとつであり、地と人とを含んだ宇宙全体の有り様をそのままにとらえようとする眼差しだ。 立禅を行なうときの意識もこの天である。

内家拳は套路(とうろ)や実戦で動くとき、常にこの「天」の意識と眼差しを維持しようと努める。 つまり、自分の体を動かしつつも世界のなかに己を置き、何かひとつのものに注目せずに、すべてを抱合した全体を見る訓練を積み重ねていく。

(『仙人入門』、161頁)



異論はない。 

不祥事や事件が多いのはとかく、自己中心に陥って周りが見えていない場合に生ずる。

武術や武道がスポーツになって悪役レスラー養成修行みたく技や力のみ重視していたら、当然の結果をまねくであろう。

人混みで他人にぶつからず歩けるかどうかも、惨事の中平静を保っていられるのもそうでないのも、こういうところに関係があるようだ。


仙術では、他にも呼吸法を習った。

仙術の呼吸法では、最初に腹式呼吸、次に逆腹式呼吸を行なう。 逆腹式呼吸というのは普通の腹式呼吸とは反対に、横隔膜を引き上げ、胸郭を膨らませて息を吸い、呼吸とともに中丹田に溜まった「気」の塊をゆっくりと下丹田におさめ、、それから息を吐いていく方法である。

「気」というと神秘的で不思議なものという感じがするが、これは、べつに特殊なことをしているわけではない。 「気は意によって導かれる」と言われるとおり、気功とは、、「自分の体を意識でコントロールすること」であり、それゆえに思ったところに気を導けるのである。

こうして養った気を小周天や大周天と呼ばれる身体のなかに巡らせていくことが仙術の呼吸法の主眼であるが、じつは内家拳にもこれとまったく同じものがある。 

気の存在やコントロールは忍術のなかでも知っていたし、内家拳の練習でも仙術の呼吸法に対応する身体の動きは学んでいた。 たとえば小周天は内家拳で行う呼吸法そのものであるし、套路で行う型は身体の動きがそpのまま大周天になっている。 あらゆる武術の伝説的始祖である張三豊が同時に仙人でもあることを考えれば、これは当然と言ってよい。

(中略)


こうして仙術の世界が内家拳と通底するものであることを知り、生と死の近さと重みとに己の身体で触れ、私は武術の世界へと戻っていった。 彼のもとで私が見出したものは、それからの自分の人生を深いところで支える核となった。

(『仙人入門』、163~164頁)


張三豊
参考:
太極拳の祖師 張三豊 (ちょう さんぽう:1247年生まれ)
【大紀元日本1月1日】 (07/01/01 08:00)

http://www.epochtimes.jp/jp/2006/12/html/d66297.html


法輪功の創始者李洪志氏は、あらゆる中国の老師から一子相伝の秘伝をほどこされて、一般人のための功法五つを選び広めている。

その修錬者のひとりに、呼吸はどのようにするのかと尋ねた時、自由で良いとの返事があった。

また、法輪功をするなら、法輪功のみで修錬しなければならないことも約束事である。

他の修錬方法は目的が違うので混ぜては良くないということだった。

分かるような分からないような…。


『仙人入門』の著者が最初に「意識が囚われる」ことを書いている。

法輪功でも「意識が囚われる」ことを誡めていた気がする。

自分がやろうとすることにいちいち理由をつけるようではまだ「意識が囚われる」状態かもしれない。

「意識が囚われる」のがなくなれば、自分のやることが定まった時なのだろう。

[ 2013年02月04日 06:38 ] カテゴリ:忍者少年の仙人入門 | TB(0) | CM(0)

忍者少年の仙人入門(5)仙術修行

私は仙術修行がどういうものなのか想像もしなかった。

この本には著者が仙人から受けた修行をいくつか書き留めている。

それは仙人から課題を与えられ、それを自分がどのように克服し修めるのかで、著者の内面の変化の様子が詳しく述べられている。

まさに、「教えない」教え方[参考:忍者少年の仙人入門(2)]、だった。


その第一が、仙人に案内された洞窟での出口のない閉鎖空間で十日間待つことであった。
しかし、空気は一週間分しかない、と言い残して仙人はいなくなった。


「仙人入門」
程聖龍著


から引用する。


彼の言葉を信用するとしても、時間をどうやって計ればいいというのだろう。 十日経ったら戻って来てくれるとしても、この真っ暗闇の中で、その一日が過ぎたことをどうして確認すればいいのか。

いや、そもそも時間とはいったい何なのだろうか。 何の手がかりもない暗闇のなかで、ある時間が長いのか短いのかを、何を手がかりに決めればいいのか。

パニック寸前の暗闇の中で初めて実感したことがあった。 時間というものはおそらく一定ではないのだ。 子供が過ごす時間と大人が過ごす時間が傍目にはいくら同じでも、それぞれの人間にとってはあきらかに違うように、もともと時間とは個々人それぞれによって、また気持ちの持ちようによって短くも長くもなるものだ。 それはおそらく観念の差であり、意識の仕方で長さは変わってくる。 十日が一瞬にも、十年にも、自分の意識のあり方で変わってくるだろう。

そして私は立禅を始めた。 なんとか世界に触れるあの感覚を保とうとした。

(中略)

―その事実しかすがるものはなかった。 立禅という支えがなければ、暗闇のなかで人格が崩壊していたかもしれない。

(中略)

私はゆっくりと呼吸をするように努めた。 忍術の修行でも呼吸をコントロールする訓練はやっていたので、呼吸数を抑えるのはさほど難しくはない。 ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。 一週間分しか持たないと言われた空気をなんとか十日に延ばさなければならない。 そして呼吸を数えることで時を過ごしていった。 けれど、そうやって暗闇のなかで立禅を続けていると、思いはどうしても山頂で死んでいった人々のもとに立ち返る。

自分は結局、彼らと同じ修行をしているのではないだろうか?
生きるために来たはずなのに、死ぬための修行をしてしまうのではないか?

(中略)


立禅をしている私の手を引っ張り下ろそうとする。 後ろから突き飛ばされる。 殴られる―実際に身体の向きが変わるほどの勢いで、引っ張られたり、思わずよろけるほどの力で突き飛ばされるのだ。 幻覚であることは百も承知しているが、恐ろしいことには変わりはなかった。

最後には全員が身体にとりつき、よってたかってどこかに引っ張りこもうとしはじめた。 私は指一本、ピクリとも動かさないように、必死で立禅を続けた。 どこかが動いたら、そこから連れて行かれる、と直感していた。

このとき、本当の立禅のやり方がわかったのである。

どこも動かなければ、どこも引っ張られることはなかった。 おそらく身体のどこかが動くことが、逆にそこを引っ張られる幻覚になっていたのだろう。

それが幻覚であることは確かだとしても、このとき動いたら、私は死んでいただろう。

動かないはずの立禅で、この対応に気づかぬまま無意識に身体を動かしていれば、わたしは死の世界へと引き寄せられ、自我が崩壊していたはずだ。

身体が動くということは、心が動くことであり、死の世界へと傾斜することだった。 心の揺れと身体の揺れが完全に同調(シンクロ)していたのである。 パニック寸前の極限状態のなかで、私は次第にそのことに気づき始めていた。


こうして闇のなかで立禅するまでは、山に登る修行者の気持ちがずっとわからなかった。 コインの両面なのだと思いはしても、なぜ生の側ではないのかが、どうしても納得できなかった。

けれど暗闇のなかでずっと手を上げ続けているうちに「人が死ぬ覚悟で来るということは、どれほどの思いがあるものか」はわかってきた。 

その感覚がすんなりと身に染みるようになってきたのである。 それが自分とさほど遠いところにあるのではないことも、少しずつ理解できるようになっていた。

この感覚が共有できるようになってくると、精神が安定しはじめた。 すると、最初は私を攻撃し、殺そうと狙ってた人達が、皆、穏やかな顔つきになってきた。

しかし精神が平安を得るのと裏腹に、身体は次第に衰弱して動かなくなりはじめた。

(中略)

時間の経過などわからない。 その時間の長短はほとんど意味がないように思えた。 一瞬も永遠も、同じもののように感じた。


すると真っ暗な洞窟のなかに突然、光が戻ってきた。

ずっと暗闇のなかにいたというのに、なぜか私の目は光で眩(くら)むことはなかった。

その光を見た瞬間、涙が溢れ頬を伝い、ずっと動かなかった手がピクリと動いた。 あらゆる機能が低下し、息を吸うことさえままならなかった身体が、その瞬間動きはじめた。

目の前に彼の姿があった。 帰ってきたのだ。

彼は何事もなかったかのように、涙を流す私を見ていた。


「何度死ぬと思った?」

彼に聞かれ、私は正直に答えた。

「ずっとそう思っていた」

「うん。それでいい」

他にはなにもない。 それだけだった。

多分、生きてさえいればいいのだ。 何を思おうと、どれほど揺れようと、生きていることそのものが、なによりの生の証明である。 問題は常に生き延びることであり、きっとそれ以上の理屈は必要ないのだろう。

それだけの会話を交わし、私の最初の仙術修行は終わった。

(『仙人入門』、144~150頁)



もちろん、あの凍死するような高い山でのことである。

その後、著者は約束の日に仙人に先導されて山の麓へ下りた。

[ 2013年02月01日 22:32 ] カテゴリ:忍者少年の仙人入門 | TB(0) | CM(0)

忍者少年の仙人入門(4)三位一体について

本の筋から離れる。


トム・ブラウン・ジュニアがアパッチ族のグランドファーザーからインディアン古来の生き方の基礎を教えてもらった。

そのつど、自分のものに習得するよう自分で訓練する。

スピリットは、その成長をみとどけじゅうぶん技術が身に着いた頃合を見計らい、本人がビジョンを求め準備し瞑想したとき出てきて次の目的を指し示したという。



忍者少年もまた小学生のころから忍者の師匠がそばについていた。

学校より野山を駆け巡るのが好きだった少年は、押しかけ弟子になりにいった。

当然のごとく拒否されたが、主人以外近づけさせないという忍者犬が受け入れてくれた。

中国で出合った仙人は、誰でも会えるというものでなく、その青年の修行の力量と願いを聞き入れ出てきたようだ。

青年になった忍者少年の願いは仙術を学ぶことだったのでその指導をしてくれたという。






スピリットはどうして人間と係ろうとするのか。

トム・ブラウン・ジュニアの見たスピリットも、忍者少年の見たスピリットも別々であるがスピリットにかわりはない。

それぞれの目的に応じ、指示も違ってくる。

スピリットはひとつではない。

そして、悪魔もまたスピリットである。


しかし、悪魔の目的は人間をこのようなスピリットから逸らし、物質体に束縛し精神的になることをあきらめさせている。

人間=物体
神/悪魔=スピリット


別れさせることで宗教の誕生である。

宗教というと、まずキリスト教が頭に浮かぶ。
現代の人間に近いところにあり、組織立っているからわかりやすい。


三位一体
「父なる神・御子キリスト・聖霊」


ここの「聖霊」とは「悪魔」のことじゃないのか。

自分で「聖」と言ってるじゃないか。




人間はエネルギーを持つ生命体であるとジル・ボルト・テイラーが死の淵で洞察したように、スピリットもまた、エネルギーを持つ生命体であるなら、


人間=エネルギーを持つ生命体=スピリット(悪魔を除く)

となって、人間とスピリットは同次元に存在しているということではないのか。

人間とは、スピリットが物質化して表現されたものである。

やましい考えを持っていると人相が悪くなる。

モノと心は切っても切り離せない…と常日頃感じているではないか。

しかし、心(気)が入らないと、モノは廃れてゆく。
人の住まなくなった家が荒れるのも、手のはいらない里山が荒れるのもそういうことだろう。
自然の力で秩序を回復してゆくのは時間がかかるが、人間の手が入ることで回復力も早くなると、トム・ブラウン・ジュニアは言う。

いったん心が離れたらアバタもエクボでなくなるだろう。


スピリットは物質体を出ていけるので現世に縛られることはないようだ。
悪魔のスピリットは逆に現世に縛られているようだ。

悪魔が地獄を怖がり、寿命を憂い、不老長寿の薬を求めている。


物質世界に精神を注ぎ繁栄を計るのが人間の役割であり、それをすることで、人間もまた成長するものだと考えるようになった。

それが芸術となって人々を感動させたり、英語でLoveと言ったりする。
日本語の表現の方が豊かなはずだ。

だから、日本においては「いかに生きる」ことに重点をおいて「いかに死ぬか」などという発想は普通ではなかったのである。

どこの誰べえが言ったから正しいとか、当たってるとかでなく、まず自分が考えてみることだろう。



参考:akazukinのブログ
人間はエネルギーを持つ生命体 2012-10-01 11:53:49
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-11368270857.html

人間はエネルギーを持つ生命体である(2)2012-10-08 06:58:44
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-11374060063.html
[ 2013年01月31日 22:02 ] カテゴリ:忍者少年の仙人入門 | TB(0) | CM(0)

忍者少年の仙人入門(3)

忍者については、

下忍による政権乗っ取りや、ニセ忍者の霊感商法まがいの詐欺行為が横行したりと、忍者にまつわる話題は秘密めいたところが多く悪事と結び付けられてきた経緯がある。 漫画の忍者はヒーロー扱いで、仕える主によって正義になったり悪になったり中間的な存在で実際どうだったのかよく知らなかったことに気がついた。

アパッチ族のシャーマン、グランドファーザーの話やその技を読んでいるうち、もしかしたら、私は武士とか忍者とか、普通出回っている固定観念から脱却できずにいたのだ。



忍者少年が来年高校卒業を控えていたころ、弟子入りした甲賀忍者の師匠が亡くなった。
兄弟子の忍者犬は、主の死を悼んで絶食し後を追うようにこの世を去った。

そうこの本には書いてある。

そういうこともあって、心おきなく中国拳法の修行に打ち込むことになった。





「仙人入門」
程聖龍著


から引用する。

もともと忍術の修行では「気」で「気」を隠す、つまり自分で自分の気配を抑える訓練をしていたし、なにより内家拳は「気」と「勁(けい)」とを二大支柱とする拳法である。 仙人の練丹(気)法には少なからぬ興味を覚えていたし、内家拳の理論的支柱である仙術がどのようなものであるかを知りたい気持ちも元よりあった。

仙術は山岳修行の一種でもあるため、仙人が住むという山に登るには麓から延々と自分の足で登る以外にない。

(116頁)





内家拳の修行も終わり、いよいよ仙人が住むという山へ案内してもらうことになった。

その山は「最後の修行」をする山で、修行者たちが険しい山を集団をなして登ってゆく。

修行のための山なので、ハイキングコースのように整備されているわけではない。

山頂に到着する前に足を滑らせ「最後の修行」になる人もいる。


無事山頂まで到着したら、寺で一晩休憩し翌朝絶壁の縁に座るのだ。

ここは相当高い山なので座って読経しているうちに凍死する。

「最後の修行」を終えると同時に人生も終える。


忍者少年は「最後の修行」に来たわけではないので、ここで仙人を待ちながら寺の仕事を手伝うことになった。

毎朝毎朝、凍死した体の背中を押して崖の上から下に落として葬る作業である。


滞在予定の一カ月が近付いて、もう仙人には会えないと思ったとき……





そんな単調な日々にも、やがて終わりが近づいて来た。

山麓に迎えの人が来る日があと十日ばかりに迫って来ていた。 僧侶にも寺男にも「仙人などいない」ときっぱり否定されたことだし、ちょうど潮時かもしれない。 少し早いが、もう山を下りようか―などと考えていた頃のことだ。

その夜も、私は登ってくる人を出迎えるために外で待っていた。

寺の前の岩場に出て、右手の下にある登山道から登ってくる修行者を待ち受ける。 いつものように套路(とうろ)をやりながらそれを待っているときに、背後の寺の横にある道が、妙に気になってきた。


物音がしたわけでも、何かが見えたわけでもないのだが、どういうわけだか気持ちがそちらに引きつけられる。

その道を上に登って行くと、西に向いた断崖絶壁の上の岩畳に出る。 修行者が最後の修行を行なう場所である。

(中略)

道は修行場の奥からさらに上に延びて、やがて小さな岩の上に突き当たる。 私はその道の奥を覗きこんだ。

すると、そこに、ぼうっと白い人影が浮かび上がっているのが見えた。

幽霊だ――と、咄嗟(とっさ)に思った。

(中略)

ただ、修行者の霊にしては様子がおかしかった。 着ている服も今まで見たものとは違うし、第一あんな長い白髭を見たのは初めてだった。 髷を結った髪といい、手に持った杖といい、あれはまるで幽霊というより仙人だ。

私はまじまじとその姿を見つめた。 確かに普通の幽霊と少し様子が違う。

その人の姿だけではなく、まわり全体が淡く発光している。 周囲は真っ暗闇なのに、どうしてそこだけ光っているのだろう。 光る空間の境目は闇に溶けこみ、白っぽい姿の向こう側には星空が透けて見えている。 肉体はあるのだが、存在自体がなんだか薄いのだ。

幻灯だろうか? 影絵のように、誰かが私を驚かそうと幻灯を映し出しているのかもしれない。 風が吹いているのに、髪も服も動かないのがその証拠ではないか。

じっとその光を見つめているうちに、私はおかしなことに気がついた。

姿が次第に大きくなっていくようだ。 じっと見ていると、時々、ふわりと光が大きくなる。 不思議に思った私は、少しそちらに近づいてみた。 しかし、光の大きさは変わらない。 やはり大きくなったのは気のせいなのか――と思った瞬間、またもやふわりと大きくなった。

やがて、その「幻灯」は呆気に取られている私の目の前に立った。

その姿はまさに仙人そのものだ。 ただし、風貌が変わっていた。 何と言えばいいのだろう、まるで髑髏(どくろ)にそのまま目を嵌(は)め込んだように見えるのだ。 それとも、やはりこれは私を迎えに来た幽霊なのだろうか?



ぽかんとその姿を眺めていると、その幻灯は手にした杖を持ち上げて、私の肩にそっと触れた。 その瞬間、凍える寸前だった身体がパーッと温かくなった。 ガチガチに固まっていた身体があっと言う間に楽になる。


やはり死ぬのだろうか? そんな思いが頭を過(よぎ)る。 凍死寸前で、今まで感じたこともないくらい身体が楽になって――つまり危ない状態になって――ついでに幻覚を見ているのかもしれない。 けれどこちらを覗きこむ彼の瞳を見た瞬間、途轍もない安堵感が胸に満ちてきた。

(中略)

ああ、これでいいのだ――そんな思いが突然湧き上がった。 この人が仙人であろうと、幽霊であろうとかまわない。 こんな目をした人なら、もう、何があってもそれでいい。 すべてを受け入れよう。

そう思ったとき、仙人めいたその人が杖を差し出してきた。

「ついて来い」

(『仙人入門』、135~138頁)




著者は仙人との出会いの場面をこのように書いている。



仙人とは人間の身体を持たないが、必要に応じて姿を見せてくれるスピリットのようなものだろうか。

仙人が自分で名のったわけでもなさそうだが、仙人と断定できたのは、その出で立ちからだろうか。

仙人とはこのような格好をしているというのが昔からあって、実際会うことのない私たちはその姿をイメージする。

そのイメージが形をつくる…ということか。

最初にみた髑髏に目玉がついたような風貌がそのままだったのか、最初のみだったのかどうか何の説明もないが、そのようなことは真意がわかればたいしたことではないのかもしれない。■



[ 2013年01月29日 14:38 ] カテゴリ:忍者少年の仙人入門 | TB(0) | CM(0)
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