ビー太郎サバイバル日記

武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。「正忍記」その5
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正忍記 その4/忍兵(忍び)の品の解説

〈武道選書〉
忍術伝書 正忍記


藤一水子正武著
中島篤巳解読・解説
新人物往来社 
平成八年八月二十日初版発行





以下、中島篤巳氏による解読・解説。




【忍兵(忍び)の品の解説】


「忍びには唐間、嚮導(きょうどう)、外聞、忍者、盗人の五種があり、技術をよく修得した独行独人を一単位の忍びとすべきで、二人、三人と組んで忍ぶことは未熟者が手かせ足かせとなってよくない。 よい仕事は結局一人の錬士の働きによることになる」として五種の忍びについて説明している。 ただしこの項は史実に誤りが多いので、読み下し文の用語解説を参照していただきたい。



一、唐間

正忍記は「中国の忍びの起源は軒黄帝(黄帝:こうてい)にまで遡(さかのぼ)るという。 “左氏伝”(孔子の魯国史記録書“春秋"に五家五種類があり、そのうちの戦国中期の左丘明による春秋)では忍びを長(諜)と言い、後には細作と呼ぶようになった。 (殷の)湯王(とうおう)の臣下に伊尹(いいん)という者が周(殷)の紂王のもとに忍び込んでこれを亡ぼしたという。 また呉王闔閭(こうりょ)の臣下である孫武は五間(後述)をもって戦術を練った」という。


ここで述べられている「黄帝」とは古代中国の伝説上の五聖帝の最初の一人で、後漢以降になって黄帝は神仙術や道教で神格化されたために幅広い信仰を集めている。 興味深いのは忍びの原形に少なからず関与したと思われる中世の職能集団である香具師(やし)の守護神が「神農」という点である。 神農は他にも中世香具師とは共通項であるが、薬師の神でもあり、薬売りは忍びが最も得意とした職業の一つでもある。 その神農は中国古代の伝説上の帝王であり、皇帝との重複が示唆されているところでもある。 すなわち正忍記の記録から読み取れる「忍び―中世職能集団―黄帝信仰」の連鎖は、一部ではあり得ることだろう。

忍びを「最初は諜(ちょう)、後に細作(さいさく)などと呼ぶようになった」とあるが、他にも遊偵、水破(透破:すっぱ)、徒破(つっぱ)、乱破(らっぱ)、軒猿(のきざる)、三つ者、出抜、忍び、郷談、間諜、遊子、行人、姦細、間など忍びの呼称は国や時代によって異なる。

歴史的には殷の湯王が討ったのは夏の悪虐王桀王(けつおう)であり、紂王(ちゅうおう)ではない。

「史記」(第三巻、殷本紀)によると、紂王は殷代最後の王となっており、この紂王に関しては藤一水子の認識に誤りがある。 しかし間違いとはいえ、これだけの論陣は藤一水子正武の教養の高さを物語るものである。

孫武は「孫子」の著者とされている人物であり、孫子は日本の兵法では諸流において必ずといってよいほど引用されており、兵法のバイブルである。

その孫武が使い分けた五間、すなわち「五品の間」に関しては「孫子」の「用語」編を抜粋して参考に供しておく。

「間を用うるに五あり。 

郷間あり、内間あり、反間あり、死間あり、生間あり。 

五間共に起こりて、その道を知ることなく、これを神紀となす。

人君の宝なり。

郷間とはその郷人によりてこれを用うるなり。

内間とはその官人によりてこれを用うるなり。

反間とは其の敵の間よりてこれを用うるなり。

死間とは的に委つるなり。

生間とは反り報ずるなり」。


さて「唐間」についてであるが、正忍記では五つの間をあげて次のように述べている。


“因口の間”とは、敵国の言葉を使いこなして、敵国人に成りきる間者で、日本の“奪口忍”と同じ。

“内良の間”とは敵国人を味方の間者として引き込む。
ただし敵も同じように間を仕向けるので、こちらから敵の偽間者を仕向けるので、こちらから敵の偽間者を作ってうまく使うもよい。 これは日本にもあるが、慎重に用いなければならない。

“反徳の間”とは敵の忍びを味方につけることである。 日本では“反り忍”という。 敵の忍びを見破る方法は下忍に不似合いな利口なことを言ったり、過ぎた道理をいう者などは、皆教えられてきた者と考えてよい。

“死長の間”とは一命に変えて目的を達成する間者である。 それ故に充分に恩を施してやり、ここぞと思うときに忍ばす。

“天生の間”とは敵国に潜入させて、そこで生活させておく。 以上五間を日本で“忍び”という」

以上は唐間即ち中国の間者についてである。 正忍記の忍びの種類は続く。



二、嚮導(きょうどう)

いわゆる案内であるが、これは土地の者が確かであり彼らと打ち解けるのが一番よい。 昔、佐々木三郎盛綱は浦の男と親しくして白鞘巻(しろさやまき)の太刀などを与え、馬を渡すことが出来る浅瀬を教えてもらったのも嚮導の類である。



三、外聞(がいぶん)

目的地に入り込むのではなく、周辺の噂などから情報を収集する。 しかしそれが間違いかどうかを注意しなければならない。



四、忍者

日本の間者で常にあぐねることなく、また昼夜の別なく忍ぶ。 盗人との違いは、忍びは私欲で物を盗まない。 名人ともなるとどんな所でも忍び込み、道が無くても無事に帰ってくる。 術の奥は深い。


五、盗人

不敵なやからで道理をわきまえない。 目先の理にとらわれて大局を失う。 結局は盗みで身を亡ぼすという語るに落ちる連中である」




この項ではすでに「忍者」「忍びの者」という言葉が使われている。


(『正忍記』解説、33~35頁)




黄帝の頃より忍びはあったと、語る。

アメリカ・インディアンのサバイバルの技術がちょうど忍者の技術と似ているといわれるように、人類の誕生とともに生活するうえで備わっていたものかもしれない。

日本の場合、縄文一万二千年といわれるごとく、平穏な日々が続いたことだろう。

忍びの技術が古代中国から伝わったというのは、戦術における技術と考えられないだろうか。

推古九年(601)、新羅の間諜者を捕え…云々は、その戦術が日本にも必要とされた時期、

日本に居ついた渡来人が戦術を教えたとも考えられる。




『正忍記』
名取三十郎正澄/藤一水正武(ふじのいっすいまさたけ)丈夫著
巻頭言 勝田何救斎養真
延宝九年(一六八一)

解読・解説 中島篤巳
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[ 2013年02月27日 21:00 ] カテゴリ:正忍記 | TB(0) | CM(0)

東京を兵糧攻めにすべし!

とは、なんていいことを思いついたのだろう。

けれど、少々誤解を生むかもしれないので説明したい。

前日、「食糧難迫る」の冊子の紹介を書いている中で、私が参考に付けた農林水産省の都道府県別自給率を見ていたらそんなことを思いついた。

もちろん、現実にはそんなことをするわけではない。

そんなことをしないのは、自分にも弱点があるように、次にこっちの弱点を攻められることになる。

だから、相手をやっつけたとしても自分まで滅ぶことになりかねない。


またはお互い足りないものを提供し合って共に発展していることを心得ているので、

そんなこと考えたこともなく、お互いさまの心情が現われ、持ちつ持たれつつの関係でいる。

それが自然から学んでいる相互依存の考えである。


…と、似たような考えの者が、お互いの間(ま)を計って取引している分には良かった。


しかし、最近の傾向として悪い言い方がされる。

馴れ合いになる…という。

馴れ合いを避けるために客観的視点だとか科学的にだとかいわれるわけだが、その客観的視点が私的視点だったりするから世の中言葉でごまかされている。

利権や金が絡むとこうなる。



相互依存と反対に、一方的に負担を生じさせられたり、要求をつきつけてきたのが、
これまでの戦争のもとではないのか。


戦略を立てるなら相手の弱点を狙うのは常套手段ではないのか。

兵糧攻めは、城壁で囲む部族の格好の攻め方である。

囲いの無い自然の中で暮らしていたら兵糧攻めなどできない。


そのような者にとって、弱点を攻めるのは卑怯だと言われないのは、それは勝つのが主目的だから、弱肉強食の西洋悪魔主義に侵されている考え方である。

敗者を奴隷にしたり、植民地にしたり、西洋の戦争は力による征服であった。

民族を根絶やしにするまで攻め入った。





なんとなく日本の戦国時代が思い浮かぶ。

武将が乱立した時代。

誰が強者か、誰が覇者なのかよくわからない。

視点を変えてみればどれも魅力的な人材がそろってて、だけど勝者は誰なのかといったら、一人ではないだろうから返事が出来ない。

敵になったり味方になったり、わけがわからない。

要は好き嫌いの部類で選択できるほど多様で、現代の性格判断に使われてしまうくらいほのぼのしてしまう。



戦争を肯定できる場合は、悪魔との対決。

今、テロリストを悪魔と言っている。



日本における悪魔との対決。

古代における国盗り合戦の始まりである対シラギ戦。

この時のシラギは今朝鮮半島に住んでおられる方々とは種族として違うようである。


大東亜戦争も植民地主義に対する西洋悪魔主義との戦争である。


そして、織田信長の本能寺の変。

これは意外!
いま思いついたから。

布教に来たイエズス会士が最初に近づくのは権力者である。

日本でも同じことである。

朝廷ではなく、武将に取り入ったのはその証拠ではないか。

日本での布教の許可を求めたのは織田信長にであり、許可を出したのも彼である。

織田信長は、キリシタンにならなかったといえども、宣教師から知恵を授かり、天下統一へ乗り出す野心を抱くようになったのは、イエズス会の悪魔的教義の影響と考えざるを得ない。

イエズス会士に代わってワンワールドを成し遂げようとした実力者……。


明智光秀が謀反を侵したという説と、そうでない説と両方ある。

特に調べていないが、

私はまた別の流れを考えた。

織田信長の行動は日本的でなく行き過ぎたものだったために、各武将が結託し織田信長を討つ算段をする。 明智光秀ひとり歴史に汚名を遺す形になったのは、謀反の形にすれば他の武将にはおとがめがない、という日本的発想をした…と。

誰か一人に罪をかぶせて、世の安泰を図ることは今でも良くやっていることでは。

[ 2013年02月25日 20:40 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

「日本に食糧難迫る」山本貴美子著

「日本に食糧難迫る」
山本貴美子著

平成25年1月、改訂第5版発行

食糧難


これは30頁強の冊子である。

これまで、

平成5年8月『必ず来る恐るべき食糧危機』
平成10年8月『食糧危機迫る!」
平成24年1月『食糧難を想定せよ』
   同年2月改訂、改々訂 12月、改訂第4版

をさらに改訂したものである。




2008(平成20)年に山本健造氏は94歳でお亡くなられたあと、奥さんの貴美子さんが今回のTPP問題を踏まえ改訂版を出された。




ここでの主張は

米の自由化に負けないために、
貿易立国日本を二重価格制で支えよ

二重価格制で国民が農業を支え、貿易立国日本を支え、科学技術の研究・道徳・先進国日本を支え、さらに世界と世界平和に貢献するのです。

備蓄を急げ

(同書、30頁)

食糧難裏

お問い合わせ、販売先:福来出版

名  称  一般財団法人 飛騨福来心理学研究所
代表理事 山本貴美子
所 在 地 〒509-4102 岐阜県高山市国府町八日町702番地
連 絡 先 電 話 0577-72-2486(応答可能時間=平日8:00~12:00 / 13:00~17:00)
      メール info@fukurai.net

http://www.fukurai.net/book/book.html

おりしもTPP交渉参加表明の日米共同声明文が発表された。


経済システムに政治システムが合わせるような形で、日本が工業化していったのは今さら始まったことではない。

工業立国を目指すとともに農地が転売され干潟が埋め立てられ漁場が奪われドンドン環境が悪化してきた。

安全な食べ物が失われ、人々が不健康になっていった。

環境破壊が進めば、どうなるのか考えなくても当然の原理である。

今回のような人的圧力が加われば、さらに加速する。




日本はいま足りないものは輸入でまかない不足はないように見えるが、輸入が止まればたちまち食料は不足する。

TPPに参加し、農業人口が減れば耕作農地も減り、さらに自給率が下がったところで、輸出を止められたら、日本の兵糧攻めはたやすい。

その前に農地が日本人でない外人に渡ってしまうかもしれない。


世界地図における食糧危機でなく、日本全国でまずどこが食糧危機になるかと言えばそれは農地の無い都心部である。

東京に地方から食糧の流入を直ちにやめ、東京を兵糧攻めにすべし。

と、そんな案が浮かんできた。

人間であれば、そんなことはしないだろう。

相手が人間でないから問題なのだ。

法律やシステムに人間的善処を要求しても、人間でないからどうなのだろう。

日本の食料自給率
http://www.maff.go.jp/j/wpaper/w_maff/h21_h/trend/part1/chap1/c1_03.html

このデータは災害後に変わっているかもしれない。
[ 2013年02月24日 23:31 ] カテゴリ:ビー太郎日記 | TB(0) | CM(1)

「被差別部落」という呼称は本当の問題を薄めてしまう

私もいままで「被差別部落」と書いていたが、どうもこの言い方に問題があるようだ。

「被差別部落」という地位を特定されてしまったようだ。


この名称が使われだしたのは明治の「明治4年太政官布告第61号」からだという。

私がakazukinのブログで書いた、

「はじめに「被差別部落」へ落とされたのは、シラギ神もしくは出雲神を崇拝しなかった日本人たちであった。」
「暴かれた古代史」から読み解くもの(8)被差別部落 2010-10-19
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-10681612010.html



と本(『暴かれた古代史』)に書いてあったのでそのまま引用したが、「被差別部落」と当初は言わず、「賤民」、「穢多(エタ)」だったのだ。

「エタ」は「ヒエッタ」由来で、もとは飛騨族のことであると、山本健造氏は言う。


それが「同和」問題に拡大解釈されたがために、本来の「穢多(エタ)」問題が薄められてしまったような印象である。

「同和」と聞くと、まず「在日」を思い出してしまうほどだ。


日本人は差別されたとあまり騒がない。

何故、騒がないのかといえば、一つに全体思想を持っていたからではないだろうか。

全体(一体)思想は自然宇宙を含めたものである。

まったくそうだという方も、かすかながら、そのようなものを感じる人でもちゃんと受け継いでいる証拠である。


仮に、自分が被害に合うという問題が起きた時、その問題の根拠なり原因を突きとめそれを正す行動はするだろう。

しかし、自分がこんなひどい目に合ったから賠償しろと、いつまでも言わない。

こんな目に合う人は自分かぎりでやめてほしい、とか、再発しないよう要求する方が多いのではないか。


ユダヤ人や朝鮮人はマインド・コントロールに罹っている割合が多いとしか思えない。
奴隷を経験すると罹りやすくなるようだ。

奴隷根性を代々受け継ぐのではなく断ち切る意志の強さが必要だ。
でないと、子孫にまで影響し不幸を招くことがわからないのだろうか。



「被差別部落」という呼称は国民同士を対立させる目的で明治以降、時の政府によって導入されたように思える。
時の政府は、すでに西洋悪魔主義思想や共産主義思想が入り込んでいる。

それ以前は、「賤民」問題での対象は「穢多(エタ)」だったのだ。

明治になっての処置は、いままで、そのような待遇受けた人々は大きな前進だと大喜びしたかもしれないが、現代になっても終わらず、ますます差別の対象が広がり、問題がすり替えられてくると、思いどおりに理解されているわけではなく、良いように利用されるということだ。

目先のことで、大極を見失わせる。



最近また、将来問題を起こしそうな嫌なニュースが目につく。

政府主導の「国民総背番号制」や東京都渋谷区では「B型肝炎ワクチンの0歳児助成」、その前には「子宮頸がんワクチン」の助成制度が設けられたり、そんな国民に不利益になることばかりがやすやすと導入されている。

先の「住民基本台帳」で慣らされたので今度はそんな反対の声も上がらないどころか、外国人の生活保護費の支給の問題で逆に賛成するように誘導させられているようにもみえる。

国民の自然治癒力や免疫力を低下させる環境悪化や食品添加物をばらまいて、病気にならないよう化学薬品で予防するという愚の骨頂。

病気になることは、警告である。
その警告の原因を正さないといけない。

そんな目先のことで、また大極を見失わないよう、
自分で自分の身を守る時代の到来である。
[ 2013年02月22日 20:43 ] カテゴリ:部民(部落)/伴 | TB(0) | CM(0)

正忍記 その3 當流正忍記の解説


先の序において忍術の由来を書いている。

推古八年(600)、新羅と大和とは臨戦体制にあり、新羅の間諜者を捉えた、という記録が残っているという。

間諜は、大陸由来の言い方でスパイみたいなものである。

推古八年とは、隋に遣隋使が送られた年である。
朝鮮半島のシラギでは任那との戦争が始まり大和はそれに加勢した年である。


新羅と大和との関係は、「暴かれた古代史」をベースに参照して仮説を立てる。
インターネットではakazukinのブログのカテゴリー「飛騨高天原」のなかに少々まとめた。


私が忍者に興味を持ったのは、紀元前、飛騨山脈の山から寒冷化によって国府を大和に遷都した飛騨族が、大和政権をシラギ出身の豪族に握られ、その周りに飛騨から移住した人々が居住していた、とこの本に書いているからである。

そして、出雲シラギ神崇拝者の追手から天皇の印である「八咫鏡」をトヨスキイリ姫が持ち出して逃れ、倭姫に引き継がれ現在の伊勢に落ち着くまでの道筋にこの伊賀と甲賀の領内が含まれている。





滋賀県の琵琶湖のほとり「お多賀さん」と呼ばれる多賀大社がある。

飛騨から大和へ降りてくるさいの途中にヒルメムチ(天照)の先祖であるイザナギ・イザナミを祀ってある。

尾張名古屋にはサルタヒコを祀る熱田神宮がある。

サルタヒコも古い飛騨族の先祖である。

これらの勢力圏があれば、倭姫は逃げおおせたのであろうと考える。


倭姫

倭姫命世記
http://www.yamatohime.jp/html/page_c.html


当時は忍者とは言わないだろうが、敵対勢力に太刀打ちできるような兵(つわもの)が揃っていたのではないかと思えてきた。

それでは、なぜ大和政権を攻撃し、政権を奪いかえさなかったのだろう。

天皇が人質だったのか、うまく融和されていたのか、わからない。



「八咫鏡」が何故三種の神器で天皇の印なのか、融和していたなら倭姫がそれを持って逃げたというのは何故なのか、融和していなかったとしたらどのような待遇だったのか、わからないことだらけである。

この時はまだ「天皇」という呼称もなかったようだ。

大陸文化と混ざり合って神器を作ったのか、または、インディアンのシャーマンのように修行を終え資格を持つものに授けられたものなのかどうか。

どこにも記述がないのでわからない。

それとも何か、先住民の人間がひそめなければならない時代の流れが存在したのか。




〈武道選書〉
忍術伝書 正忍記


藤一水子正武著
中島篤巳解読・解説
新人物往来社 
平成八年八月二十日初版発行






以下、中島篤巳氏による解読・解説。


【當流正忍記の解説】


「日本の忍びは古くからあるが、その名前を知ることが出来るのは、源義経が勇士を選んで忍びとして使った」とある。

この勇士とは「伊勢三郎義盛(いせのさぶろうよしもり)」とその一党であろう。

彼は伊賀国伊那古村才良(ざいりょう)で生まれ、焼石小六と名乗っていた鈴鹿の山賊であった。 義経と主従関係を結び、忍歌「よしもり百首」として知られた存在である。

その歌は「万川集海」にも多くが引用されている。

義経自身も陰陽師鬼一法眼に剣や兵法を伝授された京八流忍術の祖ともいわれている。

義経流に関しては「義経流忍術伝書」「当流忍衆覚書語之抄」「忍大意」などがあり、その基本は山伏兵法でゲリラ戦を得意とした。


正忍記に続いて「建武(けんむ)に至りて楠正成等数度これを遣(つか)う」と記している。

ここでは鎌倉時代末から建武中興、南北朝騒乱の時代に公権力に抗して諸国で暴れまわった中世の「悪党」の存在に注目しなければならない。

著者は「組織化された日本的な忍びの母体は中世の悪党である」と考えている。詳しくは拙著「忍術秘伝の書」(角川選書)を参考にしていただければ幸いである。




引用者注

建武中興(けんむのちゅうこう)
醍醐天皇(ごだいごてんのう)が鎌倉幕府(かまくらばくふ)をたおし,天皇(てんのう)中心に行った政治(せいじ)。

あくとう【悪党】

歴史的には鎌倉後期から南北朝期にかけて,秩序ある体制を固めようとする支配者によって,夜討,強盗,山賊,海賊などの悪行を理由に,禁圧の対象とされた武装集団をさす。《峯相(みねあい)記》によると,悪党はそのころ山伏や非人の服装であった柿色の帷子(かたびら)を着て,笠を被り,面を覆い,飛礫(つぶて),撮棒(さいぼう),走木(はしりぎ)など,特有の武器を駆使して,博奕や盗みをこととし,荘園などの紛争がおこると,賄賂をとって一方に荷担しつつ,状況によっては平然と寝返るなど,奔放な活動を展開した。
http://kotobank.jp/word/%E6%82%AA%E5%85%9A




楠正成は伊賀忍びを使っていたとされており、ここで黒田の悪党を考えなければならない。

それは強大な地侍連合体として東大寺支配に反抗し、主流が北伊賀の服部氏と南伊賀から河内にかけての大江氏である。

服部氏は平安初期から台頭し、平家側に付いて栄え、その頃には既に忍家として知られていたという。

服部家は少彦名命(すくなひこなのみこと)と金山媛(かなやまひめ)の二神を祖神とし、それが貞元二年(九七七)に伊賀一の宮である敢国(あえくに)神社に合祀されたということは、早くから服部は伊賀全域を席巻するほどの勢力に成長していたことになる。

大江氏は河内の豪族で、平安期の文学博士である大江匡衡(おおえのまさひら)を祖としている。

その子の匡房(まさふさ)は有名な漢学・兵法学者であり、また鎌倉幕府の政所別当の大江広元(おおえのひろもと)も突出した存在である。

忍術の服部と兵法の大江とが、この伊賀の地で結びついたらどうなるかは想像に難くない。

なお源平時代に活躍したのは服部家長であるが、それと同時代にこの地で大きな勢力を持っていたのが百地氏である。

鎌倉末期は文永・弘安の役で幕府の経済状態は最悪となり徳政令が発せられたほどである。 

それに追い打ちをかけるようにして後醍醐天皇は討幕の旗揚げをしたが、元弘の変に敗れて笠置(かさぎ)山に逃れた。

笠置山は山城国の南端にあり大和国に接し、足下の木津川と伊賀街道を抑えて京都と奈良・河内への動脈を掌握し、情報の流れの要である。

(後醍醐)天皇の笠置山逃落に呼応して楠正成が挙兵したことは諸家の知るところである。



楠正成が始めて史料に登場するのは「臨川寺領目録」(天龍寺文書)の正慶元年(一三三二)六月の記録の「悪党楠兵衛尉」という記載である。

それは臨川寺に施入された和泉国若松荘に悪党楠正成が兵糧米調達のための略奪を行なった時のことであるが、その頃には既に伊賀者を配下に置いていたようである。

面白いのは、南北朝騒乱期に山賊という忍者集団の原形が(正統)権力と結び付くことによって、「正義」となったわけで、ここで組織立った新しい忍群の方向付けがおこなわれたことになる。

正成は山に籠もって忍者的ゲリラ戦を展開して幕府軍を幾度となく撃破し、その過程が忍術の体系化に大きく貢献したことは想像に難くない。

楠氏の勢力範囲は摂津、河内、和泉であり、その系統は伊賀と関係が深い。 久保文武氏は伊賀上野の上嶋家本「観世系図」の観阿弥清次に付された「母河内国玉櫛庄橘入道正遠女」という記載に注目し、楠氏と伊賀との関係を明らかにした。


玉櫛庄(たまくしのしょう)は楠氏の庄(「荘園」に同じ)であり和泉、河内、摂津の中央に位置した奈良街道の要衝である。 

また橘入道正遠は楠正成の父にあたり、正遠女は「服部」姓をつぐ伊賀浅宇田荘の治郎左衛門元成のもとに嫁ぎ、観阿弥清次を生んだという。

これは楠氏と伊賀との関係、さらに忍びと猿楽芸能民との関係の深さを示唆する事実であるという。


正忍記は「北条氏康が風麻(ふうま)という盗人に知行を与えて各地を探らせ、甲州の信玄はスッパ(従者・透波)という盗人を使った」とある。

風麻(ふうま)とは風魔小太郎であり、相模国足柄下群風間(かざま)に生まれた、風間という地名から風魔を名乗り、その名を世襲したという。 

ラッパ(乱波)は関東で使われた言葉で、この小田原北条氏の風魔は北条ラッパである。


また「その後、伊賀の甲賀というところの住民に忍びの術が伝わった」と記されている。

著者蔵の稲葉丹後守道久が盗写したというもう一つの正忍記にも「伊賀の甲賀」とあるが、歴史のなかで甲賀が伊賀に属していたということはなく、正忍記の著者である藤一水正武の地理的誤解と考えられる。

忍びに地理的誤解は致命傷ともいえることで、これは藤一水子は伊賀や甲賀とは何ら関係ないということであり、正忍記と伊賀流忍術の関係の希薄さを意味するものである。

ただし、この二つが接する所は忍びの世界では非常に重要な地域であり、事実、互いに交流や相互扶助の掟があったという。

「彼らは一群一味の約束をしている。 忍びとして各国で雇われていても、彼らは固い神文を交わして散っており、お互いが助け合うようにしなければならない。 すなわちもし自分が探索に行ったら、彼はその国の秘密を教え、逆に彼が来たら自国の秘密を教えてやる。 しかし子孫の代になると相手が分からなくなるが、この場合は家にある証拠の松明が目印で、これを示されたら決して疑ってはならない」

とあり、これは常識ではついて行けない忍びの哲学でもある。

もっとも、密約は使用者側も知るところとなり、忍びは重要機密事項を教えられなかったという。

この項は忍びの生き様の凄まじさを感じるところで、忍びと主君との主従関係より忍び同士の関係を重要視し、お互いが秘密を教え合わなければならないという。

ただし上に立つ者は全面的に忍びを信頼してはいなかったようで、極秘事項は味方の忍びには決して教えなかったのも事実である。

古く孫子の「用間」にさえも、、「聖智にあらざれば間を使うこと能わず」とある。

正忍記は「今世の中に忍びの流儀が流れているが、これらはみな盗人の家伝であり、当流こそ忍びの正道である」と結んでいる。

このことは、忍びの多くが盗み盗賊の類であり、またこれが忍びの原点であったということも示唆しており、結局、「当流正忍記」こそ正しい道であると主張せざるを得なくなったのであろう。

「斬取(きりとり)強盗武士の習い」とはいえ、このような正義を主張する記載は万川集海、忍秘伝などを始めとする多くの伝書に見られるパターンで、忍びに悪行をさせないことの難しさが伺えるところでもある。

(『當流正忍記の解説』22~25頁)



『正忍記』
名取三十郎正澄/藤一水正武(ふじのいっすいまさたけ)丈夫著
巻頭言 勝田何救斎養真
延宝九年(一六八一)

解読・解説 中島篤巳
[ 2013年02月21日 14:40 ] カテゴリ:正忍記 | TB(0) | CM(0)

中国は新世界秩序の一部なのか?

ヘンリー・メイコウのニューズレターから
http://henrymakow.com/2013/02/is-china-part-of-the-new-world.html


Is China Part of the New World Order?
中国は新世界秩序の一部なのか?
February 16, 2013
周小川

金融寡頭権力の銀行家、周小川(しゅう しょうせん)中国人民銀行(中央銀行)総裁とクリスティーヌ・ラガルド(Christine Lagarde)は、世界統一通貨(World Currency)の準備に入った。

(本文から)
米国帝国は金融寡頭権力ではない。
中国の勃興に対しての米国という、おなじみのパターンにはまっている世界政府並びに管理された対立をけしかけられている金融寡頭権力の代理人である。




by Anthony Migchels
(henrymakow.com)



中国が、英米(Anglo-American)帝国主義の実際の競争相手になるか新世界秩序(New World Order)に組み込まれるかは、多岐にわたって不明瞭である。


金融寡頭権力側がとうの昔に中国(Land of the Dragon)の指導者を取り込んでいることは疑いの余地がないことだ。


金融寡頭権力が国民を決められた向きに誘導させる道具があることを歴史が教えている。 それらの痕跡は、中国じゅうにある。


この記事の著者(St. John Bartholomew)による中国を牽引する指導者という優れた分析では、マルクス主義者が金融寡頭権力の工作員であること、毛沢東がそれらに指示を出していたということを思い出させる。 毛沢東は、イェール大学の中国学科で教育を受けたことは明白である。 イェール大学のスカル&ボーン結社はアジアで非常に活発に活動し、毛沢東は多分そのメンバーであっただろう。 彼が送り込むアメリカの外交官の大半も、そうだった。


バーソロミュー(Bartholomew)氏によると、三合会(the triads:中国マフィア・秘密結社)を設立したのはフリーメーソンで、19世紀まで中国を統治していた清朝に対する対抗処置であったのは、ひと財産築くための品物が何もなかった英国が中国に売りこもうとした阿片に抵抗していたからだ。


三極委員会(大西洋ビルダーバーグ会議に類似したロックフェラー会議)の会員名簿には、中国人の名前が散在している。


周恩来

周 恩来(しゅう おんらい)とヘンリー・キッシンジャー -中国がどのように米国に代わるのか、点心をとりながら議論する。


MONEY SUPPLY:通貨供給量

もうひとつの指標は、中国の通貨供給量である。 中国政府は、通貨供給量を公式に所有している。 利益がどうなっているか、完全にはっきりしているわけではない。


しかし、中国政府は金融寡頭権力の管理下にあるので、実際の付加価値はそっちの方へ行くことになっている。 それは、目的にかなっている。 政府も金融寡頭権力が望むように好況と不況を操作できるし、事実そうやってきた。 皇帝たちは、債務帳消しに現金を印刷した。


中国人は金(Gold)で元(yuan)を下落させようと動いているし、金融寡頭権力者たちは金本位制をけしかけることは明らかだ。 一方、中央銀行総裁、周小川(Zhao Xiaochuan)は、国際通貨を求めている。 彼はロックフェラーがスポンサーを務める主要な中央銀行総裁と研究者からなるグループ、G30 (Group of Thirty)のメンバーである。 以上のように、ドルに対抗するものは、金融寡頭権力に対抗するものと同一ではない。


中国は、全国際政治機構(international governance organizations)のロイヤル会員である。


さらに、金融寡頭権力は、これまでの数十年間、ヨーロッパ、特に米国からその製造部門の相当数を中国に移転させた。 その重要な戦略的資産がそこで全く安全であると確信できるのか、疑いがあるというのに?



CHINA'S RISE AND ITS IMPLICATIONS:中国の台頭とその影響


中国の増強は、西側(特にアメリカ)の産業空洞化という数十年前の計画を踏まえないといけない。 中国に与えられたということは、どこか他からとられたということだ。


この増強もまた、実は典型的操作方法の手口(M.O.)で、米国の技術とお金が冷戦中に確実たる『脅威』を創るあげるために、どうやってソ連邦を構築したのか考えることだ。 サダム・フセインは、別の例だ。 彼は、中東を征服するための戦略の一部として後で利用するため権力を強くさせられた。  またイランは、中国経由で運ばれた西洋/イスラエルの技術で、増強させられた。


中国の台頭は、多くの危険性をはらんでいる。 中国の国家主義は未成熟で、簡単に火がつくからだ。 北京は内部に驚くべき圧力を忍ばせ、これらの圧力を噴出させるのにうまく外部の『敵』を利用する。  取るに足らない小島をめぐる日本との最近起きた対立は、その好例である。


金融寡頭権力が19世紀にヨーロッパ全体を指揮したように、現在、多極化した世界を監督する。


それがどのようにヨーロッパで完全に終焉したのか、私たちはわかっている。 これまでより多くの偏執病者同士がお互い向かい合って同盟を固く結び、その罠から脱出することができないでいる。 ひとつの暗殺が導火線に火をつけるのに十分だった。


NATOが直面するロシアと中国の上海協力機構(Shanghai Cooperation Organisation)、最も親密な関係になったパキスタンとイラン、同じことは今日でも見られる。



CONCLUSION:結論


中国は、非常に典型的な形につくり上げられている。 あらゆる点で私たちが事実であると認めていることは次の通り、通貨供給量、資本主義(Capitalism)、マルクス主義、『秘密』社会の影響下で高利をむさぼっている中国が牽引する国際路線。


米国帝国は金融寡頭権力ではない。
中国の勃興に対しての米国という、おなじみのパターンにはまっている、世界政府並びに管理された対立をけしかけている金融寡頭権力の代理人である。


著者アンソニー・ミケルス(Anthony Migchels)は、無利子通貨(nterest-Free Currency)活動家でありGelre(ヘルレ:オランダの最初の地域通貨)の創設者です。 彼のブログReal Currenciesで記事の全てが読めます。


Related:

Colonial Elite Rules China for the Illuminati (Bartholomew)

The US Empire is not the Money Power!

Bloomberg, the dying Fed and the birth pangs of the new Gold Standard---


【翻訳:タドン】


関連記事:akazukinのブログ
すべてを所有するわずかな銀行
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-11313904652.html
[ 2013年02月19日 13:50 ] カテゴリ:ヘンリー・メイコウ | TB(0) | CM(0)

人間という全体意識

この課題を考えるきっかけは、昨年の暮れから今年にかけて起きた。

以前よりうすうす思っていたことはあったが言葉にならなかった。

言葉におとすまでにはそれなりの経験の積み重ねと経過が必要であるということかもしれない。



飛騨山脈が日本列島で最初に海から顔をだし、そこに人間が天孫したということを話された山本健造氏がおられた。


「飛騨天孫族」という名称はそこから由来する。

「天孫」というと、今風に言えば上から目線のように聞こえるが、そういうわけでもない。

宇宙全体意識世界から物質世界に降りてきた人間の進化の過程との考えでもって、この世界にでてきた状態をコトバで現わしたのかもしれない。

堕天使がルシファーだという表現もうなずける。



宇宙全体の意識のようなもの…それを日本人の先祖はアマノミナカヌシノミコトといった。

トム・ブラウン・ジュニアはキリスト教で成長したので造物主(翻訳者訳)といった。


そのアマノミナカヌシノミコトが妙見に変えられたのも興味深い時代の流れである。


ダーウィンの進化論は物質世界のそのまた一部を言っているに過ぎない。



人間は、もとから全体意識を持っている。

その全体意識を持って生まれ出たのが人間で、出てきた場所がこの地球世界である。


それは縄文人であったり、シャーマンと呼ばれる人たちとその集団であったり、世界中にちらばって存在していた。


一般的にはアフリカで人類が生まれたことになっているのも、一部はそうだったかもしれない、というもので、物質界における人類は代々人種や民族または地域で遺伝的に受け継がれるものがあるだろうが、精神意識の世界においては生れ出てからの教育による成長過程で変わってくる。

ひとりひとりが全体とつながっていたし、ひとりひとりが自分の持つ才能をそのつながりのなかで伸ばしていった。



ある地域に宗教が生れた。

その宗教は他の地域にも広まっていった。

宗教が道徳的役割で全体意識を担っているうちはよかったが、

その宗教を通じて神権国家が形成されると奴隷と支配者とに分断された。

歴史の誕生でもある。


私たちはその歴史を学校で教えられる。



ジルボルトテイラーが自分の病気を克服して「人間はエネルギーを持つ生命体である」と洞察したことも、
トム・ブラウン・ジュニアがアパッチ族の古老のインディアンから、自然界でおこる波紋を読み取り全体意識を理解したことも、

日本人が全体意識を使って大陸から流入する文明を取り込み日本化して精神文化というものを新しく形成していったのも、

全てこの全体意識を感じるが故の所業とみる。


現代は悪魔の宗教がはびこり、悪魔のシステムが働いて、悪魔の世界を形成させるよう加担させられているように見えるが、人間がこの全体意識に気づき行動すれば変わってくると信じている。

今そのまっただ中にいる。



これはルドルフ・シュタイナーの人智学をよりどころに、私がこれまで見聞きし勉強してきた認識を構成した。
これを念頭に、今後も進めていく。

言葉の綾や些細な違いは、想像力を働かせてもらいたい。

もちろん、もっともだという考えに出合えばいつでもそれを受け入れる。


[ 2013年02月17日 13:00 ] カテゴリ:ビー太郎日記 | TB(0) | CM(0)

正忍記 序の解説


〈武道選書〉
忍術伝書 正忍記


藤一水子正武著
中島篤巳解読・解説
新人物往来社 
平成八年八月二十日初版発行



前回は解説者[中島]による、「はじめに」を抜粋した。
この本のだいたいの位置づけがかわった。

中島篤巳(なかしまあつみ)略歴

1944年山口県生まれ。

大阪大学卒・医学博士

伯蓍流柔術宗家、古流武術範士八段 空手道教士六段師範 天心古流挙法免許 天心古流捕手術皆伝 浅山一伝流体術免許 神伝不動流体術皆伝 不遷流柔術免許 その他

平成八年(1996)現在。[本書奥付]


と、何て読むのかわからない流派が並ぶ。
その他、スポーツ医。日本山岳会会員でもあるらしい。

『正忍伝』の構成は、

現代語に直したところは以下のように三つに分けている、

読み下し文
注釈文
解説文



本書の後半は原本(国会図書館蔵)の写しが挿入されている。


本文の四部構成は、大雑把に分けると次のようになる。

正忍記 序 (歴史、種類、生活の心得)
正忍記 初巻(技術編)
正忍記 中巻(心理・周辺環境編)
正忍記 下巻(心に関する奥義)


ここでは、中島氏の解説文を抜きだし序と下巻から引用して、実際の忍者の性格や考え方をおさえておくのが目的である。




『正忍記』
名取三十郎正澄/藤一水正武(ふじのいっすいまさたけ)丈夫著
巻頭言 勝田何救斎養真
延宝九年(一六八一)



以下、中島篤巳氏による解読・解説。



【正忍記 序の解説】


正忍記序には巻頭言から當流正忍記伝法の条件までが含まれる。 まずは巻頭言である。

「藤一水正武(ふじのいっすいまさたけ)丈夫が忍兵の書を丁寧に書き上げたが、その術策たるや隠怪であり、これをもってすればどんなに優れた人物でも術中におとし込むこと自由自在、まさに隠形夜来の仙術のようである。 私はこの書の序文を請われたが、忍兵の術を知らない素人で無才である。 固く辞退したが結局許されなく、やむを得ず一言だけ蛇足をつけさせて頂いた次第である。

延宝九年(1681)初秋三日
紀州藩士 勝田何救斎養真

これを書く」



とあるように、正忍記は藤一水正武によって書かれたものであり、紀州藩士である勝田何救斎養真が巻頭言を添えている。

正忍記、万川集海(藤林保義)、忍秘伝(服部半蔵)は俗に忍術の三大秘伝書と言われているが、巻頭言を第三者に託して書籍らしく体裁を整えているのは正忍記だけである。

この勝田何救斎養真が如何なる人物であるかは、文章力や用字法からしてかなり教養のある和歌山藩士で、かつ巻頭言を依頼されるほど高い地位にあったと考えられるが、残念ながら詳細は不明である。

その教養の武士は「忍びの術は策謀の指針であり、軍師にとっては軍略の鍵である。 進退利害に関することだから、武士たる者は決してこの術をないがしろにしてはならない」

と、忍術は忍びだけでなく武士も心得ておくべきであると強調している。

「しかしそれは困難の極致にあり、また仮に警護の者に尋問されても、些(いささ)かも動じることなく明々朗々とし申開くことが出来るほどの精鋭でなければ諜報謀略は出来ない。 人選を間違えると、敵に兵を貸したり盗人に食料を与えるようなもので、かえって有害である。 忍びは人選に気を付けて訓練をしなければならない」

と忍びに力量、人間性などで最高の人物を当てるべきであるといい、また忍びの使い方を誤った時の危険性の注意をうながしている。 余談であるが、史料の「冠に兵を籍す」の出典は『史記』の「李斯(りし)伝」であり、「兵」とは武器という意味である。

なお呉子の「用間」の項には、「三軍の事、交わりは間より親なるはなく、賞は間より厚きはなく、事は間より密なるはなし」と、

間者には決して裏切られないように手厚くしてやらなければならない旨が記されている。


正忍記巻頭言は「それ忍兵の術たるやその来ることひさし」と始まっているが、この節だけを読み込んでみると次のようになる。 すなわち『忍術」の語源は「忍兵の術」に由来し、「来ることひさし」と歴史も古く大陸伝来のものであるということを示唆している。

確かに忍びについての記録は古く、最古のものは日本書記(巻二十二、推古)である。 それには「九年九月戌子、新羅の間諜者“迦摩多(かまた)”対馬に到る。 すなわち捕えて云々」と記されており、勝田何救斎養真の教養の高さからすれば日本書記程度の書は読んでいたはずである。 巻頭言の「来ることひさし」とはこの史実を意味するのではないだろうか。

これは西暦六〇一年の出来事で、その背景には大和朝廷の任那(みまな)復興政策が関与している。

すなわち推古八年(600)には境部臣(さかいべのおみ)を大将軍として朝鮮半島に出兵し、新羅軍を撃破した。 翌年には来目皇子(くめのみこ:聖徳太子の同母の弟)を撃新羅将軍とした二万五千もの軍隊が組織されるなど当時は新羅と大和とは臨戦体制にあり、新羅の間諜が日本に潜入したということは充分納得できる。

内政的には聖徳太子と蘇我氏との抗争があり、太子が斑鳩(いかるが)の里から飛鳥の動きを伺うべく使った忍びが伊賀の間者で大伴細人(おおともさびと)といわれている。

太子は彼を志能便(しのび)と呼んだという。

日本書記の孝徳天皇紀には斥候を「ウカミ」と訓じており、類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう)には間諜を「ウカミス、伺見」とある。

さらに時代を下り、天武天皇は大和の多胡弥(たこや)という忍びを使ったということも知られているところである(「釈日本紀(巻十五、述義)」)。


(『正忍記 序の解説』、中島篤巳解読・解説、16~18頁)
[ 2013年02月15日 10:39 ] カテゴリ:正忍記 | TB(0) | CM(0)

『先祖になる』

東京新聞より記事を抜粋。
このような記事を心待ちしてたんだ。


東京新聞2月14日(木)
朝刊26面(社会覧)

春よ 東日本大震災2年


家再建「先祖のように

陸前高田の78歳 木切り出し
誰かが暮らせば…町に



息子を奪われ、家を失っても、住み慣れた地にとどまる。

岩手県陸前高田市の農林業佐藤直志さん(七八)は東日本大震災で被災した後、自ら木材を切り出して家を再建した。

誰かが暮らさないと復興は始まらない。

「ここに初めて住み着いた先祖のように、俺も住み続ける」と決意する。

(相坂穣)




海から1・5キロの陸前高田市気仙町今泉。

五百五十戸のほぼ全戸が流された集落から、のっぺらぼうになった街並みが見える。

「あそこに電柱が一本立ったべえ。 あっちは消火栓の工事中。 ちょっとずつだけど、復興は進んでる」

白い棟木が映える新築の家から佐藤さんが指をさす。

日々のわずかな動きに実感する。

「この街はまだ生きている」

二年近く前のあの日、消防団の副団長だった長男昇一さん=当時(四七)=は住民の避難誘導に向かっていた。

佐藤さんは避難した高台から、高さ二〇メートルの津波に集落がのまれるのを見て、「ああ、だめだ」と息子の死を悟った。

次男茂さん(四五)の妻の陣痛が始まり、孫娘が生れたのは十二日朝。

家族の希望を託し、希美(のぞみ)と名付けた。

一週間後に昇一さんと遺体で再会するが、

「息子の生まれ変わりのように新しい命が出てきた。 もう泣かねえ」

と誓い、決意した。

「何人戻ってくるか、ここで見届ける」

津波の塩害で枯れた杉林に入り、八十本の木を切り出した。

「こいつは大黒柱。 これは梁に使う」。

十代から身に付けた林業者としての目利き。

その間も避難所に映らず、水につかった自宅の二階でランプをともし、がれきを薪にして自炊した。

家族の反対には「あと何年生きられっかわからねえ、がんこじじいの最後のわがままだ」と説き伏せた。

昨年八月、地元の大工の手で再建。

市職員と話し合い、民家を建てられない災害危険区域から外してもらった。

消防団活動や地元の祭り「けんか七夕」のまとめ役で、「親分」と慕われる佐藤さん。

その姿を見て、同じように再建を目指す住民から「木を切ってけろ」と頼まれるようになった。

「先祖もこんな感じで何人かが群れになり、やがて町になってきたんだ」

今年は内陸の休耕田で仲間と酒米を作り、冬に地酒を造るのが目標。

佐藤さんの活動は「蟻の兵隊」などの映画で知られる池谷薫監督(五四)が追い続け、ドキュメンタリー「先祖になる」を制作。

今月のベルリン国際映画祭に招待された。

陸前高田市は人口の一割近くが津波に命を奪われ、市職員も二割以上が犠牲になった。

復興計画は思うように進まないが、それでも信じている。

「すぐに元通りにはなんねえが、できることからやっぺえ」。

この街はまだ生きている。



一万五千人が犠牲となった東日本大震災から間もなく二年。

被災地はまた、凍てつく冬にさらされている。

それでも季節は巡る。

春よ。

傷が癒え、街が生まれ変わる時よ。

長く曲がりくねった再生への道。

悩み、時に立ち止りつつ、歩み続ける人々の思いを伝えていく。


最後の詩は記者さんの創作ですか?


先祖になる2
『先祖になる』
http://www.rikkyo.ac.jp/news/2013/01/12113/ [立教ニュース]
http://senzoninaru.com/[公式サイト]

※2013年2月16日(土)より渋谷シアター・イメージフォーラムにてロードショー!
[ 2013年02月14日 19:50 ] カテゴリ:ビー太郎日記 | TB(0) | CM(0)

霊感商法=スピリチュアル・ビジネス


以前、悪徳霊感商法「先祖供養」を書いたのは、

日ごろ不安な記事を書いているせいかまともに受けた知人に影響を与えてしまい、その知人が「先祖供養」を始めたことがきっかけだった。

参考:akazukiのブログ
悪徳霊感商法「先祖供養」
2012-09-23 14:35:25

http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-11361999324.html

悪徳霊感商法「先祖供養」 (2)
2012-10-19 23:30:10

http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-11383724578.html

悪徳霊感商法「先祖供養」 (3)
2012-10-23 01:05:45

http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-11386399696.html


いきさつは、記事にした通りで、私は少々反省せざるを得ないが、不安をまき散らしているのは連中の方だとの確信がある。


その他の被害者の方々も勇気を持って立ち上がりそれぞれブログを書き始めた。

最初に指摘した方のブログは削除されたが、銘々が自分のブログで発言しだした。

ブログの削除命令がきても、新しいブログを立ち上げたりと意欲的なのは目を見張る。

「先祖供養」にのっかてしまう方々は、私の知人含め自分の事より人のためと考える人が多いと思う。



その中の一人、「鼻歌さん」のブログの最近の記事に、



参考:「霊と金」 本書を紹介されています。
2013年02月13日(水)

http://ameblo.jp/zizitu21/entry-11469917429.html


という、面白そうな本を取り上げていた。
スピリチュアル・ビジネスと明記し分析している本だ。


著者の櫻井義秀氏は、北海道大学大学院文学研究科教授(社会システム科学)とある。
日本脱カルト教会の講師もされている。

参考:櫻井義秀
http://www.jscpr.org/lecturer/sakurai.htm



他のサイトもググってみた。

「三日坊主日記」から。

参考:櫻井義秀『霊と金 スピリチュアル・ビジネスの構造』5
2012年09月09日
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/75eb2712566b2ebc4273dbffd96517e8


抜粋→「櫻井義秀氏は20人以上の元統一教会信者に聞き取り調査を行っている。」



統一教会だか統一協会だか、で思いだす私の体験がある。


まだ若い時だが、桜田淳子も合同結婚式も騒がれなかった時期。

よく駅前でアンケート調査をしていたのが、そのメンバーだった。

アンケート調査が終わって、近くに事務所があるから話しませんか、とさそわれた。


何教だかわからなかったが、教えられたのは堕落論と原罪論だったのでキリスト教だと思った。

まあ、とにかく人間に罪があるということだ。

4回ぐらい通ったが、不思議なことにいつ行っても鳥肌が立って震えが止まらない。

部屋の中だったから寒いとかでなく、人も親切で怖いとかいう気持ちは持っていなかったのにである。

メンバーにそのことを告げても、「敏感ですね」とかいうが悪いほうにはとらえない。

しかし、その場を離れると治るのだ。


あれから30年。(どこかで聞いたセルフ♪)


特にこのことで、霊能者に見てもらったりとか、守護霊のおかげとか考えなかったし、原因を突き止めようとしなかったが、唯一私の人生における不思議な出来事として気になっている。

むしろ、何かに関連付けて執着しなかったのがよかったかもしれない。

でも、そのように注意を促され、守られたことは確かである。


今では、人間に原罪があるとは思っていない。

罪深い人間に仕立てあげたい意思がどこかで働いているようだからである。


罪深い人間に仕立てあげれば、何かにすがって生きていかなければならず、スピリチュアル・ビジネスも成立しやすいだろう。
[ 2013年02月14日 13:24 ] カテゴリ:ビー太郎日記 | TB(0) | CM(0)

「道」と「道教」

忍者少年の仙人入門を書いているとき、もうひとつ「仙人入門」というタイトルで本を書いている人を見つけた。


高藤聡一郎(1948年~)

こちらはググるといろいろでてくる。

一時期、世間を賑わし仙道ブームの火付け役にもなったそうで今でも関心を持つ人が多いようだ。

といっても、ウキペディアに出てくる著書のタイトルを見ただけでは興味がそそられない。



しかし、本人は日本に見切りをつけて海外に出たきり消息がないようで、

いまどうしているのかわからない…という。


インターネットに出ている情報のみで判断すると、同じ「仙人入門」でも違いは明らかである。


友人が紹介してくれた程聖龍師のそれは、純粋なアパッチ族のインディアンのグランドファーザーに通じるものを感じたし、その考え行動を見て確信したりもした。

本を読む限りその筋道はもっともであるし、より自然に近い。

子供の頃から野山を駆け巡り、身体が動作の感をつかんでいないとこの動きはなかなかできるものではない。

学力偏重、知識優先の勉強法で幼少の頃より英才教育を受けられた方には理解できないだろうし、身体もついていかないので相当の努力が必要であろう。

健全な精神は健全な肉体に宿る…のことわざ通り心と体の動きは瞬時に連動する。

忍者や武士がめざした反射神経は、感じた瞬間身体が動いていることだった。

時代が時代でなかったら、彼らはシャーマンになっていたに違いないと思わせるような身体能力を身につけるべく精進していたようにみえる。

シャーマンになるほど高い精神性がなければ、その技量において働くであろう。


そして高藤氏と比べてみるなら、こちらはかなり人工的で打算的でエゴ的ある。

ちらっと見た感じだが、現代の要望に答えて登場した物質化した仙道が現われたかのような印象をうける。



「道」と「道教」の違いがある。


そうすると、目指す方向も違ってくる。





参考当ブログ:
道はスピリットである

http://akazukinverde.blog.fc2.com/blog-entry-4.html

忍者少年の仙人入門
http://akazukinverde.blog.fc2.com/blog-category-5.html


[ 2013年02月13日 21:38 ] カテゴリ:ビー太郎日記 | TB(0) | CM(0)

続「ロミオとジュリエット」、芸術的生き方とは

※昨日の記事、ひさしぶりの「ロミオとジュリエット」の続き。


最初劇を見る前は「何かの冗談か、パロディか」と思ったように、あまり気のりするものではなかった。

むかし、役者を目指した人であれば願ってもないことだったに違いない。


しかし、このコメントを書いていくうち思い立ったことは、

そのような気のりしない事でも、行くとなったらなにかに興味を引きつけなければならないということだ。

それは、かすかな希望でもいい。



プロとなり、木戸銭をもらえるような芸術の域まで達するということは、

技量もさることながら、客の期待にそうような演技ができることにちがいない。

客もまた、その役者たちが醸し出す雰囲気と交わり、一喜一憂に共鳴して臨場感が満たされ、演じる役者のみならず演出の効果やスタッフともども劇場内が一体となり、劇が終わってもその余韻は続き、その場に居合わせた者たちの生きる糧となる。

…ようなことを夢見る。

脚本がお粗末だったり、役者がそろっていなければ、ひとりスターを配置すれば、お客はそのスターを見に行くだろう。

偉大なスターが一人いれば、観客は他の些細なことは気にしなくなる。

まるで宗教に似ている。



芸術であることは、まわりとの調和と協調がうまくいって、融合し合うことと思っている。

脚本はもとより、

役者のの感受性の表現、

役者と役柄の調和、

役者同士の間のとりあい、

裏方で支える技術スタッフの協力と技量、

客の雰囲気、

舞台と客席の一体感と共有、

終わったあとの余韻、

いいものを作ろうという協調と連帯感、

まあ、思ったことを書きだした。

しかし、舞台鑑賞はしないので、私にはそんな気持ちになったという経験がない。



また、作品制作に当てはめても同じようなことが想定される。

制作活動をしたことはあったが、そのような作品が作れたという満足は得られなかった。

その原因として感受性が足りないと思い、もっと自然に近づこうと決心し農業を勉強しなおしたが、別の方に気を取られてしまって、制作活動から遠ざかることになった。

としても目指した方向は間違っておらず感覚はそのようなものだと思う。

だから芸術的境地を目指し耐えていくならば、それを達成したあかつきに人が神々しくなることはよくわかる。




しかしである、自分がこれは芸術だ! と言ったとしてもまわりとの調和がされていないなら、自己満足にすぎないのみならずゴミである。

自然林を伐採し、その場所と関係ない外来種を整然と植樹し、ところどころに現代彫刻を配置したとしても、私は納得できない。



ロミオとジュリエットに出てくる登場人物の個性がはっきりしている。

役柄と役者が一致していたら感情移入がしやすくなる。

シェークスピア劇では感情への働きかけが強く、その個性が際だっているので、情緒を養うとか自然との調和はあまり期待できず、日本人に物足りなく感じたり西洋人との考えの違いを思い知らされるのではなかろうか。

つきつめれば、両家の和平のために愛が犠牲になるという個人的な狭い了見の話ではないか。

愛がテーマだと言いつつ、愛を生贄にしているようにも見える。


内容に興味がなければ、お目当ての役者を応援すればいいことである。


私の興味は、知人の友人を見に行くということであった。

ところが、その知人の友人は、この劇で一番出番が少ない役で、しかも後半、五分足らずで役目が無くなる。

それまで耐えてきた希望と期待はそこで無くなったわけだから、その後妙にお尻が痛くなって向きや位置を調整していると持っていた袋がガサガサ音をたてたので周りの人は迷惑だったと思う。

見終わった後もどっと疲れが出る。

だから、このような場合、演じる側の方が楽だと言ったのだ。
椅子にじっと座っているより動く方が活性化される。
参加することに意義ありだ。


今、忍者について考えているので、その気持ちを反映させれば、

忍者というのはどんな場面、状況下でも、本心を隠し、まわりに溶けこみ違和感なく一体となるよう心がけるに違いない。
ある意味、芸術的な生き方だ。

[ 2013年02月12日 22:29 ] カテゴリ:ビー太郎日記 | TB(0) | CM(0)

ひさしぶりの「ロミオとジュリエット」

知人に誘われてロミオとジュリエットの劇を見に行った。

といっても、町の文化振興の一環で、町の劇場が協力し区民から配役を募りオーデションして選考し、演技指導してその発表会に友人が出るから観に行こうとさそわれた。

何かの冗談か、パロディかと思ったが、芸達者な素人も増えてきていることだし、町の特徴をアピールするための住民へのサービスなのだろうかと勝手に想像した。

知人に本を借りていたので、会うついでにいってみた。



シェークスピアといえば、私はクリストファー・マーローを思い出す。


一連のシャークスピアの作品の本当の著者は彼だという説を聞いて、そんな話があるのかと驚くとともに妙に納得してしまった。

この時代にこのような戯曲が多く創出された理由は、近代英語がこの時期作られ、その普及のためだったのではなかろうか。


参考:akazukinブログ
謎の男:フランシス・ベーコン(2009-11-09)
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-10384511866.html



普及させるために大衆演劇は、現代のテレビみたいな役割をするだろう。

演劇は大衆がどのように行動すべきかの手本にもなる。

この場合、行動させたいふうに演出したかもしれない。


劇に興味なくても「シェークスピア」と「ロミオとジュリエット」は誰でも知っている。

内容も大体わかっているように、これはくり返し宣伝され、目に留まっている。

ウキペディアで詳細を見るとさらに複雑な様子がわかるが、ここでは簡単にキーワードを上げてみる。



いがみあい対立する名家。

敵同士のゆるされざる愛。

殺人。

復讐。

修道士の仲介、計略。

舞台は霊廟、つまり墓場。

ロミオの自殺(毒死)。

ジュリエットの仮死状態、再生、自殺。

二人の愛の犠牲の上での両家の和解。



キーワードを書きだすと、なんだか儀式のような流れだ。

普通一般の解釈では二人の愛が両家に和平をもたらした…なんて、歯の浮くこと言っているに違いない。

イルミナティ悪魔主義の特徴がわかれば、別に驚くことでもなくなった。


劇の感想はって?

こういうのは、見るより演じる方に限る。

[ 2013年02月11日 23:55 ] カテゴリ:ビー太郎日記 | TB(0) | CM(0)

忍術伝書 正忍記

〈武道選書〉
忍術伝書 正忍記


藤一水子正武著
中島篤巳解読・解説
新人物往来社 
平成八年八月二十日初版発行


正忍記

正忍記「しょうにんき」と読む。

忍者について調べようと思い立って、近所の図書館に行ったらこの本が置いてあった。

この本がどういういわれの本なのか紹介があったので、
解読・解説者による「はじめに」から説明を引用する。



「現存する忍術伝書として必ずといってよいほどよく引用される史料が『正忍記(しょうにんき)』『万川集海(ばんせんしゅうかい)』『忍秘伝(にんぴでん)』。 俗にいう三大秘伝書である。 これらは他の伝書にくらべると、確かにボリューム、内容、体系化などでは群を抜いており、忍術研究の基本書として確固たる地位にあるのはうなずけるところである。 なかでも『正忍記』は『エンサイクロペデォイア・ニッポニカ』(大日本百科全書)でとりあげられている唯一の忍術伝書である。
(『正忍記』、はじめに、1頁)



「エンサイクロペデォイア・ニッポニカ」とは、小学館の「日本大百科事典の」ことなのか外国の日本に関するブリタニカ百科事典のようなものなのかよくわからない。
いままでの忍者関係の本と比べるとなんか読みごたえがあるように感じる。

つづけて、原本の説明がある。



底本とした『正忍記』は延宝九年(一六八一)名取三十郎正澄(まさずみ)〔藤一水子正武(ふじのいっすいしまさたけ)、名取三十郎正武、藤林正武〕によって書かれたもので、国立国会図書館蔵本である。 本書は、全三巻(ただし序、初巻、中巻、下巻の四部構成)、計百二丁からなる美本で、奥付には「寛保三年(一七四三)に名取平左衛門が渡辺六郎左衛門に与えた」と記されているものである。

(同上)



さらに、伝書経路について書かれている。

『正忍記』は紀州忍術の伝書であり、新楠流とも呼ばれている。 天正伊賀の乱で伊賀の忍びは難を逃れて各地に離散した。 その頭領の一人である百地丹波(ももちたんば)は紀州の雑賀(さいが)・根来(ねごろ)方面に逃げて来たと伝えられており、紀州流はその後裔が起こしたものであるといわれている。

ところが、本文解説で触れるが、伊賀流・甲賀流の伝書『万川集海』と紀州流の『正忍記』とを比較してみると、意外なほど思想や方法論において相違点が多いことに気づく。 すなわち紀州流が伊賀流と同じものと考えるには多少無理があるようだ。


紀州流の流祖は名取三十郎正澄(正武)といわれている。 名取家は小幡勘兵衛景憲を祖とする甲州流軍法(武田流、甲陽流、信玄流、甲州家伝などともいう)を家伝としていたが、名取与市之丞正俊はこれを軸に名取流を極め、その後に新楠流、紀州流へと転化させていった。


この紀州流に大きな影響を与えたのが甲州流と鼎立する楠流軍学である。 江戸期は天下泰平でゆとりがあり、武術・軍学の体系化や諸流を育んだ。 戦国時代の楠流軍学は、江戸時代に入ると楠流から南木流、河陽流、陽翁伝楠流などの諸派を分派させた。三代目の名取三十郎正澄(正武)は楠流の一派である楠不伝正辰を学び、さらに島田潜斎、神戸能房、破鑑禅士らに師事し、ついに自らの一流「新楠流」を創始し、新楠流は紀州藩ではその空白の部分、すなわち忍び兵法をもって仕えたともいう。


(同上、1~2頁)



「天正伊賀の乱」は織田信長の天下統一の際、天正六年(1578)と天正九年(1581)の二度にわたる伊賀攻めのことである。
同解説者によるコラムがあるので、別の機会に取り上げたい。

忍術の特徴。



一般的に武術伝書には「口伝」という部分が非常に多いのが普通で、それは忍術伝書となるとなおさらである。 ところが『正忍伝』にいたっては、「口伝に曰く」、すなわち肝心なところは口伝、といった文言が記載されていない。 本書を読み終えてわかることだが、忍術は生きるための術である。 当然のことであるが、柔術や居合抜刀術、槍術などのように戦う方法のみを記した伝書とは大きく異なる。すなわち忍術の対象は他の武術とは比較にならないほど巨大かつ多方面にわたっている。 すなわち「口伝」などの文言を記載しなくてもほとんどが口伝と考えておかなければならないというわけである。

(中略)

『正忍記』序に、「當流正忍記」という項題がある。 注意すべきはここでわざわざ「當流」と記されている点である。 この意味は実に難解であったが、当時は武術は勝つための兵法、斥候、布陣、馬術、射術、剣術等々諸々の総合武術であった点を考慮すると、「當流すなわち楠流軍学の中で、忍びに関する部分の正しい記述」と解するべきであろう。

その理由として筆者(引用者注:中島)はもう一つ別系統の『正忍記』(写)を入手しており、内容的に国会図書館蔵本と大同小異であるが、それには奥付に国会図書館本とは異なった注目すべき記載がある。

すなわち、

「以上は楠流軍学秘書中より盗写せしものにて、決して自考には無之(これなし)、子々孫々に至るも伝えて練習せよ。

稲葉丹後守道久
六十七歳謹書
享保元戊牛水無月下之十日」


とある。

今まで漫然と、『正忍記』は「紀州流忍術の秘伝書」といわれ、独立した一流であるかのように受け止められてきたが、この史料の「楠流軍学秘書中より盗写せしもの」という事実から、『正忍記』は、「楠流軍学の一部であり、項目の内容は斥候・忍びである」と考えるべきであろう。

(同上、2~4頁)



私は武術や忍者について詳しくはないが、なかなか興味深い内容であることに間違いはない。
本書を引用しながら勉強したいと思っている。

[ 2013年02月08日 16:25 ] カテゴリ:正忍記 | TB(0) | CM(0)

シャーマンとイルミナティ悪魔主義


第三諸国で国際協力の現場で仕事をしたとき、現地の人たちが何故豊かになれないのか考えてきた。

農村の生活向上を目的としたものだ。

いろいろ原因が思い浮かぶなかのひとつは社会制度が彼らの生活に合っていないのではないかという疑問であった。

私たちの仕事は、現地の方々を伝統的生き方より新しい社会に慣らすのが仕事みたいなものだ。

現代の社会制度の仕組みを考えると、どうしても国際的な制度に目をやらざるを得ない。

それが、イルミナティについてもっと詳しく知りたいと思ったきっかけだった。

さいわいイルミナティ悪魔主義についての文献も以前に比べると豊富に出回っている。

いつも、不満だったのは、悪魔主義はわかったが、それに対抗するものの概要がつかめない。

悪魔主義が混在している神やGODというものでないことはよくわかる。




古代の昔にあったのだろうか、未来で待っているのだろうか……

こんな事を考えてもらちが明かない。

サバイバルなら、過去や未来というより、生き続けている今の人間になにかを見出さなければならない。




シャーマンや仙人は昔にいたのではなく、今でもいる。

未来で待っているのではなく、現代でも現われる。

いまの人間で心身ともに準備が整えば、出会うことができる。

イルミナティ悪魔主義の存在を信じていて、シャーマンや仙人が存在しないなんてありえないじゃないか。



現代とはどういう時代なのか考えると、

イルミナティ悪魔主義の物質文明の力が勝っているといえる。
精神の物質化で宗教が生れ、依存心・執着心を養い、二者択一で判断される。

「過去・現在・未来」という時間枠の概念は、この時代に起きたものだ。

「ゆりかごから墓場まで」というこの世に生を受けて心臓が動いている間が生きている状態という時間枠も物質文明の悪魔主義の考え方だといえる。

その証拠に純粋なシャーマンや仙人の時間の概念はそれとは別のものである。

「仙人入門」の程聖龍師による「今=中庸」の考え方はわかりやすい。

しかし、このような考え方は現代において一般的でないとされ、時代遅れ、空想話ですまされているのではないだろうか。




イルミナティ悪魔主義はよく奴隷社会、管理社会といわれるが、そのとおり人間をひとつの法則のもと管理しようとする。

そのための学問であり、それを基準に法律を作り、制度がある。
人種、宗教、国家もまた一つに心を執着させるためにそれぞれつくられ、また、他者との対立のために利用される。

えっ、誰に利用されるって?




シャーマンや仙人の考え方は「今=中庸」なので、ひとりひとり生きる目的も違うし、導き出る答えも違ってくるし、何をするのかも違っててかまわない。

シャーマンになれる者もいれば、そうでないものもいる。

しかし、天然自然のもとに生まれた以上、天然自然の法則が存在し、それに逆らうことはそれなりの報復があることで、失敗したり、壊れたり、最悪の場合、死がもたらされるかもしれない。

だが、シャーマンや仙人には「死んだらおしまい」ということはないようだ。

日本の忍者もまた時の権力にあまんずることなく道理に重きを置いていた。


「今=中庸」の考えでいくと、

イルミナティ悪魔主義がいくら勢力を伸ばしても完全に切り替わることはない。

純粋なシャーマンや仙人に生きのびる知恵がある。

[ 2013年02月06日 21:42 ] カテゴリ:ビー太郎日記 | TB(0) | CM(0)

忍者少年の仙人入門(7)「今=中庸」

「仙人入門」の著者は、日本でも中国でもどこでも押しかけて弟子にしてもらっていた。

正規の手順に沿った教授法は著者にとって不要なのかもしれない。

与えられたものに全力でぶつかってゆき、その中で自分なりに解釈し取得していく様子は読んでいて晴れ晴れする。

それだから、仙人も姿を現したのではないか。


「仙人入門」
程聖龍著



から引用する。


…いくら仙人に会いたいと思っても、会えるか会えないかの前に、まず見えるか見えないかで選別されてしまうのかもしれない。

他の仙術修行者と話をしたときも、仙人らしき人物の風貌については意見がまったく違っていた。 私が見たのはいかにも仙人らしい服装で、痩せた髑髏のような風貌をした人物だったが、別の人の話では布袋様のような服を着て、顔も身体も福々しい人物だという。 どうやらそれぞれが自分のイメージに応じて、まったく違うものを見ているらしい。

(中略)

あとで他の仙術修行者に尋ねたところでは、皆同じように空中に浮かぶ彼を見た経験があるという話だった。 すると、全員で揃って催眠術にでもかかっていたのかもしれない。

仙術というのはあくまでも「術」であるため、私も含めて修行者が自分自身の見たものを心の底から信じていなかった。 自分の知覚が誤っているかもしれないという視座を常に抱いたまま、それでも見てしまったものは見てしまったものであるというスタンスで修行を続けていた。

(『仙人入門』、157~159頁)




著者は、軍事訓練にて武術の教授を務めたことがある。

場所は書いていないが、日本ではない。

平和時の話しではなく、平和だった場所が突然戦場になるような国境沿いにゲリラが出没する危険地帯であった。

初めて戦闘に遭遇し命からがら脱出できたものの、この時見たものが何だったのか、仙人のもとへ何度か尋ねて行った。

連絡しようがないので突然行っても会ってくれたようである。



……けれど私が戦場の様子を話し、生と死についての疑問を口にしたとき、彼からは意外なほど素っ気ない返事しか返ってこなかった。

「それがどうしたというのだ」

私は言葉を失った。 彼は淡々と続けた。

「おまえが死んだのなら、話さねばならぬことも、考えねばならぬこともあるだろう。 しかしおまえはこうして生きている。 ならば、それでいいではないか」

それだけで終わりである。 他には見事に何も言わなかった。

死んだのなら、考えねばならないことがある?
しかし、死んでしまったら考えられないではないか。

彼が何を言いたいのかわからぬまま、私は消化不良の気持ちを抱えて山を下りた。

(『仙人入門』、220~221頁)



その後、ゆっくり時間をかけ著者がわかってきたことは、

「過去を軽んじているわけでもないし、未来を軽んじているわけでもない。 内家拳という武術を通して、『今』という中庸の真の在り方を探り続けている」(同、221頁)


ということで、「今=中庸」についての記述を引用する。


世界が「天地人」と「過去・現在・未来」のすべてが渾然一体となって存在するなにものかであるならば、それは中庸の意味を考えさせられる。 中庸とは「何かと何かの真んなか」ではない。 つまり「良い」と「悪い」の真んなかに「ほど良い」があるわけではない。 それを中庸だと考える、その考え方自体が間違っている。 なぜなら「良い」と「悪い」は別々に存在することなどできないからである。 「良い」と「悪い」は一方の在り方が、そのまま他方の在り方を支えているひとつの対概念であり、どちらか一方では存在しえないものだ。 

だから「中庸」とはあっちこっちに存在する「良い/悪い」の中間点を探す作業ではない。 「良い/悪い」の両方が同時に存在している地平を探すこと、それが中庸を見出すということなのだ。

同じように「過去」と「未来」も別々には存在しえないものである。 未来はずっと遠くのどこかではないし、過去ははるか昔のどこかではない。 そして「過去」と「未来」がふたつながら同時に存在している地点が「今」なのだ。

だとすれば今と過去のつながりは、どこかで今と未来のつながりに連なっていく。 今をちゃんとすることが過去を作り、今をちゃんとすることが未来を呼び寄せる。 おそらくはそれが中庸であり、自分の生命を継続させてゆくものとなる。

(『仙人入門』、219~220頁)





著者を通じて仙人の生き方、考え方を私は学んでいる。

まるで禅問答のようなやりとりである。


同じようにトム・ブラウン・ジュニアを通じて、アパッチ族のインディアン・グランドファーザーの生き方、考え方を学び、そこに共通するものがあることを感じた。

だから、友人が私の話を聞いて、この本を紹介してくれたのだと思う。

「生きることの証」をそれぞれが見つけるのであって、どっちが上だとか下だとか価値や優劣判断したり、他人のまねをしなくていいのである。

仙人入門
仙人入門―悠久の大地に生を求めて
東京書籍 (単行本:2000/09)


著者のHP:
程聖龍国術舘

中国武術講座 第2回
中国武術の特徴
http://www.kokujutsukan.co.jp/tokutyou.html
[ 2013年02月05日 14:53 ] カテゴリ:忍者少年の仙人入門 | TB(0) | CM(0)

忍者少年の仙人入門(6)仙術修行2

仙術修行といっても組手をするのではなかった。

なかには、カイジの高層綱渡りよろしく、谷底から吹き上げる強風の中を岩棚の祭壇に線香を立ててくることを申しつけられた。


「仙人入門」
程聖龍著


から引用する。



手のなかには火の点いた線香がある。 これが消えるまでに祭壇上に上げて、戻って来なくてはならない―その思いすらも消えるまで。

やがてすべてが見えてきた。 自分を取り巻く空間の全体が。

ここに山があり、ここに岩棚があり、風が吹き上げ、自分が座っている。

その全体のなかで、自分が何かをやろうとする―たとえば、線香を上げようとする。

すると、そのことに意識が囚われる。 囚われた瞬間、全体は見えなくなる。 すると、線香を上げることはできなくなる。 つまりは、そういうことなのだ。

(中略)

私が進めなかったのはただ「風が強い」からだけではなかった。 風の強さへの恐れを含めて、あのとき、私は様々な思いに囚われていた。 その思いに深く囚われている間、私は「全体」が見えていなかった。

けれど風がゆるやかになったとき、すべての囚われが消えた。 あるいは、すべての囚われが消えたとき、私は、風がゆるやかになっているのに気づくことができた。

そして私は、立ち上がって歩きだし、線香を上げた。

(『仙人入門』、154~155頁)





もうひとつ岩棚での修行は、タイガーマスクの虎の穴の修行よろしく、逆さ吊りの修行だった。

足を持つのは仙人ではなく高齢者ぞろいの仙術修行者達であった。

前回と今回とのちがいは、線香を上げるという「自分で何かをする余地」があったのに対し、今回は「他社に委ね」なければならない。

でもタイガーマスクと違うのは、悪役レスラー養成ではなかった点はもとより、これもまた、他者がどう感じようと、自分はこうだった、という認識を持つことでいいのだろうと思う。

逆さ吊りにされ下を見た時、著者は見えないはずの山の麓の豆粒のような小さな人間をはっきり見てしまった…という。




なぜ見えたのだろう? このとき、見えるはずのないもの、見えるとは思わなかったものが見えたのは、いったいなぜだったのだろう?

仙術修行で経験した、こうした「ものの見え方」は内家拳の「ものの見え方」に通底していた。

内家拳では「天」で相手を見る練習をする。 天とは「天地人」のひとつであり、地と人とを含んだ宇宙全体の有り様をそのままにとらえようとする眼差しだ。 立禅を行なうときの意識もこの天である。

内家拳は套路(とうろ)や実戦で動くとき、常にこの「天」の意識と眼差しを維持しようと努める。 つまり、自分の体を動かしつつも世界のなかに己を置き、何かひとつのものに注目せずに、すべてを抱合した全体を見る訓練を積み重ねていく。

(『仙人入門』、161頁)



異論はない。 

不祥事や事件が多いのはとかく、自己中心に陥って周りが見えていない場合に生ずる。

武術や武道がスポーツになって悪役レスラー養成修行みたく技や力のみ重視していたら、当然の結果をまねくであろう。

人混みで他人にぶつからず歩けるかどうかも、惨事の中平静を保っていられるのもそうでないのも、こういうところに関係があるようだ。


仙術では、他にも呼吸法を習った。

仙術の呼吸法では、最初に腹式呼吸、次に逆腹式呼吸を行なう。 逆腹式呼吸というのは普通の腹式呼吸とは反対に、横隔膜を引き上げ、胸郭を膨らませて息を吸い、呼吸とともに中丹田に溜まった「気」の塊をゆっくりと下丹田におさめ、、それから息を吐いていく方法である。

「気」というと神秘的で不思議なものという感じがするが、これは、べつに特殊なことをしているわけではない。 「気は意によって導かれる」と言われるとおり、気功とは、、「自分の体を意識でコントロールすること」であり、それゆえに思ったところに気を導けるのである。

こうして養った気を小周天や大周天と呼ばれる身体のなかに巡らせていくことが仙術の呼吸法の主眼であるが、じつは内家拳にもこれとまったく同じものがある。 

気の存在やコントロールは忍術のなかでも知っていたし、内家拳の練習でも仙術の呼吸法に対応する身体の動きは学んでいた。 たとえば小周天は内家拳で行う呼吸法そのものであるし、套路で行う型は身体の動きがそpのまま大周天になっている。 あらゆる武術の伝説的始祖である張三豊が同時に仙人でもあることを考えれば、これは当然と言ってよい。

(中略)


こうして仙術の世界が内家拳と通底するものであることを知り、生と死の近さと重みとに己の身体で触れ、私は武術の世界へと戻っていった。 彼のもとで私が見出したものは、それからの自分の人生を深いところで支える核となった。

(『仙人入門』、163~164頁)


張三豊
参考:
太極拳の祖師 張三豊 (ちょう さんぽう:1247年生まれ)
【大紀元日本1月1日】 (07/01/01 08:00)

http://www.epochtimes.jp/jp/2006/12/html/d66297.html


法輪功の創始者李洪志氏は、あらゆる中国の老師から一子相伝の秘伝をほどこされて、一般人のための功法五つを選び広めている。

その修錬者のひとりに、呼吸はどのようにするのかと尋ねた時、自由で良いとの返事があった。

また、法輪功をするなら、法輪功のみで修錬しなければならないことも約束事である。

他の修錬方法は目的が違うので混ぜては良くないということだった。

分かるような分からないような…。


『仙人入門』の著者が最初に「意識が囚われる」ことを書いている。

法輪功でも「意識が囚われる」ことを誡めていた気がする。

自分がやろうとすることにいちいち理由をつけるようではまだ「意識が囚われる」状態かもしれない。

「意識が囚われる」のがなくなれば、自分のやることが定まった時なのだろう。

[ 2013年02月04日 06:38 ] カテゴリ:忍者少年の仙人入門 | TB(0) | CM(0)

忍者少年の仙人入門(5)仙術修行

私は仙術修行がどういうものなのか想像もしなかった。

この本には著者が仙人から受けた修行をいくつか書き留めている。

それは仙人から課題を与えられ、それを自分がどのように克服し修めるのかで、著者の内面の変化の様子が詳しく述べられている。

まさに、「教えない」教え方[参考:忍者少年の仙人入門(2)]、だった。


その第一が、仙人に案内された洞窟での出口のない閉鎖空間で十日間待つことであった。
しかし、空気は一週間分しかない、と言い残して仙人はいなくなった。


「仙人入門」
程聖龍著


から引用する。


彼の言葉を信用するとしても、時間をどうやって計ればいいというのだろう。 十日経ったら戻って来てくれるとしても、この真っ暗闇の中で、その一日が過ぎたことをどうして確認すればいいのか。

いや、そもそも時間とはいったい何なのだろうか。 何の手がかりもない暗闇のなかで、ある時間が長いのか短いのかを、何を手がかりに決めればいいのか。

パニック寸前の暗闇の中で初めて実感したことがあった。 時間というものはおそらく一定ではないのだ。 子供が過ごす時間と大人が過ごす時間が傍目にはいくら同じでも、それぞれの人間にとってはあきらかに違うように、もともと時間とは個々人それぞれによって、また気持ちの持ちようによって短くも長くもなるものだ。 それはおそらく観念の差であり、意識の仕方で長さは変わってくる。 十日が一瞬にも、十年にも、自分の意識のあり方で変わってくるだろう。

そして私は立禅を始めた。 なんとか世界に触れるあの感覚を保とうとした。

(中略)

―その事実しかすがるものはなかった。 立禅という支えがなければ、暗闇のなかで人格が崩壊していたかもしれない。

(中略)

私はゆっくりと呼吸をするように努めた。 忍術の修行でも呼吸をコントロールする訓練はやっていたので、呼吸数を抑えるのはさほど難しくはない。 ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。 一週間分しか持たないと言われた空気をなんとか十日に延ばさなければならない。 そして呼吸を数えることで時を過ごしていった。 けれど、そうやって暗闇のなかで立禅を続けていると、思いはどうしても山頂で死んでいった人々のもとに立ち返る。

自分は結局、彼らと同じ修行をしているのではないだろうか?
生きるために来たはずなのに、死ぬための修行をしてしまうのではないか?

(中略)


立禅をしている私の手を引っ張り下ろそうとする。 後ろから突き飛ばされる。 殴られる―実際に身体の向きが変わるほどの勢いで、引っ張られたり、思わずよろけるほどの力で突き飛ばされるのだ。 幻覚であることは百も承知しているが、恐ろしいことには変わりはなかった。

最後には全員が身体にとりつき、よってたかってどこかに引っ張りこもうとしはじめた。 私は指一本、ピクリとも動かさないように、必死で立禅を続けた。 どこかが動いたら、そこから連れて行かれる、と直感していた。

このとき、本当の立禅のやり方がわかったのである。

どこも動かなければ、どこも引っ張られることはなかった。 おそらく身体のどこかが動くことが、逆にそこを引っ張られる幻覚になっていたのだろう。

それが幻覚であることは確かだとしても、このとき動いたら、私は死んでいただろう。

動かないはずの立禅で、この対応に気づかぬまま無意識に身体を動かしていれば、わたしは死の世界へと引き寄せられ、自我が崩壊していたはずだ。

身体が動くということは、心が動くことであり、死の世界へと傾斜することだった。 心の揺れと身体の揺れが完全に同調(シンクロ)していたのである。 パニック寸前の極限状態のなかで、私は次第にそのことに気づき始めていた。


こうして闇のなかで立禅するまでは、山に登る修行者の気持ちがずっとわからなかった。 コインの両面なのだと思いはしても、なぜ生の側ではないのかが、どうしても納得できなかった。

けれど暗闇のなかでずっと手を上げ続けているうちに「人が死ぬ覚悟で来るということは、どれほどの思いがあるものか」はわかってきた。 

その感覚がすんなりと身に染みるようになってきたのである。 それが自分とさほど遠いところにあるのではないことも、少しずつ理解できるようになっていた。

この感覚が共有できるようになってくると、精神が安定しはじめた。 すると、最初は私を攻撃し、殺そうと狙ってた人達が、皆、穏やかな顔つきになってきた。

しかし精神が平安を得るのと裏腹に、身体は次第に衰弱して動かなくなりはじめた。

(中略)

時間の経過などわからない。 その時間の長短はほとんど意味がないように思えた。 一瞬も永遠も、同じもののように感じた。


すると真っ暗な洞窟のなかに突然、光が戻ってきた。

ずっと暗闇のなかにいたというのに、なぜか私の目は光で眩(くら)むことはなかった。

その光を見た瞬間、涙が溢れ頬を伝い、ずっと動かなかった手がピクリと動いた。 あらゆる機能が低下し、息を吸うことさえままならなかった身体が、その瞬間動きはじめた。

目の前に彼の姿があった。 帰ってきたのだ。

彼は何事もなかったかのように、涙を流す私を見ていた。


「何度死ぬと思った?」

彼に聞かれ、私は正直に答えた。

「ずっとそう思っていた」

「うん。それでいい」

他にはなにもない。 それだけだった。

多分、生きてさえいればいいのだ。 何を思おうと、どれほど揺れようと、生きていることそのものが、なによりの生の証明である。 問題は常に生き延びることであり、きっとそれ以上の理屈は必要ないのだろう。

それだけの会話を交わし、私の最初の仙術修行は終わった。

(『仙人入門』、144~150頁)



もちろん、あの凍死するような高い山でのことである。

その後、著者は約束の日に仙人に先導されて山の麓へ下りた。

[ 2013年02月01日 22:32 ] カテゴリ:忍者少年の仙人入門 | TB(0) | CM(0)
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