ビー太郎サバイバル日記

武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。「正忍記」その5
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震災のおきみやげ /3 全体意識で「本来の自己」を見ること

現代社会において、対象としてしか見なかったものを、震災で破壊されたガレキを通して全体意識で見ている詩人の話をした。

対象意識は鏡に反射する姿を見、
全体意識は鏡の背後を意識する。

このガレキ文化は、虚構の世界を「対象意識」でしか見ないことかもしれない。




佐々木さんは、この講演会の最後に聴衆に向けて一つ課題を出した。

あくまで記憶で書いているので、本当にそういったのかどうか定かではない。



ある農業青年の手記を読まれた。

この青年は何回か同じ会報誌に連載で自分の農場の生育日誌や観察したことを普通に書いていたそうだ。

何回目かになると突然書く内容が変わったと言う。


彼が昔、インディアンの儀式に参加した体験談を書いていた。

スエットロッジを作ったとか、断食して瞑想したとか……



これは、ちょうど私が読んでいたトム・ブラウンの本の内容と似ていると思った。


青年は確かに苛酷な儀式によって、何か霊性なものを得たと確信した。

そして日々の生活に戻り、

また、儀式に参加し、

そんな生活を繰り返していた。



佐々木さんはここで一つ指摘した。

この青年は、インディアンの苦行に似た儀式をすることで超自然と霊性を感じることが体験できたといっている。
そして、思考から霊性は得られないと思ってしまったようだ。



何が問題なのだろうか。

もちろん、青年が感じた霊性はどのようなものか知らない。



ここで、トム・ブラウンの「ヴィジョン」の内容を思い浮かべた。


私は、シャーマンはいわゆる降霊術をすると思っていたのだが、トム・ブラウンによれば霊が自分に直接降りてくるのでは無いと言っている。

訳のわからない霊が降りてきて霊に支配されてしまうことを、むしろ嫌っている。

また、シャーマンとは自分でなるものではなく、適性で選ばれるようだ。



以下引用。



通常、体はマインドによってコントロールされているが、人生にはそのような制御では対応できないことが起こる。 体が最大限の力を発揮しなければならず、マインドと体の相互作用がすばやく対応できないような緊急時には、この「動物」が呼び出されるのだ。

中略

ある特定の状況においては、論理的な思考より、本来の動物的な勘の方が正しいこともある。 なぜなら、分析をしている余裕などなく、反応(リアクション)し行動(アクション)するしかないからだ。 このような状況下では、マインドは事実上姿を消し、何が起こったのかに関しては漠然とした記憶しか残らない。 そして、人間は動物となり、動物のような行動に出たり、恐ろしい声を上げたりする。 コントロールを失うと凶暴なけものになってしまうことすらある。

中略

グランドファーザーはこの人間の中の「動物」を、私たちの「潜在的な過去」、「本能」、「原始的な第六巻」、または「直感」というものを引き出す突破口、あるいは入り口として使っていたのだった。

中略

自己の内部へと入り込むそのようなコミュニケーションは、やがて、「自己」の領域を超え、ついにすべてのものに生ける精霊の世界とのコミュニケーションを可能にした。 というのも、自然界にもっとも近いところに存在し、論理的な思考を超えた力や真実を理解できるのは、「本来の自己」であるからだ。

(『ヴィジョン』、トム・ブラウン・ジュニア著、徳間書店、114~118頁)




「動物」を越えたところに「本来の自己」があるといっている。

「本来の自己」は「直感」の世界で、「自然の命の力と同じ場所に存在する」(同上、121頁)といっている。



全体意識を訓練して自分をコントロールできるようでないとシャーマンの儀式をしてもシャーマンになれない。

もし、儀式だけを続け本能を目覚めさせることが出来たとしても、それは、自分でコントロールの効かない怪物、例えば「超人ハルク」のようなものになってしまうかもしれない。

「超人ハルク」はヒーローとして描かれているが、これは誤誘導である。



アスペンがハリウッド映画「アベンジャーズ」の分析で「超人ハルク」がメシアであるとしたとき、私はどうしてだろう…と思っていた。

他にかっこいいヒーローはたくさんいるのによりによって、なんでハルクなんだといぶかった。


参考:akazukinのブログ
映画「アベンジャーズ(The Avengers)」が示すイルミナティの腹づもり
2012-06-20

http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-11282613388.html


しかし、これでよくわかった。

超人ハルクは本能のみ開花させた未熟な人間の姿だったのだ。

イルミナティは巧妙にも、そのようなメシアとしての存在を人間の潜在意識の中に前もって仕込んだのであった。

これから出てくるメシアの一種として。



現代は早く超能力をつけようと儀式を重要視する。

その落とし穴は、安易に力を手に入れたい欲望と認識の未熟さにあると思った。


人間は日々の日常生活の中で能力を高めている。

それは非凡な日常生活を精神的に高めていった、かつての日本人の生活の中に散見できる。

日本人だけでなく人間生活の営みであれば、そのようなものであると思っている。

人間は最初から「本来の自己」である全体意識を修得するように生まれ生きてきたのを、それを見えなくさせているのは唯物論的虚構生活ではないだろうか。
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[ 2013年03月06日 22:30 ] カテゴリ:震災のおきみやげ/佐々木和子 | TB(0) | CM(0)

震災のおきみやげ/2 現代という鏡

前回、「鏡」について書きたいと書いた。

といっても、ここでの鏡は、「自己意識的全体意識」を意識させる鏡であって、モノとしての鏡でも宗教で取り上げられるような象徴としての鏡でもない。





佐々木和子さんの表現では、

このガレキを見た詩人の照井良平先生は、災害に遭遇してその廃墟となった、さっきまで生活していた跡地をさまよいながら、その状況を「鏡」にして自分を見ておられた。


この場合、ガレキが鏡になった。

何ごとも起こらなければ、ガレキをガレキと見るでしょうが、あの震災の後、
ガレキに自分を投影された。

そして、その周りに目をやり、意識を移した。

ガレキとなったモノの元の姿や、破壊の力や、見えない結び付きを感じられた。

詩人はそのように見えないものをことばを通して詩に託した。

話しは違うが、芸術とはこういう状況下で生まれるものかもしれない。




「鏡」は反射したものを映すように、モノの表面しか見せない。

その裏側は見られないのである。

当たり前の事だが、実際は裏も横もある。




現代社会は、この鏡のような世界である。

科学も物理も、この表面しか見ようとしていない。

科学も物理も自然を証明する一部でしかない。

新たな発見がなされるときは、その表面の背後に関心を持った時である。








もっと、大きく目をやると、月は鏡である。

この月は、自転しないのでいつも同じ面を向けている。

裏は見えないが、裏も存在する。

地球に向けている面は太陽の光で反射して、その光が地球に届いている。

光だけでなく、月に反射して地球に降り注ぐ宇宙線も存在する。


月を見てその周りを意識してみる。
餅つきするウサギを捜さなくてもいいから、月の存在に注意を払う。

月は太陽系の中にあり、地球の衛星である。



かつて、月を中心に陰暦を作った人々がいたが、現代は太陽暦が主流である。

日本も中国から学んだとき、陰暦を使ったが、西洋から学んで太陽暦に替わった。

同じように、暦の数え方は、どこを中心にするかで変わってくる。

別に、太陽や月だけでなく、他の星を起点にすえれば、また別の暦ができる。

ただ、現代はなんといっても太陽が中心の時代である。

月は太陽が無くなれば、到達する光もなくなり反射することもしない。

太陽あっての月なので、その逆はない。

月はなくとも太陽は自分で光っているのである。



日本人が陰暦から太陽暦に乗り換えるすばやさは、単に新しい進歩した習慣というだけでなく、そのモノの本質を、時代の到来に沿うものとして感じたからかもしれない。







「自己意識的全体意識」は直感にも似ている。

鏡に囲まれた部屋で自分を映し出すだけで、その背後や関係を見ないでいるのが現代社会のようだ。

意識を自分に向けたら自己主義になる。

意識は外へ向けるものである。



[ 2013年03月02日 22:33 ] カテゴリ:震災のおきみやげ/佐々木和子 | TB(0) | CM(0)
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