ビー太郎サバイバル日記

武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。「正忍記」その5
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ゴッド(神)を議題にすること/その4

GOD ON THE TABLE
ゴッド(神)を議題にすること


人類の精神的な将来に役に立つ議論を試みる

by Michael C. Ruppert
© Copyright 2010, CollapseNet, Inc.

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[周知願います]


その4


SEEING THE DISCONNECT MORE CLEARLY
はっきりと断絶されたものを見つめること



私たちの周りにある十分すぎるほどの証拠から判断して、支配統治下で組み立てられた異常で不当な自由をおしつけられただけでなく、この過程において、唯一の生命の源(地球惑星)を完全に壊しました。 少なくとも、私たちは恥ずべき執事を持つ可哀そうな主人という立場でした。

1970年代から始まった心理学実験は、とてつもない断絶(Great Disconnect)によって引き起こされたと私は考えていますが、根本的な弱点を正直に暴露しています。 ある研究によれば、スタンフォード大学から前もって選抜した健全な大学生の一団は、刑務所の看守と囚人に任意に分けられました。 比較的短い期間で、実験を終了させなければならないほど状況は悪化しました。 残忍性、精神病、破壊行為、対立が増長して延々と続き差し迫った危害の勃発という深刻な有害事象が現われるまで、ますます多くの物理的、感情的な要因が噴出しました。 … そして、避けられない混沌(エントロピー)の最終結果がじわじわ現われてきました。 この実験で何が起きたというと、人間の産業文明と同様に、とてつもない断絶(Great Disconnect)による有無を言わせぬ比喩でした。 

そして、常に新しい解決策を提案することで混沌を作り出します。

この意識の次元では、解決策がありません。

スタンフォード監獄実験


参考:スタンフォード監獄実験[ウキペディア]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E7%9B%A3%E7%8D%84%E5%AE%9F%E9%A8%93

参考:人が悪魔になる時――アブグレイブ虐待とスタンフォード監獄実験(1)
ワイアード記事:2008.3.13 THU

http://wired.jp/2008/03/13/%E4%BA%BA%E3%81%8C%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E6%99%82%E2%80%95%E2%80%95%E3%82%A2%E3%83%96%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%96%E8%99%90%E5%BE%85%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3/


エクスペリメント


この研究は、ただちに退けられました。 それというのも、本質的に創世記第一章(Genesis 1)で定める「善悪(good and evil)」として知られる、人類の内在化した判断基準のとてつもない断絶(Great Disconnect)だったからです。 違いと言えば、通常の部屋を大きくしたのと、やり直し、否定する余地があったことです。

他の国を探検して、征服し、住民を皆殺しにし、資源の略奪をし、ずっと、カテキズム(信仰問答書)を繰り返し唱えていました。 「今度か次の機会にちゃんとやろう、たとえそうしなくても、我々は許される」、 …… もはやそうではありません。



この断絶は、人類誕生の200万年の証である種として保持してきた直感的な生来の知恵と哲学をまさに最後の数百年で断ち切りました。 それは、… あたかも石油を燃料に起動するブルドーザーのように、ロックフェラーが所有する新聞社、またはマードックが所有するテレビ局によって知恵と経験の宝庫を押しのけました。 しかもその断絶は、西洋宗教(すなわち、カトリック、プロテスタントのキリスト教、イスラム教とユダヤ教)の組織力と布教の影響で、ますます強化され容易にされました。



わかった、だけどどうなるの … ?


組織化された宗教は、私たちを恐ろしい危機に至らせるのに主要な役割を果たしました。 この4世紀を通じての産業文明の拡大とこれら宗教指導者の相互関係の歴史を一歩下がって調査すれば、「宗教・信仰(religions)」と政治とお金の都合よい相関関係の共存という見えなかったものがより鮮明になりました。 現実を直視しようではありませんか。  無限の成長規範(paradigm)においてのみ、キリスト教は最高の「ビジネス・モデル」でありました。


おそらく、かつてどこにもなかったことは、1400年代から1800年代まで植民地と富と資源に餓えたスペインと一緒になって、異教徒を転向させ、布教の拡大と改宗を必要としたカトリック教が全面的に支持したことで、この歴史の「居心地よい状態」がよりくっきりと明確になりました。  英国プロテスタントによる異教徒とドルイド僧に対しての冷酷な弾圧は同様に達せられました。 同じことはアメリカの聖書にも言われており、先住民を悪魔主義者に仕立てるというとてつもないウソをついて、1800年代に北アメリカで「神に誓って」彼らを皆殺しにしました。 またはキリスト教福音主義派(Evangelism)がラテンアメリカを征服し植民地化するためCIAとロックフェラー家がともに手に手をとって働きました。 それが急激に新興したティーパーティー運動(Tea Party movement)のスピリチュアルなテーマとなっているのが事実ですが、最近の選挙で一致することは、コーランを燃やして、イスラム教徒を皆殺しにしたのと同じ人々が棲息しているということです。 いくつかの選挙会場でも見られたことは、ティーパーティー党員間ではアメリカ合衆国がキリスト教の国であるという信念を優勢していることです。


有形生産の無駄な拡大が継続するかぎり、不完全で不平等なのが「進化」であるという条件で、彼らの支配の範囲を広げることと…私たち一般大衆へ影響を利かすために、権利を与えられた俗人とパワーエリートの聖職者たちは共生協力して働きました。 私は、同様にこの三位一体の別組に、金融エリート集団を含めます。



しかし、崩壊現象の展開するさまは、宗教や信仰が、変化する状況や要求に対処も適応もできないままであるのと、人類を断絶させたがゆえの欠点がより多くの課題となって、よりはっきりわかるようになりました。

この世界でうまくやっていく方法を私たちに示す宇宙論をたずさえた緊急事態として、現在一巡して戻ってきたところです。 自然界を定める法則は、私たちのわがままなふるまいに本当に限度に達したのです。 成長の本当の限界です。 非常に効率のよい、壊されることのない、おそらく絶対必要なベビーサークルのようなものだったのです。


(つづく)

____________________________

• - 推薦本、「Thy will be done(主の御心のままに)― アマゾンの征服:石油時代のネルソン・ロックフェラーとエヴァンゲリズム(福音主義派)」、ジェラード・コルビー、シャーロット・デネット共著(1995、Harper Collins)。 この本の影響で、私(訳注:マイケル・ルパート)がのちに「Crossing the Rubicon(ルビコン川を渡る)」[未邦訳]を書く原動力となりました。 それは、私がこれまで見てきた諜報機関とキリスト教の宣教師間の残忍な協力関係の血なまぐさく醜い、深くて暗い、最も恐ろしい状態を豊富なまでに文書化しています。 表面上宗教に関するもののようですが、先祖がこれまで引き起こしたことや、CIAによる裏切りや背信行為、殺人もしくはそれに匹敵する悪質で残虐な行為の一部がこの本でわかります。 

Thy will be done

“Thy Will Be Done – The Conquest of the Amazon: Nelson Rockefeller and Evangelism in the Age of Oil”
by Gerard Colby with Charlotte Dennet
(1995, Harper Collins).



ソース:COLLAPSE NETWORK
http://www.collapsenet.com/index.php?option=com_k2&view=item&id=341:god-on-the-table-1-november-2010&Itemid=130


【翻訳:タドン】

訳者注:訳者が適宜改行し、写真を選びました。
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[ 2013年04月30日 20:30 ] カテゴリ:GOD ON THE TABLE/ マイケル・ルパート | TB(0) | CM(0)

ゴッド(神)を議題にすること/その3


GOD ON THE TABLE
ゴッド(神)を議題にすること


人類の精神的な将来に役に立つ議論を試みる


by Michael C. Ruppert
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その3



A THIRD VIEWPOINT – Meet Red Crow
第三の視座―Red Crow(赤いカラス)に会うこと



地球に拠点を置いたネイティブ(先住民)の信条は、私の知る限り、法典として編まれた印刷物に頼るものでは決してありませんでした。 書物は、最終的な権威であるはずがありません。 地球にこそあるのです。 可能だとはいえ、Red Crow(赤いカラス)という名の原住民の長老が伝え導いたことは、いまだかつて聞いたことがないような、はっきりと明確に地球に拠点を置く精神性でありました。 

心に訴えかける地球基盤の精神的な哲学(下のビデオ)は、端的に良くまとめられており、私たちが知っていることであり、コラプス・ネット(
CollapseNet)はここを起点とします。 時間を割いてでも見ることを奨励しています。[この素晴らしいビデオを見てから、先を読むことを勧めます。]

Indigenous Native American Prophecy 
Indigenous Native American Prophecy

先住民アメリカ・インディアンの預言 [英語ビデオ・part 1 -6:37]



私は、これらの信条に長けているわけではなく、まだ生徒になったばかりです。私はオレゴン州でスー族最大のダコタ部族の長老の一人スキップ・モホーク(Skip Mahawk)に尋ねたことを思い出しました。

私が土着の精神的な伝統にのっとった方法で人間になる機会はあるのだろうかと
つまり、自然と完璧にもしくはそれに近い状態で調和している人々や、地球と生きとし生ける生物に敬意を払うような人間にです。 私は、これまでアメリカ・インディアンのひとがこんなにも大笑いするのを見たことがありませんでした


私は、多くのことを学ばなければなりません。


私の経験と勉学の幅が限られていたのは、地球基盤の精神修養(spiritual practices)が、神はどんなミスを犯したことがないという概念に根ざし、信じたがためでした。(誰がその存在に関して議論できるというのか?) 私が間違っていたら指摘を願います。


アブラハムの宗教(ユダヤ教、イスラム教、キリスト教)で最も大きな犯罪の1つは、私の考えによれば、地球に拠点を置く信仰であるペイガニズム(paganism)と魔術信仰(Wicca)のようなものに悪魔崇拝(devil worship)を不正に結びつけたことでした。 

私はナショナル・ジオグラフィック・スペシャル(NATGEO Special)の番組で再びそれを見つけて、身がすくみました。 ペイガニズム(キリスト教以前の古い多神教)、ウイッカ (Wicca:ペイガニズムの復興)、ドルイド僧、ネイティブ/インディアンの信仰(人間中心でなくむしろ地球とスピリットに則っている)は、一神教は言うまでもなく、アブラハムの悪魔さえ認めていないことを、私の研究は示します。 私は、その数々の名称から「一番悪い奴」を探すことも見つけることもできませんでした。


これらの精神的修錬(spiritual practices)が、いわゆる「進化・発展(progress)」、支配の拡大と無限の成長のじゃまになるので、地球に拠点を置く信仰について都合よくウソをつきました。 異教徒(ペイガンズ)、ドルイド僧悪魔崇拝者と名指し、キリスト教神学者の眼を誤ったほうに導びき、その虐殺を正当化しました。



アブラハムの宗教においても、その証拠は天地創造の完成として知られる理解の中に見つかります。 その例が旧約聖書におけるイザヤ書とハバククの預言の声明に散見されるもので、「あなた〈神〉は悪を見るには目があまりに浄く」-神々の世界(God’s world)は穢(けが)れていません。 よくもまあそのようなことが言えるもんだ? 

神は、定義によれば、間違いを犯しません。 ヨハネによる福音書(
John1)に記述された、神(God)が創った宇宙、によれば、神(the Word)がすべてを創った、神によって創られなかったものは何もなかった、と。

ハバクク 
参考:Habakkuk:『旧約聖書』にある預言書『ハバクク書』の預言者
http://www.jw.org/ja/%E5%87%BA%E7%89%88%E7%89%A9/%E8%81%96%E6%9B%B8/%E3%83%8F%E3%83%90%E3%82%AF%E3%82%AF/


アブラハムの宗教がやったことは、神は邪悪なものに容赦しない、という解釈で、それに引き続き起きたすべての虐殺・虐待行為に対する正当化でした。 「神に誓って、殺すか、略奪するか、侵入するか、強姦するか、皆殺しにする」、何かを黙認するためにその権力と存在理由を与えました。




私は地球に拠点を置く信仰が言及する善と悪または闇と光を知りました。 しかし、まだ他をしのぐ最終的勝利、「打ち勝つ(overcoming)」といわれるものに遭遇していません。 道教と仏教と同様に、地球基盤の精神性の勉学と知識において現時点で遭遇したものは、たとえば季節や昼夜のような自然の周期的なリズムに存在する愛で満ちあふれる受諾と抱合と同等の相互間で行われる力強い調和です。


基本的に、人類が最も永く持続できる精神的な生活とは、火打ち石、斧、水、食物またはシェルター住居と同様に、人々にとって地球に拠点を置いた意識で生きること(そうでないとしても)は、重要でした。 そして、そのように振る舞いました。


それで、私たちはどうなるのでしょう?


多くの成功例のあるアルコール依存症回復プログラムの12ステップの第2ステップは、「われわれは自分より偉大な力が、われわれを正気に戻してくれると信じるようになった。(came to believe that a power greater than ourselves could restore us to sanity)」となっています(12ステップ・プログラムが始まったのは、ほとんどの宗教に共有して見られる神秘的な教えからです)。 

そして、―
蒸留して取り除かれる―このステップで必要とする唯一の真実は、実際、私たちより偉大な力の認知であり、それは私たち(個人または集団)でありません。それらの事実は、すでに目にしています。 このステップが言っているのは、より高い力と意識的なつながりとそれとの適切な関係(working:働き)です。

参考:AA(アルコホリック・アノニマス)の12のステップ
「アルコール依存症の理論」
http://homepage1.nifty.com/edlabo/aa.htm

aa12 aa 





私がここで提案しているものは、簡単な概念です。


私たちと他の創造物との切断されたつながりを回復治療することで、この宇宙に定められた法則は、人間自身の生命(おそらく惑星における生きとし生けるものたち)を救う重要なステップであります。 人間のほとんどの歴史を通じて、この宇宙論が霊界に関していわれることは、すべてを事実として認めるなら、生きていようがそうでないにせよ、見えるか見えないかにせよ、精神(spirit)を持っていることです。

歴史から見れば、「宗教(religion)」は非常に新しい言葉です。 

精神(
spirit)の概念は、人類と同じくらい古いです。


赤いカラス 
訂正4/27/2011 この論文で、当初(You Tube上のビデオ・リストに沿って)、Red Elkという名前を使いました。 ある話者から、Floyd Red Crow Westerman(フロイド“Red Crow”ウェスターマン)であると間違いを指摘されたので、適切に訂正しました。]


(つづく)




ソース:COLLAPSE NETWORK
http://www.collapsenet.com/index.php?option=com_k2&view=item&id=341:god-on-the-table-1-november-2010&Itemid=130


【翻訳:タドン】

訳者注:適宜改行、編集、写真選びは訳者が行いました。
[ 2013年04月28日 12:17 ] カテゴリ:GOD ON THE TABLE/ マイケル・ルパート | TB(0) | CM(4)

ゴッド(神)を議題にすること/その2

GOD ON THE TABLE
ゴッド(神)を議題にすること


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その2



DOMINION -- THE FUNDAMENTAL DISCONNECT
政治権力の行使-宇宙自然の根源との断絶


すべてのアブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の不可欠な要素は、地球に対する人間の「完全な支配統治(dominion)」がテーマとなっています。 つまり、地球との接続を経つということは私たち人間を死においやるということです。  全ての生命ある存在は、物理法則に従います。 実際、いわゆる完全な支配統治というものも、それに依存しています。  しかし、私たちが信じたのは、単に自分が「人間(man)」であるということで免除されていたように、行動が正当化されました。 これはアブラハムの宗教が他と異なった違いです。 

そしてヒンズー教、仏教、道教のような「東洋」の宗教は、人は最高のものではないが不可欠な要素として精神的な世界に自由に放たれた存在とみなします。 しかし、私たちは、教会が無限の成長をするものとみなしました―不換通貨(fiat currency)、部分準備銀行制度(fractional reserve banking)、複利(compound interest)として表現されるもののようにです。 

ヒンズー教、仏教、道教の信者に見うけられるものは、物的世界に対する黙認とか(多かれ少なかれ)無関心の奨励で、その信者らが西洋人と同じ運命で苦しむのを守っていません。 私たち全員は多少の違いはあっても一緒に落ちています。 どの宗教に関係なくどこの信者も免れません。 

西洋の宗教がなんの支えもない、しようもない説教をしているとき、東洋の宗教は、霊界(spiritual world)がなにより重要であるとして、身体的な領域は割引いて、基本は無限の成長であると話して黙認していました。 -それらの信仰および信念システムはそんなもんです。 アブラハムの宗教は、最終的に緊急援助を約束します。 聖典はここで釣り合いをとるために、来世(Afterlife)をもちだしました。  私は、個人的に来世があると思っていますが、これとは違います。  モーゼが書いたと伝えられる書物によると、報いられる誰か(someone/thing)と罰される誰かがいなければなりません。


塹壕(ざんごう)で無神論者ではいられない(there are no atheists in foxholes)と言う古い格言があります。 居心地良く見せた塹壕に向かって頭から行進している世界のようですが、人類に求められることは、実際に明白に危機に対処する技術をともなう精神的な構築概念か、宇宙論です。

訳者注※There are no atheists in foxholes. 塹壕で無神論者ではいられない。◆1942年3月にフィリピン・ルソン島のバターンで、アメリカ軍の牧師 William T. Cummings が行った説教の中の有名な言葉で、「危機にあっては神と向き合わざるを得なくなる」という意味。
http://d.hatena.ne.jp/kmori58/20081218/p1



ブルース・スプリングスティーン(Bruce Springsteen, 1949年9月23日 - )がコンサートで発信したことばに好感をもちます。 「ロックンロール教会は、来世の命を約束しない。 ロックンロール教会が命を約束するのは … たった今!」 ― デカルトの科学は、全身全霊(heart and soul)を測ることができません。 音楽と芸術は確実にそれができます。 私たちの先祖が音楽、舞踊、芸術に生命を注ぎ込んだように、音楽を奏でることは私の今の人生におけるバンド結成(New White Trash)として顕著に結実しました。  そして、コラプス・ネット(Collapse Net)が常に主要な助け舟としてこれらを支援する理由です。 人は本当にパンのみで生きられるものではありません。

スプリングスティーン2スプリングスティーン



その難しい質問に答えるなら、「この世界で調和のとれた正しい生き方を教え、それに基づくどのような精神的活動があるのだろうか?」ということです。 生きる方法を私たちに教えてくれるマニュアルがありますか?

(つづく)


NWTNew White Trash


ソース:COLLAPSE NETWORK
http://www.collapsenet.com/index.php?option=com_k2&view=item&id=341:god-on-the-table-1-november-2010&Itemid=130



【翻訳:タドン】

訳者注:長いパラグラフは適宜改行しました。写真は訳者が選びました。
[ 2013年04月26日 11:17 ] カテゴリ:GOD ON THE TABLE/ マイケル・ルパート | TB(0) | CM(0)

ゴッド(神)を議題にすること/マイケル・ルパート

COLLAPSE NETWORK
http://www.collapsenet.com/index.php?option=com_k2&view=item&id=341:god-on-the-table-1-november-2010&Itemid=130


GOD ON THE TABLE
ゴッド(神)を議題にすること


人類の精神的な将来に役に立つ議論を試みる

by Michael C. Ruppert
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2010年11月1日 ― おそらく、人類の産業文明の崩壊の原因は、自然や物理学の法則から人類が免除されていると言い聞かせた結果、意識からその自然原理を捨て去ったがためです。 ―  この有限である惑星で無限の成長があると考えられたのです。 なんぴとたりとも人口の増大拡大と資源の継続的浪費など許されるはずはなく、それは私たちの生存にかかわる問題を間違いなく定義しています。


テクノロジーが物理学、化学(特に熱力学/エネルギー)の法則を覆すことを人類は心底から期待(または要求)しています。 定義上、自然の法則を覆すことができるものは、ゴッド(神)です。 この構築された概念の下で、テクノロジーは、宗教以外なにものでもありません。 気が進まない仮定であっても、その「救世主(messiah)」とされたのはルネ・デカルト(René Descartes)であったと考えます。 彼は経験的知識が最高の知識(もうひとつは外意識の遮断)とし、それ故、知識の神(God of Knowing)のアプリケーション(ソフトウェア)を内在している、と言った人です。 これは無限成長の金融規範と完璧に似通った考えで、私たちは地球上のすべての生物と人類を殺処分するだろう緊急事態の現実に、たった今気づいたところです。

デカルト


今日、私たちはテクノロジーであふれかえった生活をしています … そして、私たちも死にかかっています。  実際、それで自分自身を死に追いやっています。  より性能の良い武器を製造します。 原料となる素材から必要な部分を精製抽出し、旧式のエネルギー効率と資源を捨て去って、より性能の良い装置を製造します。 化学製品で自分と環境を汚染します。 そして、自身が引き起こした病気を完全とは言えない治療のために、私たちは化学に向かい薬品(大量の石油とエネルギーを消費)を製造しました。


テクノロジーとは基本的に(大きな感動的余韻がない)宗教であると、認知します。 テクノロジーが成功または失敗へ導くのか、宗教のように判決が下るそうです。 それが健康増進につながるのか、人類の種の生存と長命にかかわるのか、じゃまするのか、計られる結果はどちらかだというのに。


私は、同じように実験や試験がすべて宗教にあてはまりつつあると考えます。 まもなく、彼らは死にもの狂いになって応用するでしょう。


(つづく)

【翻訳:タドン】


訳者注:タイトルの「GOD ON THE TABLE」は、「…検討中」とか「…さらけだす」とかいろいろ考えましたが、無難に「ゴッド(神)を議題にすること」にしました。


参考:マイケル・ルパートの精神性(2)
(2013/04/20)
http://akazukinverde.blog.fc2.com/blog-entry-68.html

[ 2013年04月25日 11:30 ] カテゴリ:GOD ON THE TABLE/ マイケル・ルパート | TB(0) | CM(0)

東京タワー、マダム・タッソー蝋人形館


観光名所の近くには必ずフリーメイソンの手が……。

ということで、東京タワーもその一つだが、今日は久しぶりに東京タワーに行った。

東京タワー1


というのも

うちの父親が入所している老人ホームでの遠足が、東京タワーだった。

手のかかる父親の付き添いをかってでることで、外出の許可がもらえる。

一人につき職員が一人つくほど手のかかりようである。


私の東京タワーの思い出は、なぜか蝋人形館。

小学生の時、閉館まじかの遅い時間に母親に連れてってもらった。


閉館まじかで蝋人形館に入るなんて、当時はこんなものが展示されているなんて知らなかったから、40年以上も経っているのにいまだに記憶に残っている。


まずは、南北戦争時代、インディアンが捕えた白人の頭の皮剥ぎからはじまる。

今思えばあれは、南北戦争だ。

そして、リンカーンの観劇の最中、桟敷席での暗殺風景、カーテンの後ろに暗殺者が拳銃持って控えていた。

36歳で睡眠薬頓服(とんぷく)自殺したマリリン・モンローの横立ち姿。

ビートルズ、と続いて

フランケンシュタインもあったような、

最後は拷問部屋。

ギロチンやら、人間輪転車やら、回廊お化け屋敷になっているとは誰が想像しただろう。

どのように、これらの恐怖を子どもの私は克服できたか覚えていないが、今ではあんな物作りやがって…と淡々と思い出す。

子どもでも知っているテレビでおなじみのスターが出てたりするので、もろにアメリカの歴史を語る蝋人形であったとは気がつかなかった。

それがどうして東京タワーにあるのか。

今だからわかるが、イルミナティ・フリーメイソンにかかわりある人や事ばっかり。



そんなことがあったので、今回は大変楽しみにしていた。



受付で聞いたが、蝋人形館の由来や沿革を書いたようなパンフレットがない。

どうしてこのようなものをここに造ったのか経緯がわからない。

製作者の名前も明記していない。

古い新聞記事が入り口付近に掲示してあった。

昭和45(1970)年3月20日に開館したという。

そして、マダム・タッソーというロウ人形師が元らしい。

マダムタッソー

参考:蝋人形彫刻家 マリー・タッソー(Marie Tussaud:1761-1850)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%83%E3%82%BD%E3%83%BC


通称、マダム・タッソー。



マダム・タッソ―がどういう人なのかよく知らないが、1835年にロンドンで彼女の制作による蝋人形館が初めてオープンした。

現在、どうなって、どのような体制で仕事をしているのかも知らない。

マーリン·エンターテインメンツという米国の会社が、マダム・タッソーの蝋人形のイベントを企画しているようである。



フロアをリニューアルしたというのが五年前とか、受付嬢があいまいに話すだけではっきりしない。


前の展示風景と現在の展示風景が見られるサイトがあった。
2000年のと2008年の蝋人形館の様子が見られる。

参考:東京タワー蝋人形館
http://www.arakawas.sakura.ne.jp/backn001/toktowro/toktowro.html



私が見たのは、どうも1970年くらいの出来たばかりの頃だと思う。


展示物が多少変わっているが、パターンは変わらない。


イルミナティ・フリーメイソンに関わった有名人ばかりか、ほとんどそんなものと思ってよい。


展望台からの眺めは、すぐ下にメソニック森ビル39、その先に六本木のフクロウビル。

今日は曇ってて見えないがその先は富士さんがある。

ふくろう39


昭和52年7月11日に天照皇大神の祠が創立二十周年を記念して建立されていた。

天照


悪魔祓いのつもりだろうか、それとも取り込みか。


そして今回の蝋人形館の展示。

タイタニックの船首が設置されてあり自分が蝋人形の代わりになって記念撮影できる…ようなものがある。

最初はおなじみ、ハリウッドスターや、各国の政治家。

チャーチル、ホー・チ・ミン、蒋介石、吉田茂、毛沢東、J・F・ケネディ……

どうも、全然似ていないので感動がわかないのだが、きっと若い時の写真を参考にしたのだろう。

そうそうたるメンバーである。

杉原千畝さんを出して、シオニスト・ユダヤに媚びる。

隣には、ガンジー、ダイアナもいる。


人相の怖いリスとウサギをはべらせ不思議の国のアリスの人形が笑っている。

ここまで写真を撮らなかった。


最後の晩餐


ロック歌手のような「最後の晩餐」に魅せられ、パチリ。

聖書の朗誦がバックミュージックのようにテープで流され続ける。


GImusya

日本の武者の人形はGIジョーだった。


予備知識がないとわからなかったのは、

ジミヘン

ジミ・ヘンドリックス。

エレキギターのパイオニアでとにかくすごい人だったらしい。

日本との関係でこんなエピソードも。

参考:トリビア; 「ジミ・ヘンドリックスの母は日本人」
http://mass-communication.at.webry.info/200504/article_14.html



ショーケース入りのジミヘンに迎えられて、

思い出の恐怖の拷問部屋は壁が張られ、のぞき穴式になっていた。

拷問部屋


最後は、ロックンロール部屋。
ロック部屋


マニアしかわからない、フランク・ザッパ。

ザッパ


とまあ、年寄り向きではない展示に変わっていた。

年寄でなくても、誰が誰だかわからない。


どうも展示に手抜きがされている感じで、日本人の職人の仕事らしからぬものだ。

棒立ちでゾンビみたいだ。

調和のない雑然としたところが、メイソン好みの展示になっている。

東京タワー2

ちなみに「山本作兵衛展」が5月6日まで、東京タワー一階の特設会場でやっていた。
http://www.tokyotower.co.jp/55/index_05.html

参考:akazukinのブログ
炭坑夫たちの讃歌 2011-09-12 11

http://ameblo.jp/ootadoragonsato/day-20110912.html



ゾンビ蝋人形のもっと新作が見たかったら

「マダム・タッソー東京」が、2013年3月18日にお台場でオープンしているそうだ。

行かないけど。

タッソー東京
[ 2013年04月24日 01:29 ] カテゴリ:ビー太郎日記 | TB(0) | CM(0)

三國連太郎氏と被差別部落 その2

先の東京新聞で三國連太郎氏の弁として書かれたこと、

「部落差別は間違っている。 差別される人も、差別する人も犠牲者だ。 これを乗り越えていかなければならない」と訴えたという。



それはしごくごもっともで、美談のようで、どうぞそうしてください。

としか言いようがない。

「TPPは差別だ」

と言ってたらちょっと関心を持ったかもしれない。

「差別」がはびこる芸能界に在籍しながら、今まで干されることなく職業を全(まっと)うできただけでもありがたいと思わなかったのかどうか。

三國氏についてはよく知らないのでこのへんで。





差別を乗り越えた人たちは、このような奴隷根性からも解放される。

歴史における忍び。

「正忍記」を読むと、彼らは時の中央政権からは疎まれ差別された対象のはずであるが、このような奴隷根性は持ち合わせていない。

そのような世の中を虚とみなし、そのなかで生き抜く術(すべ)を身につける。



昔とは言わず現代でも、人生において多かれ少なかれ、差別やいじめに合うものだ。

合わない人の方がいないくらいだ。

その人生において、差別を受けた「時」や、いじめられた「時」にいつまでもこだわることは、その「時」に囚われていることになる。

このような習性を「奴隷根性」と見なす。


差別やいじめを乗り越えて、精神的に強くなってゆく。

現代は精神が鍛えられていないから弱い人が多く、「差別」と聞いたら縮みあがり、乗り越えられない人がでてくるのは気の毒としか言いようがない。


以下、参考になればと思い『武道鍛錬術』から書き出しておく。



現在の学校教育では、明らかに知育偏重の傾向が見られます。(中略)

当然これに伴わなければならぬ情操とか、体力とかいうものについての考慮は、非常になおざりにされ過ぎております。

その結果、起こってくるのが、いじめ問題です。

このような「体不在」の文化は、達磨大師の時代の僧院にもやはり存在したので、大師は武術と健康のため少林拳を開創しました。

デカルトはその晩年に至って、「精神であると同時にまた物体でもある不可思議な存在、すなわち人間である」(伊吹武彦訳)と論じています。

大哲学者デカルトさえとらえきれなかった人間という存在。

しかし、東洋医学的観点からすれば、人間存在をスッキリととらえることが可能です。

知育偏重の解決策も簡単に出てくるのです。(中略)

いじめに悩む人は、死を考える前に呼吸法と脈合法で心身の調節、鍛錬、つまり武道鍛錬術を行なうことをおすすめします。

武士の世界でもいじめは日常茶飯事であり、それを克服するために、自己を鍛錬したのです。


(『武道鍛錬術』蓑内宗一著、森庸年編、砂書房、1996年、103~104頁)





著者の蓑内宗一(みのうちそういち)氏は、1922(大正11)年生まれ。

森庸年氏の書かれたあとがきに

甲賀の流れをくむ武道医学家・蓑内宗一

とある。

「長崎で一家は原爆に遭遇し、家族は死に絶えてしまいます。 かれは九死に一生を得たものの、さらに交通事故に見舞われ足が不自由となってしまいました。
それでも、武道で鍛えていたために、なんとか歩行ができるようになったのです。」(同書、209~210頁)



たぶん被ばくもされていたに違いない。


[ 2013年04月21日 13:45 ] カテゴリ:部民(部落)/伴 | TB(0) | CM(0)

ロコモティブシンドローム/運動器症候群

略して「ロコモ」。


名前を聞いて音楽の「ロコモーション」を思い立ったが、この意味も運動力、移動力、機関車の意味だから関連語だった。

ロコモーション


軽快な音楽に乗って体を動かせばいいが、動かなくなる世代が40代からで介護予備軍となっている。

介護保険料が40才から強制的に引かれるのはこれを前提にしていていたのかと思うとお国はなんと用意周到な事か。

健康より保険料が。


「メタボ」より怖い「ロコモ」

とまあ、掛け声だけはいっぱしの口をきくけど、いつものごとく原因がわからない。


のかな?


2007年に日本整形外科学会が「ロコモティブシンドローム」という言葉を作って発表したといっている。

介護保険制度は、2000年4月から始まっている。

ウムムム・・・・・


参考:日経トレンディネット
メタボより怖いのは「ロコモ」!? 40代からの対策で“大きな差”
2012年10月11日

http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20121005/1044379/?ST=life&P=1


ロコモの3大原因

(1)筋力低下
(2)バランス能力低下
(3)運動器の疾患


「ロコモの入口である「筋肉の衰え」「骨強度の低下」「軟骨の摩耗」を食い止めれば、ロコモは予防できることになる」


といっている。

詳しく書かないから興味ある人は調べてください。




私にとってはお馴染みの予防方法である。

予防方法はどれも同じ…。

予防してても病人がどんどん増える。

医学が広まり治療技術が発達しても病人がどんどん増える。


「塩を変えれば体は良くなる」(現代書林、2012年)の著者、上田秀夫氏は、この原因のひとつを「ミネラル不足」と言っている。

そういえばこの上記の日経トレンディネットの大江隆史氏の論文には「ミネラル不足」は出て来ない。

ミネラル不足は明白なのに、あからさまに言わないのはどうしてなのか。

いろいろ都合があるのだろう。

そんな都合につきあっていられないので、健康は自己防衛するものと決めている。




なぜミネラルを摂取すればよくなるのかと考えてみた。

ミネラル、すなわち元素には金属も含まれる。

現代西洋医学では、身体の構成は含有量の多い主要ミネラルばかり強調されるが、命ある生物はすべてのミネラルを必要とする。

このミネラルバランスがいいと、自然に身体が動いて活動してくれる、のではないかと思った。

その身体が自然に動くというのは体内の電気の流れによるものではないのか。


というのは、この上田社長が薦める「還元力をもつ塩」を続けて飲食していると、身体の余計な脂肪がとれて締まってくるのである。

特に決まって運動するわけでもなく、犬の散歩程度である。

身体が勝手に動いて代謝してくれる。

ミネラルが豊富にあると経絡の感知もよくなる。

経絡は電気の流れで活発になる…と思った。

経絡の発想は、最近読んでいるサムライや忍びの行動則を参考にした。



昔は、まだ食べ物が自然でミネラルも豊富だっただろう。

経絡の流れもよかったに違いない。



現代は、完全にミネラル不足である。

筋肉を鍛えるのが運動と勘違いして、経絡を意識した運動もしない。

当然の如く「運動器症候群」に陥っている。



参考: akazukinのブログ

塩を変えれば体は良くなる!?(2)
2012-11-16 20:40:32

http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-11405888752.html
[ 2013年04月21日 00:40 ] カテゴリ:ビー太郎日記 | TB(0) | CM(0)

マイケル・ルパートの精神性(2)

マイケル・ルパートが「コラプス(崩壊)」(2009)というビデオを制作し、そのビデオが日本のテレビで放映されたのを見たことを以前書いた。


参考:akazukinのブログ
マイケル・ルパートの精神性
2012-11-10 00:49:26

http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-11400617248.html



このようなビデオを作った背景にネイティブ・アメリカンとの邂逅があり、

その後、トム・ブラウン・ジュニアの主宰するサバイバル・スクールを修了したことも書いた。




マイケル・ルパートに精神的変化が訪れたことを感じ、彼の論文「GOD ON THE TABLE(ゴット〈神〉をさらけ出す)」(2010年11月1日掲載)を読んでみた。

彼が主宰者なのかどうか、「COLLAPSE NET(コラプス・ネット)」にその論文が掲載されている。


翻訳が出来次第,ここに掲載しようと思っている。




トム・ブラウン・ジュニアの本を読んだ時も思ったが、

ネイティブ・アメリカンと白人の組合せに唸ってしまった。

そういうことも有りなのだ。

白人の先祖が乗り込んでいったアメリカ大陸に先住していた人々を虐殺して土地を奪った歴史がある。

いつもの如く、イギリス・フリーメーソンとフランス・フリーメーソンが双方に分かれ仕掛けた独立戦争にインディアンたちも巻き込まれ、最終的に野蛮で始末すべき悪人にされてしまった。

そのような映画を見てきた。


その生き残りのインディアンが白人の子どもに自分たちの伝統の技術や知恵を授けたことは、人類が生き延びるための壮大な目標の為ではなかったからではないだろうか。

私はそう感じた。

人間がこの地球上の惨状を変えなければならない。


近代兵器にインディアンは破れてしまったが、その精神の継承を一番ふさわしい人物に託すのだ。

それで精神は新しい時代に蘇って継承される。


マイケル・ルパートもその流れに参加している。

[ 2013年04月20日 01:07 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

天正伊賀の乱における忍び

「正忍記」(新人物往来社)は、平成八年に出版された。

著者は、それ以前に「忍術秘伝の書」(平成六年)を刊行されており、これは「正忍記」の全要約に「万川集海」「忍秘伝」で捕捉されている。

「正忍記」のように逐次原文と解説という風ではなく、著者による構成で解説されている。



忍術秘伝の書
「忍術秘伝の書―忍びの世界を科学と歴史の刃によって切る」
中島篤巳著、角川選書248、平成六年





先の「正忍記」に中島篤巳氏は天正伊賀の乱について触れている。

私はこの天正伊賀の乱に興味を持ち、中島氏の解説にじつは衝撃を受けたのである。

以下引用。




コラム―天正伊賀の乱における忍び


日本史上、一国の武士と庶民とが一丸となって強大な権力に対抗し、一国の半数が死に、全域が焦土と化した国は伊賀国をおいて他にないだろう。

戦国期、伊賀国守護の仁木氏は権力もなく、伊賀国は在郷の服部(はっとり)、柘植(つげ)、川合(かわい)、名張(なばり)、長田などの国人衆に分割統治され、その国人衆はは一族ごとに党をつくり結ばれていた。


彼らは戦国大名の侵略に対しては伊賀国全体が団結し、また甲賀国人一揆と協力して対抗するという掟書(おきてがき)を交していた。

「他国より当国へ入り候においては、惣国(そうこく)一味同心に防がるべく候」(「伊賀国惣国一揆掟書」)とあり、これが伊賀の惣国一揆体制である。


『万川集海(ばんせんしゅうかい)』にも「伊賀国は権力に屈することなく、あの織田信長さえも手こずらせ、最後まで屈しなかった」と誇らしげに記されているのは、さきに述べたところである。




参考:(同書、18~19頁より)

『万川集海』の序の末尾に「延宝四年辰仲夏日 江州甲賀郡隠士藤林保義序」とあるように、伝書は藤林保義(保武ともいう)が西暦一六七六年五月に著したものである。

同書の忍術問答の中で、「此(かく)の如き忍術普(あまね)く天下に用いしと聞く。 然(しか)れども専ら伊賀甲賀は殊に忍びの名、諸州に冠たるぞ何ぞや」という問いに対する答えの最後に、

「隣国の多勢にして威強き大名多しといえども、伊賀の地を奪い取る事なし。 信長公ほどの強将たりといえども、伊賀においては敗北したまう也。 まして其余の大名、各此の国には望みをかけず。 小国にして人数少なきのみならず、大将もなき寄合勢といい、旁々(かたがた)以て頼りなき様なれども、隣国の大将ある大勢に一度も負けたる事なし。 勝利を得しは何故ぞ、是皆忍びの術の功にあらずや。 斯る故を以て伊賀を忍びの本とする也」(内閣文庫蔵本)

といっている。



天正六年(一五七八)二月、一人の伊賀者が雪を踏み締めて山道を越え、伊勢松ヶ嶋城の北畠信雄(信長の子)の門を叩いた。

伊賀の背信者、下山甲斐(しもやまかい)その人である。

「今、伊賀国は足並みが乱れており、郷士たちの結束も弱うございます。 伊賀国を攻めるには今をおいてございませぬ」

この一言で伊賀の悲劇が始まった。

信雄は時節到来とばかりに、まず伊賀国伊賀郡下神戸(しもかんべ)の丸山城再建を手がけたまではよかったが、伊賀勢に奇襲されて簡単に消失した。

翌七年、焼き討ちに激怒した信雄は兵を率いて伊賀の阿波口、伊勢地口、鬼瘤(おにこぶ)峠の三道から一気に伊賀侵攻を敢行。

第一次伊賀の乱の勃発である。


しかし侵攻軍の結果は悲惨だった。

情報収集とゲリラ戦に長(た)けている伊賀勢の待ち伏せは必至である。

鬼瘤峠は先鋒、柘植三郎左衛門率いる千五百が侵攻し、これを迎え撃つのが上忍、百地丹波。

結果は織田軍が惨敗、拓殖も討ち死にした。

阿波口侵攻は信雄自身が率いる八千の兵。

しかし伊賀勢の鉄砲や弓攻撃とそれに続く夜戦とで惨憺たる状況で退却、といった戦況であった。


信雄の失態と伊賀の反抗は信長の激怒するところとなり、木下藤吉郎、滝川一益、甲賀油日(あぶらひ)の和田推政、蒲生(がもう)日野の蒲生賢秀らと伊賀攻めが計画され、その数日後には商人に変装した甲賀者の姿が伊賀の地に見られ始めた。

あとでも述べるが伊賀の乱の特徴の一つに、盟約を交わしていた甲賀の伊賀からの離別があげられる。


天正九年九月、信長は五万の兵を率いて安土城を出発した。

第二次伊賀の乱である。

伊賀の兵力は僅か数千。

歴史の流れに抗するすべもなく、奮戦むなしく大勢は七日で決まったが、それでも約一カ月は持ちこたえ、柏原城の落城をもって伊賀の乱は終わった。

その後も惨殺が続き、伊賀の地は殺戮(さつりく)と焦土の地獄であったという。


信長は六つの伊賀口から雪崩(なだれ)の如く侵攻を開始したのであるが、その内訳は次のようである。


伊勢口からは北畠信雄を総監に一万三千、
笠間口からは筒井順慶の三千二百、
長谷口からは浅野長政らの一万五千。

興味深いのは残りの三口、

すなわち多羅尾(たらお)口は堀秀政、多羅尾光弘らの二千三百、

柘植(つげ)口は丹羽長秀、滝口一益、藤堂将監らの一万二千、

玉滝口は蒲生氏郷、脇坂安治らの七千三百である。


天正伊賀の乱
参考:第二次天正伊賀の乱図
http://www.e-net.or.jp/user/taimatsu/iganoran/map.html



これら三口はすべて甲賀国内で、伊賀と同盟関係にあった甲賀武士は、それを裏切って信長の通過を許したばかりでなく、信長軍に加勢した者もおり、多羅尾光弘は甲賀五十三家の家柄である。

甲賀は自らが生き抜くため、そして時代に即応した新しい生き方を選び、伊賀との古い盟約を破棄して行動した。

忍びの武士化という、新しい時代の到来である。


忍びの哲学の合理性からすれば、甲賀の対応は伊賀への裏切りとは言いがたく、むしろ甲賀こそ忍びらしかった、といえよう。

天正伊賀の乱は、たいていの書物では“戦った伊賀郷士=伊賀忍者”として語られている。

実利を捨て、自国の滅亡を選んだ伊賀の行為は、忍びではなく武士の哲学そのものである。

この伊賀の乱の生きざまから、六十近い士豪の連合体は武士の連合であり、忍びはそれに付随したものと考える方が妥当ではないだろうか。

(『忍術秘伝の書』、26~28頁)



織田信長の天下統一の時代。


唯一、権力に屈しない自治国を造っていた。


日本におけるかつてない虐殺が織田信長によってなされた。

その背後にはイエズス会が関係していたのかどうかしらないが、イエズス会の影響を受けた織田信長は天下統一に乗り出していた時期で「伊賀国」に目をつけたのである。

伊賀忍びと甲賀忍びの関係。

私は、縄文日本原住民が、限定的に言うと飛騨族の影響の強い、中央の権力者からは疎まれたエタ衆の勢力の強い土地柄ではなかったと考える。

縄文日本人、および忍びの生き方は自立していたので、「差別」とかそういう概念は持ち合わせていなかったとも考える。

そのように思えたのは、トム・ブラウン・ジュニアの描いたアメリカ・インディアン、アパッチ族のグランドファーザの生き方によることが大きい。



伊賀忍びの生き方。

甲賀忍びの生き方。

伊賀忍びは魂の存命を選び、甲賀忍びは現世での存続を選んだのか。

全滅を避け次の時代につなぐ本能が働いたのか。


勝者、敗者、手引きした者、身柄を引き受けたもの、簡単に区分けできない複雑な状況と内面の心理がある。

イルミナティの歴史を綴った世界史は、二次元的であり見た目に勝者、善悪をはっきりさせる特徴がある。

現代学校で教えられる歴史は全体の一面でしかなくイルミナティの侵略の流れの経過を見ているようなものである。


日本人は時代全体の流れの中で生き、二次元の世界で生きてはいなかったのであった。


奴隷制度は二次元の世界に貶めるようなものである。
[ 2013年04月18日 21:11 ] カテゴリ:正忍記 | TB(0) | CM(0)

三國連太郎氏と被差別部落

昨日4月15日、三國連太郎氏の訃報が報じられた。


今日、東京新聞に三國連太郎氏についていくつか特集記事が掲載されていた。


私は、三國連太郎氏について、ファンでも何でもない、映画も演技も見たことがあるのかどうか、しかし名前だけは知っているというお方なので、お悔やみ申し上げるのもおかしなものである。


ここで取り上げるのは氏についてではなく、彼の養父が被差別部落出身だったことが強調されていることである。

東京新聞2013年4月16日付朝刊、28面「『差別』と闘った名優」で、

「親父の田舎は伊豆の松崎の奥にあり、(被差別部落の研究書によると)伊豆半島に十一か所を記載されている被差別地区の一つだとされているところなんですけど」

対談本「『芸能と差別』の深層」の中で桃山学院大名誉教授の沖浦和光さん(86)にこう語ったという。



だから、どうなのか。


最後まで出目にこだわっておられたのか。

それをどのように解決、克服されたのか。


私が思うに、幕末明治維新後、日本的考えが西洋的考えに急に方向転換された時から始まる。



事実、わが国においても古く氏姓制度時代から、明治四年(一八七一)八月のいわゆる「解放令」といわれる太政官布告第四百四十八号が公布されるまで、制度上にも賤民と呼ばれた一群の人びとが存在したことは、否み難い事実である。

これらの賤民は、時代によりその職種・名称に幾多の変遷はあったが、為政者および一般人からの差別は毫(すこし)も変わることがなかった。 特に江戸時代の賤民の代表ともいうべき穢多・非人のうけた差別・待遇は、はなはだしいものであった。

(『江戸時代 部落民の生活』(増補版)、高柳金芳著、雄山閣、昭和四九年、1頁)



たまたま、手元にあった本から引用したが、この昭和四九年当時の学者たちの考え方と私の現在の考え方はだいぶ違う。

しかし、このような考え方が一般に流布していたということで参考にあげておいた。

為政者とは誰か。
一般人とは誰か。
穢多・非人のうけた差別・待遇は、どのようなもので、本当に今定義されたような差別なのか?


そのために「被差別部落」というカテゴリーが人々の認識の中に定着した。

その目的は人びとの間に差別という溝をつくり、対立させるファシズム的な思想からであると思っている。


では、差別はなかったのかといえばそうではなく、虐殺がなかったというように、否定ができなくなる。

その心理を利用されるのである。

永らく差別に耐えてきた飛騨族を中心とする縄文日本の根幹だったエタ衆は、このとき「被差別部落」という大きなカテゴリーに取り込まれてしまった。


ここで、縄文日本人のマコトの痕跡が今にも闇に葬りこまれそうになっていたところ、山本健造氏による「暴かれた古代史」(山本貴美子著、福来出版、2010年)、「裏古事記」(山本健造著)、「明らかにされた神武以前」(山本健造著)等々の著作で、その全貌がはじめて明らかにされたのである。




「差別された」という心理は、奴隷根性で二次元の世界である。

この状況を脱出するには次元を高めた精神的鍛練のみ可能なことである。

現に日本の先祖たちは、現実の生活様式に取り入れ躾られ、サムライたちは古武術による行動則を修めた。


世の流れの中で、生き抜くために忍びのものたちが極めて行った精神の鍛錬がそうであったように、武士たちの精神鍛錬が江戸時代の世界にまれに見ない治安のよい都市国家を支えたのも、職人たちがそれぞれの持ち分で技を磨くのも日頃の精神鍛錬のみによって可能である。

奴隷根性を嫌う日本人は精神性を高めることで克服するのである。

精神性の向上は自然と調和して芸術的に現われる。

もちろん奴隷に甘んじるものも、悪魔になびくのも一緒に存在するのが現実である。




三國連太郎氏が父親の出目で「被差別」と断定する無常で非常な判定がまかり通るなら、私の祖父母の出目は埼玉の狭山事件のあった近くで被差別ナントカとかわらなくなり、私も「被差別部落民」で差別されたと公言しなければならないのだろうか?

あいにく、そんな風には育たなかった。

祖父母は寡黙であったが、そんな愚痴を聞いたことがない。

今調べると、古代埼玉は武蔵の国(現代の関東)の中心だったのだ。



「被差別、同和問題」を知ったのはだいぶ後で、私が個人的に友人を頼って農業研修していた時、その三重県で同和問題の映画に誘われたときだ。

その「同和問題映画」は、「エタ」より「在日」問題になっていた。



三國連太郎氏はどうしたかったのだろう。

[ 2013年04月16日 17:59 ] カテゴリ:部民(部落)/伴 | TB(0) | CM(0)

正忍記 その14/奥書の解説

中島篤巳氏による解説は今回で終了する。


〈武道選書〉
忍術伝書 正忍記


藤一水子正武著
中島篤巳解読・解説
新人物往来社 
平成八年八月二十日初版発行



以下、中島篤巳氏による解読・解説。


奥書の解説


「以上のことを書にするというのは決してすべきことではない。

しかし巷では忍びは奇妙だ、人を騙すとか言っているようだから、忍びを正しく伝えるためにあえて書き表したまでである。

また忍びに出会っては隠れようもないので、秘密をことごとく表したので、しっかり理解して術の取得に励んでもらいたい。

忍びの本質がわからなければ、忍びを防ぐことは出来ないのでよくよく学ばなければならないが、決してこの術で人を欺いてはならない」



奥書のように書するということは流派の正しい継承を可能にするが、格付けを目的とする場合もあることを知っておきたい。

さらに漢文の部分は「この正忍記は當流の忍びの純粋な奥義である。 先師より一子相伝で脈々とこれを受け継ぎ、その秘密を外部に漏らすことはなかったが、今始めて子の懇望によってその全てを教授せしめたところである。

慎んで宜しく熟練し、みだりに他の人に見せてはならない」
とある。


最後に伝書の出所と付与先について書かれている。


「青竜軒

   名取兵左衛門

 時 寛保三歳次葵亥年

   二月吉日

   渡辺六郎左衛門(花押)
          付与之  」


すなわちこの書は寛保三年に名取兵左衛門から渡辺六郎左衛門に与えられたものである。


(『正忍記』、197頁)




『正忍記』
名取三十郎正澄/藤一水正武(ふじのいっすいまさたけ)丈夫著
巻頭言 勝田何救斎養真
延宝九年(一六八一)

解読・解説 中島篤巳







以下、中島篤巳氏による巻末の言葉も抜き出しておく。



おわりに


バブル経済の崩壊は各種多様な形で教訓を残した。 もっとも大きな収穫の一つは「本物」の価値の重要性を再確認させてくれたことである。

政治の貧困はもとより、それに輪をかけるようにして我流で薄っぺらい評論が、さももっともらしく茶の間を席巻する。

そんな御時世、本当に頼れるのは自分だけであるということを認識する日が続く。


また国とはいったい何なのだろうか、そして自分との関係はどこまであるのだろうか、と自問する日も少なくない。

ただ断言出来ることは、世の中には得をする人間と損をする人間とが常に決まっており、得をする人間は常にそれを求めて社会道徳を捩じ曲げながら行動し、一方、損をする人間はそれに気づかないか、または諦めてか、淡々とした日を送る。


忍びは社会の底辺で、死を的に極限状態で生き抜いてきた集団である。 その心理的極限状態で得た彼らの結論は「社会通念という束縛から解放され、自己の内に真理を見出す」ということであった。

そのためには自分がどれだけ深く社会と関わりを持つことが出来、その反面、それだけ社会から自立することが出来るかという逆説的な関わりを意識する必要がある。

すなわち国や会社など各種社会の一員としての自己の力が大きいほど、いわゆる社会からの自立の割合が大きいということである。

社会からの自立と逃避は根本的に異なる。

社会的責任を放棄した逃避は、治安や建設など社会の恩恵をこうむって生きている限り単なる寄生である。

忍びは一般通念を無視することによって社会からの自立をはかったが、そこにはそれを代償する忍びの哲学があった。

その生き様はドロドロした社会としぶとく付き合い、そして異質なところで突き放すようにして常に自立していた。


本書は忍術の古典であり、本物の忍術伝書である。

その復刻により、もし誤訳があるなら訂正も可能となり、校注の及ばぬところも読破していただけるものと確信している。

蛇足ながらルールで保護されてスポーツとした近代武道と実践的な古流武術との隔たりは次第に広がるばかりとはいえ、これは、一般武道家の方々にも是非御一読願いたい書である。

(後略)

平成八年七月吉日

中島篤巳

(『正忍記』、406~407頁)


正忍記


中島氏は書いた。

「社会的責任を放棄した逃避は、治安や建設など社会の恩恵をこうむって生きている限り単なる寄生である。」

私なんかそのまま受けて、「親に寄生しています。すみませ~ん」と謝ってしまうだろう。


だが、ちょっとまてよ、

生物の基盤となる自然環境を破壊し、国家としての自国の発展や運営の方針を誤り、社会責任を放棄した役人や官僚や天皇は国民に寄生しているのであり、

教祖や宗教家がその職務を乱用し宗教家あるまじき行為で責任を放棄すれば、それを信じてお布施してきた信者に寄生しているのであり、

シオニスト・ユダヤ・イルミナティのロスチャイルドは、人類に寄生している。

宿主か寄生かの関係は、いずれ宿主を食いつぶす。

エイリアンみたいなやつだ。


と考えた。

私は親に寄生している、といわれたら見た目はそうかもしれないが、上記に上げた社会的影響を鑑みれば、

家全般の運営は私に任されているし、同時に家族の世話をする責任も生じる。

これは寄生なのか?

こういうのは、伴(とも)の状態である。




当然ながら社会を運営する人の責任の方が重大である。

社会的責任を個人的責任にすり替え、官僚、政治家らの失敗も、運営の不備もいままで個人に転化させられてきた。

いうなれば、政治家を選挙で選んだ国民のせいにされる…とか。
選挙に行かない国民のせいにされる…とか。

どちらに転んでも弱い立場のもののせいにされる。

個々の間に入りこんで仲介のフリをしている寄生者(金融至上主義など)は、自己の責任逃れのために社会システムや法律を作ってきたのだ。


[ 2013年04月15日 17:46 ] カテゴリ:正忍記 | TB(0) | CM(0)

悟りの武術、ルールの武道 その3

本屋で売っている武道に関連した本は教本と思っていたので読んだことはなかった。

強くなる技とか、秘術とか、あまり興味なかったのである。

蓑内宗一の「ツボと日本人」やその関連の本を読んでいくうち自分の考えていたことと違うことに気付かされた。

ようするに、学者や評論家や作家が書いてきた武士や忍者像と違うのである。


甲賀武士の家系である蓑内氏や、「正忍記」の忍者の生の声に心を寄せるとどのように時代の荒波を越えて生き延びて来たのか日本人の知恵が凝縮されているようだ。


さきに引用した『大東流合気二刀剣』( 曽川和翁著、愛隆堂、平成9年)は、たぶん他の武道教本とは違っている。


スポーツ柔道と喝破したり、その説明の仕方が独特である。


以下引用。



武道評論家たちは、勝者の、その勝因を科学的に証明しようとするし、敗者はその敗因が何処にあったのかその究明を試みる。

しかし武術と謂われるものは、個々の今までの培った修練を総括したもので、枝葉末節的な局所の究明では全貌(ぜんぼう)を解明することはできない。

さて武術というものには、各々に次元というものがあり、次元が異なればそこで使われるエネルギーは当然異なるものを使わなければならなくなる。


これを上げると二次元的なスポーツ武道、三次元的な実戦武道、四次元的な気界(厳密に云えば、霊界や神界の異次元パワー)のエネルギーを使う、次元の異なった古武術に区別される。

従って各々は次元の違いで、形式も、形態も、その修行法すらも異なってくるのだ。


二次元的な平面上を活動範囲とするスポーツ武道は、主に点から点への移動であり、それを上から覗けばその行動戦は直線であったり、腕や脚を振り回す範囲の半円形を描くものであったりしているが、それを側面から眺めると平面的な面の展開で、それには厚みや幅といった空間が無く、単にスピードと力のぶつけ合いが中心となる。


また三次元的な空間行動線を主体とする実戦武道は、側面から眺めると、それには厚みや幅の空間があり、行動線には常に螺旋的な動きが伴う。

動きは複雑であり、早い遅いが加わって、高低の落差が大きい。

そして球形を成す立体感がある。


四次元以上の気界のエネルギーを使う古武術は、種々の行法が付随している為、専(もっぱ)ら筋力トレーニングよりは、呼吸法や丹田養成法や精神修養が中心であり、それに集中力や霊的行法を用いて、心・技・体の《三位一体》を駆使する玄気(げんき)を用いる。

(『大東流合気二刀剣』、 曽川和翁著、愛隆堂、平成9年、161~162頁)





二次元的なスポーツ武道

三次元的な実戦武道

四次元的な気界、古武術



とその違いを述べられる。

「次元の違いで、形式も、形態も、その修行法すらも異なってくるのだ。」

とは当然のことで、古武術を実践していたサムライたちはいかような精神状態だったのか驚愕のかぎりである。

戦乱の世が平定された江戸時代が現代ほど規制がなくても治安が良かったというのはこの賜物である。

現代はルールで規制され、精神が養われていない為、気が緩めば破目をはずされるような醜態を演じる。


次元の話になるとスピリチュアルな人たちがよく使うが、これと同じで、「次は五次元ですよ、アセンションしますよ、宇宙人の話を聞きないさい」といってるだけでは、二次元にとどまっているのである。

頭だけ使って実践がともなっていないのである。
こういうのを、気違い、という。


精神世界だといわれる宗教も実は二次元であったというオチ。


もっと詰めていえば、悪魔主義の宗教が人間を二次元に抑え込もうとしている。
[ 2013年04月14日 12:00 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

悟りの武術、ルールの武道 その2

「何をしているのか知らずに。」

というのは自分も含めてのことだ。

だから日本語には謙遜という態度の表明がある。

程度、種類は別として、それぞれ日々の鍛練をおこたらず、機転に対応できるよう自分を磨く。

これは他人が替わってやってもらえることではない。

他力本願を嫌うのはこのためである。

自分に能力がなく他力が必要な時は素直に頼めばいいことだ。

それは、上下関係ではなく伴(とも)の形態だ。


状態が常に動けばその綾を読み取って行動することが必要とされる。

武士や忍者の行動則はそれに対応するよう習練されてきた。
まさに「神人一体」をめざしたかのようだ。



利害関係が絡めばまた別の話になってややこしくなる。


ヒトに何もわからなくさせる力が働いて、「神人一体」から「神」と「人」を分けさせた。

何度も断るが「神=GOD」ではない。

そして、宗教は「神」を拝む対象として祭り上げた。



「嘉納治五郎を柔道の神様として崇拝する」というのは、別に嘉納治五郎が「神=GOD」ではないが、そのように権威付けすることで絶対的地位を堅守しその門下生以下すべてが信者となって、これに反する行動を監視する体制ができるということではないのか。


個人を「神」として祀る場合、企業であっても、芸事の流派であっても創始者ということである。

創始者が宇宙原理に通じていようが通じていまいが、それは関係ない。

最初に誰がやったのかが大事なのであって、ナントカスタイルの発端である。





蓑内宗一氏の「ツボと日本人」から「講道館柔道」の記述があったので引用する。



古来から武芸十八般と言い、剣、柔、弓、馬、槍……等等、十八種類の武芸がある。

そのなかで柔術ほど、東洋医学と関係の深いものはないだろう。

仁徳二八~昭和三〇年(紀元一〇〇〇~二六〇六)までの柔術の流派は約七二四流であり、現存している四十余流のうち、私が知っている二十数流を見ても、いずれも陰陽五行説、経絡学説と不可分にある。

もっとも、講道館柔道だけは他の柔術諸流派とは異っている。

野口清(潜龍軒と号す。帝国尚武会長、六段)は次のようにいった。


「世に講道館柔道なるものありて広く流布(るふ)す、主として乱捕(らんどり)を稽古し吾人のいわゆる型なるものの研究は殆んどなく、したがって我国の固有の真の柔術と称するを得ざるなり。

然れどもこは寧ろ当然の結果にして同流嘉納師範が護身術たる我国固有の柔術を殊更に体育のために按配したるが故なり、そのいかに真の柔術に異なる所ありといえども、これをとがむるはとがむる者の非のみ云々」



古来から剣もそうだが、柔術の習練方法には、型(かた)と乱取(乱捕)の二種類があり、型が主で乱取は従であった。

今日もこの伝統は守られているが、講道館柔道が全国を風靡すると同時に、乱取すなわち柔術ということが当然のように一般にひろがったのである。


嘉納治五郎氏が学んだ起倒流野田派(乱取と投技を重視した)の影響を見のがせない。

それに加えて体育学の見地から柔術を一般に普及した功績は素直に認めるべきである。

だが、固有の柔術とは違う。

それは技を比較するとすぐわかるが、根本的な相違は、経絡学説の有無にある。

それは講道館柔道の段位証とそれに匹敵する柔道諸流派の免許状を見くらべるのが早わかりだろう。

真之神道流(柔術)の免許状には「臓腑経絡云々」とあるが、講道館柔道の段位証にはない。

(『ツボと日本人』蓑内宗一著、いなほ書房、2002年新装第一版、221頁)




古来の柔術を、講道館柔道を普及させたように普及させることも可能であったろう。

そうしなかったのは、創始者の先見か、スポンサーの御威光か。

スポンサーは「神=GOD,創始者」より偉いのか?

[ 2013年04月13日 12:30 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

悟りの武術、ルールの武道

武道の世界から並々ならぬ気迫が迫ってくるのだが、どうもこの世界とは性に合わない。

魅力を感じつつも近寄れない。

だから、何か始めようとした時、弓道を選んだのかもしれない。

型を覚えたら興味がなくなって自然と遠のいた。

思い立って30年以上ぶりに弓を引いてみたのだが、型をしっかり体で覚えていた。

そして当時、聞いた話を思い出した。


「柔道の有段者は弓を引けない」

筋肉のつき方が違うということだった。


柔道で鍛えると筋肉は肩や背中の方が発達し、反りかえるような弓道とは逆なのだという説明だ。


私が疑問に思っていたことは、昔の武士たちは柔術も、剣術も、弓術にも長けていたはずだ。


ひとつを極めたら他のことが出来なくなることはどうしてなのか?


その疑問がとけた。


スポーツ武道に変わったためだ。



大東流合気二刀剣
曽川和翁著、愛隆堂、平成9年



現在、嘉納治五郎を柔道の神様として崇拝する人は決して少なくない。

この崇拝の中心根拠は武道家にして教育者であるということが、その根拠であろう。

これは嘉納治五郎自体が、学閥最高峰の東大を卒業した知識階級の人であったことや、学習院を初めとする名門学校の教育者としての地位と功績が持て囃されているからではある。

嘉納は武術の実践者というより、合理主義者であり、頭脳明晰で先見の明(めい)のあった近代希に見る経営学者であった。

そして大ていの武道評論家なり、註釈者なりは、嘉納の計算高い策士たる所以を迂闊にも見逃し、本当の武術家として批評し、言わなければならないことの根本を言い落している。


恐らく嘉納が目指していたものは、連綿と続いて来た日本武術という様なものではなかった。

策士であったが、上級武士が武士道精神に則って、戦略を巡らし戦術構想を練るというものではなかった。

ここが西郷四郎との間に深い溝をつくった原因でもあると謂われている。


※引用者注:西郷四郎は姿三四郎のモデル。



嘉納の目指す柔道は競技化し、スポーツ化した世界に向けての国際柔道であり、その構想路線は日本的なものから欧米的なものへの移行であった。

その組織拡大政策も欧米商人のそれであり、これによって柔道は欧米人に受け入れられ、瞬く間に世界的普及を成し遂げたのである。

目指すものは一国の国技という枠を超えて、国際化の美名の許(もと)に、日本武道及び日本的精神の崩壊を目指したものでもあった。

この点が福沢諭吉の「脱亜入欧主義」に極めて似通っている。


日本的な伝統及び精神を悪しき風習として、打ち砕くべく発端を切り開いたのは、ペリーの砲艦外交にはじまっている。

やがて明治維新を経て、森有礼(もりありのり)や福沢諭吉らによって創立した、明六社(明治六年に創立)の盛会によって、華々しい開花を見た。

これが彼等が豪語して憚(はばか)らなかった「文明化」即ち「脱亜入欧政策」であった。

中略


日本風土を徹底的に批判し、日本的なものに罵声のかぎりを浴びせかけることが、福沢諭吉の『学問ノススメ』からも窺(うかが)えるように、当時の社会風潮の流行の先端が、神仏と旧武士階級を扱(こ)き下ろす「文明開化」であった。

新興武道・柔道も、この流行に乗った観がある。

講道館柔道は、天神真楊流や起倒流等の柔術の名称を時代遅れのものと決め付け、《術》を《道》に摺(す)り替えて、《柔道》と体裁よく言い繕(つくろ)っているが、その正体は「人の道」とは全く関係ない、欧米を模倣した国際化の「欧米の道」であった。

国際化とは実は、「欧米人の、欧米人の為の、欧米人による、スポーツ柔道」であったのだ。

これはとりも直さず、白人国家主導型の運営で柔道を世界に普及させつつ、その裏で武士道精神を腐らせ、武道のスポーツ化を推進して、日本的なものを日本人から一切奪ってしまうことを意味していた。

(『大東流合気二刀剣』、 曽川和翁著、愛隆堂、平成9年、プロローグ、62~64頁)




次に紹介するのは、父親の蔵書であって昭和26年刊である。

一般大衆のひとりである父親は今でも自慢するくらい、柔道をちょっことかじったとしてもそれを誇りに思っているようだ。

捨てるに捨てられず置いておいたものだが、この機に頁を開いてみた。



徳川時代にあれ程盛んであった柔術も明治維新後の社会の変化により、一時は全く衰え世間に捨てヽかえりみられなくなった。

その中にあって明治十二三年頃嘉納先生はこれを学び、その護身術として、体育スポーツとして甚だすぐれていると共に心身の力を最も有効に使用する道(精神善用)としてその原理は世間の全ての事柄に通ずる事を悟り、以前の柔術諸流の長所を採り、これに工夫を凝し、修行の順序、方法を定めこれを柔道と名付けられた。

(中略)

以上のように国内で発展した柔道はやがて海外にも進出し、世界の人々にその名を知られ親しまれるようになった。 

即ち国際オリンピック委員であった嘉納先生や門下の人々が外国に渡って柔道を紹介し、普及に努力して成果をあげ、世界柔道連盟の結成も今一歩という所まで普及発展にいたったのである。

(『図解 柔道』、曾田彦一著、柏書院、昭和26年、3頁)



この後、大東亜大戦の機運が高まり、戦前の東京オリンピックはかなえられなかったのであった。

大東亜戦争は「文明開化」後の日本人の抵抗であったのか。

海外移民事業や満州開拓団事業も帝国大学の知識人エリートが中心となって進められ国際化の波に乗せられた経過とだぶらせて見ていると、現代のTPP問題も時代は変わっても同じ流れに代わりはない。



忍者や武士の生き方を、蓑内宗一著「ツボと日本人」や「正忍記」から照らしてゆくと、スポーツ武道とは明らかに違うことに気付く。

日々鍛錬して自然と精神力を養う武術と、道(精力善用)を唱えながら「気合いだ、根性だ」といっているスポーツでは、筋肉を鍛えて精神が養えず不祥事をおこすのは当然のことだった。





嘉納は武術家というより経済学者であり、また彼の国際化を図る柔道は、企業経営者のそれであった。

そこに柔道の大衆化があった。

講道館柔道は純粋に武術を修行する人達の願いとは裏腹に、分厚い柔道人口に支えられながら、国際化の先兵となるのである。

(『大東流合気二刀剣』、67~68頁)





「分厚い○○人口に支えられながら、国際化の先兵…」


どこでも先端を行く支持者は出てくるものだ。

何をしているのか知らずに。


[ 2013年04月11日 20:15 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

平成の「先祖になる」佐藤直志さんのご先祖


先日、「先祖になる」という東京新聞の記事を紹介した手前気になっていたが、やっと映画を観に行くことができた。

参考:『先祖になる』
http://akazukinverde.blog.fc2.com/blog-entry-25.html

先祖


昨年暮れのアメリカ日系人をテーマにしたすずきじゅんいち監督による三部作映画の第三部作目「二つの祖国で」はタイトルが女々しかったので足が向かなかった。

「MIS(ミリタリー・インテリジェンス・サービス)―人間秘密兵器」だったら行っていたかもしれない。

最初、米国で公開されたとき「MIS」が印刷されていたようだが、なぜ、「二つの祖国で」を前面に出したのか。

まあ、想像できる話である。

心情と現実とのせめぎ合いである。

シオニスト・ユダヤに配慮したかもしれない。

MIS



さて映画「先祖になる」に戻そう。

佐藤直志さんの家は高台にあったので津波で家が流されることは免れたが、それでも一階は浸水した。

地震の揺れと浸水被害でさえ、柱や建付けは曲がることなく水平を保ち耐えたことを自慢されていた。

気仙大工の技だと。

その家を建て替えるまでの二年間を追ったドキュメンタリーである。


震災被害でがれきの山に変貌したなか、村人たちがまず協力してしたことは被災したばかりの村で夏祭りの開催だった。

避難所生活する残った村人たちと山へ入って木を切りだし祭りの準備をする。

山車と山車をぶつけあう祭のようであるが、間に合った山車は一基だけだった。

一基の山車を曳くだけの祭りだったが、日常にない晴(ハレ)の催し物に人々が集まってくる。

佐藤さんは祭のお供えの寄進者名を墨で書いている。

まさに伴(とも)の形態である。


参考:「部民(べみん)」と「伴(とも)」
http://akazukinverde.blog.fc2.com/blog-entry-41.html


カメラは村の祠も映した。

佐藤さん制作の御神体が納められている。

自然の木を用いた男根と腰巻を巻いた女陰の二柱である。




ここから、私の考えが交差する。


この世界には拝む対象物を持つ民族とそうでない民族がいる。

飛騨族は水面に映した太陽の間接光を見つめ御魂鎮めしていたと伝えられている。

私がトム・ブラウン・ジュニアの描いたグランドファーザーとだぶらすところはこういう所でもある。



当時気候が今より温暖だった日本列島で飛騨族はまずは東北方面に広がっていった。

同じころ、別の種族が別のしきたりを持って住んでいたかもしれない。

男根や女陰の性器を拝む種族は昔昔、大陸やオリエントから列島に渡ってきたかもしれない。


性器を拝む伝統は大陸に存在する。


伏羲(ふくぎ)女媧(じょか)しかり、

バラモン教しかり、

悪魔主義者もそうだ。

ロスチャイルド家のシンボルはオベリスクそのものだ。


それらに侵略支配されたか、影響受けた部族なり種族はそういうものを奉ることが伝統となり、習慣化されたのかもしれない。

なぜなら、宇宙エネルギーを全身の気血で感知する能力があるのなら、崇拝する対象物は必要ないはずだ。

御魂鎮めは単なる瞑想ではなく、気血エネルギーの経絡の流れを円滑に行う行動則ではないか。

純粋なインディアンや縄文日本人はそんな能力を重視し日常に活かした種族(人間)だと確信している。



たとえ、別の習慣を持った別の種族が渡来したとしても、実害を及ばさなければ排除することも争うこともない。

むしろ一緒に発展することに努める。


宇宙原理にそぐわなければ取捨選択し退治したかもしれないが、その土地に住もうが、別の土地に移ろうが今自分が住んでいるところで努力する。

日系米国人は、自力で米国社会の地位を獲得し、地盤を築いている。

第二次世界大戦の悲劇を悲劇で終わらせない。



日本列島に古来より様々な種族が入り込み隣り合わせで生活して、種々雑多な伝統習慣が共存している状態が現在も続いている。

他の先進世界では見られない。

移民問題で諍(いさか)いが起こるのは、古代におきた戦争の民族淘汰の現代版ではないか。

あの頃は、力で支配されたが、現代は出生地や国、人種にこだわるようにされ、プロパガンダの流布に惑わされる。

自己主張しすぎると退治される。



佐藤直志さんのご先祖は違和感なく新しい土地に溶け込まれたのだろう。

別の習慣であっても別の土地で花開くことが出来る。

活かされるのである。


そのような習慣をいつどうして持つようになったのか。

考えられることはふたつ。

その習慣を持つ種族に侵略されたのか、または日本に儒教や仏教の伝来があったようにそのような情報の伝達があリ、受け入れ自分たちの伝統としたのか。

これは外圧によるもの。



もう一つ、神秘学で言うところの、宇宙進化論の地球期の始まりにおいて男女が別れたという、宇宙原理に通じる。

これは宇宙進化の現在の状態を感知して自主的に象徴して現わしたといえる。



生物は単体で増殖するのもいるように、生物発生の初期は単体であって、のちにオスメス二体になった。

現在の人間は生物界における最終段階であり、万物の霊長だというのはそういうことであるが、だからといって君臨するのではなく、地球環境に責任を持つのである。



アダムとイヴの話しは悪魔主義者が自分に都合良いように男尊女卑の形にしたもののようだ。

だからロスチャイルドの象徴がオベリスク一柱なのである。


日本で天御中主命(アマノミナカヌシノミコト)といったのは宇宙エネルギーの源のことで隠身(カクリミ)である。

その後のイザナギ、イザナミの話しはアダムとイヴの話しに似せてあとから作られたようで、最初女から声をかけたらヒルコが生れたと失礼な話しになっている。

飛騨の口伝者稗田阿礼(ヒダノアレイ)はそんなことは言わなかっただろう。

イザナギ、イザナミは飛騨族の実在のご先祖でヒルメムチ(のちのアマテラス)のご両親だと山本健造氏はおっしゃっておられた。


参考:akazukinのブログ テーマ「飛騨高天原」等

飛騨高天原の「出雲国譲り」事件 2009-11-11
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-10385968130.html

「飛騨高天原」の飛騨族はスメラミコトの系統 2009-11-18
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-10391309035.html





佐藤直志さんのご先祖は仲良く並べた二柱を伝えたようだ。

関東甲信越に多いとされる夫婦をかたどった道祖神という石碑が村の境界や辻に残っている。

現代的解釈は表面的に子孫繁栄を願うものになっているようだが、その隠れた奥は誰も知らない。





そうそう、二年目の夏には二基の山車が揃い激しくぶつかり合いを演じていた。


[ 2013年04月10日 12:55 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

正忍記 その13/離術法の解説

〈武道選書〉
忍術伝書 正忍記


藤一水子正武著
中島篤巳解読・解説
新人物往来社 
平成八年八月二十日初版発行




以下、中島篤巳氏による解読・解説。



離術法の解説


これは正忍記最後の項目であり、奥義である。

「離術」の言葉はいわゆる忍術そのものをも否定しており、いささか驚かされるところである。

「本質から外れた目先の雑事小事にかかわってはならない」と始まる。

武士は主従の絶対的関係で成立しており、中世戦国の忍びもそれに組み込まれるようにして「真理」とは主君の命令であり、それは強大な力に裏付けされた「理」であった。

しかし平和な江戸期に書かれた正忍記や万川集海などは、真理をより高いところに求めた。

それはさきに述べたように「唯一絶対の理」であり主君によって変えられるものではないところにある。

まさに「道理に向う刃なし」である。

正忍記は続いて

「物事がうまくいかないのは、本質的な価値を見失って私利私欲に惑わされるからである。 本心正しく欲に走ってはならない。 極理を悟って、その力に驚くことがないように」

と言い、ここに人間としての理を求めている。

儒教精神で結ばれた武士の固い主従関係とは違って、忍びと主君との絆は細い。

だからこそ世事のたいていが「雑事」であり、その中から本質を見極めないかぎり本気でかかわる価値もない。


さらに

「敵を無闇に恐れるのは敵の真の姿を知らないからである。 

達人は自分の考えや先入観、感情などを捨て、冷静に敵の心に従いながら敵を読み、機をうかがう。

焦ってはならない。

いったん失敗したら取返しがつかなくなるどころか、心まで棘のある枳穀(からたち)の林に踏み込んだようになる」


と続く。

これは万川集海の

「忍術の三病は一に恐怖、二 敵を軽んず、三 思案過ごす。 この三を去りて電光の如く入る事……。 
忍歌に “得たるぞと、思い切りつつ忍びなば、誠はなくと勝は有るべし”」


と本質的に同じである。


正忍記はさらに

「身心を固めて敵を威圧し、従わすのに“飛鳥の位”というのがあり、これは鷹が空を舞う時は他の鳥は下の方で怖がってすくんでしまうことに由来し、その勢いのなせる技である」

と続く。

この事は武術一般、多方面で言われていることである。

たとえば伯耆(ほうき)流の流祖である片山伯耆守久安は豊臣家の武術指南役を務めた剣豪であるが、彼の武術の理念は「戈止之筋(かしのすじ)」といって相手と刀を交えることなく、武術で固めた威圧で相手に刀を抜かせないように心掛ける。

※片山伯耆守久安(かたやまほうきのかみひさやす:1575~1650)



もし刀を交えたら何らかの形で自分も傷つくことになり、負けであるとして神武不殺の思想を重視している。

これは正忍記の「飛鳥の位」とまったく同じ武の哲学である。


機は戦いの生命線である。

「また熟果が枝からすぐに落ちてしまうのと同じように、丁度よいという頃合いはすぐに消えてしまうものである。 かといって取りかかる時期が早過ぎると余分な事までしなければならなくなるし、遅すぎると後手に回ってしまう。 頃合いということをよく心得ておかねばならない」


として、機をとらえることの難しさと重要性を解いている。

さらに、

「敵に対した時、自分に備えがなければ、一太刀(ひとたち)ならぬ一舌を浴びせる。 気力が通じれば心の妙剣が敵を防ぎ、切迫した危険を回避することが出来るものである。 刃がなくても人を殺し、薬がなくても人を蘇らす、すなわちこれを一舌の大事という。

心がよくかなう時は剣刃の上を歩いたり、氷の丘でも走ることが出来るなど、無我になり心を集中すれば一見不可能と思われることでも可能になる」




とその瞬間の真理を捉えた「心の力」の重要性にふれている。

そして極意伝は「これは忍びの上手に敵無く子孫繁栄の書である」

と結んで終る。


(『正忍記』193~194頁)





『正忍記』
名取三十郎正澄/藤一水正武(ふじのいっすいまさたけ)丈夫著
巻頭言 勝田何救斎養真
延宝九年(一六八一)

解読・解説 中島篤巳
[ 2013年04月09日 20:30 ] カテゴリ:正忍記 | TB(0) | CM(0)

「環境問題専門家」は炭素を議論するが、ケムトレイルを無視する。

ヘンリー・メイコウのニューズレターから
http://henrymakow.com/2013/04/enviromentalists-discuss-carbo.html


"Enviromentalists" Discuss Carbon, Not Chemtrails
「環境問題専門家」は炭素を議論するが、ケムトレイルを無視する。

April 6, 2013

アルゴア
アル・ゴア(写真)。 すぐにでも地球温暖化しないとね。 もっと熱くしてくれって、アルさん?


バンクーバー・ケムトレイル・ミートアップ・グループが報告する地球温暖化会議の模様。
「環境保護主義者(Environmentalists)」は、ケムトレイルの議論を拒否しました。
彼らは、炭素税(carbon tax)を推進するイルミナティの駒だ。




「緑の党党首はケムトレイルの問題に直面しました。 党首は応えました、その話はこれっきり(WE DO NOT TALK ABOUT THAT)、そして何遍も繰り返しました。」(本文より)


by Chemtrails Vancouver(ケムトレイル・バンクーバー)
(henrymakow.com)


まずはじめに、私たちのケムトレイル・グループの代表に感謝します。 会場は満員で私とトニーはバルコニー席でした。

昨晩、5人の地元の政党候補者と3人の招待客から地球温暖化について肝をつぶすような宣伝を終わりまで聞いたあと、私はみなさんに1つ意見があります。 より真剣に行動してください!

炭素税

聴衆の反応からですが、私は、課税されるのを嫌悪する唯一の人物であるかもしれません。 5人の全候補者は、炭素税(Carbon Tax)を年度増加分に履行しようと提案しました。 現時点で、ガス暖房の料金を払っている方は炭素税として15%を負担しています。 言うまでもなく、地域営業、サービスに対する支払、小売店からなんでも購入するなら、わずかではありますが彼らの炭素税も払っています。

一人を除くそれ以外のほとんどの聴衆は、より多くの課税に拍手喝采でした。

以下に書く情報であなたが行動に駆り立たせないならば、何でそうなのか私にはわかりません。 昨晩、私は、大手産業が炭素税を免除されていたということを候補者の1人を通して知りました。

どうですか?  長い間、私たちは人工の地球温暖化のため、炭素税を払っていました。 しかし、大企業、財閥(Big Biz)はこの税から免除されていました。

明らかに、候補者、主催者と聴衆は自ら認める環境保護主義者でした。 しかし全行程の最初から最後まで、、誰も「汚染公害(pollution)」という言葉を決して口にしませんでした。 一言も。

炭素(Carbon)は、新しい問題で厄介です ... ただの普通の炭素ではありません。 あなたの排出する炭素が問題で、解決方法はより多くの課税とあなたの人生の規制です。

この世の健全を望むならば、 ... この世を健全にしてください。


chems.jpg


この会議は厳しい制御下のもと、聴衆からわずか2人を選び質問が許されます。 私は、選ばれませんでしたが、質問したかったです。


主催者は、聴衆からの質問を許可するのに開催者の公認がいると認めました。  彼らは、1人の人物をさしました。 私たちのメンバーで最初に手を上げた女性は、ずっと無視されました。

どこか別の場所に座っているもう一人のメンバーは、立ち上がって、主催者に、聴衆の中の女性が死にもの狂いで腕を振りまわしていると叫びました。 明らかに、女性は質問があります。  彼女が話すのを許されるべきです。

主催者は屈服して、インゲ(Inge)にマイクを渡しました。 インゲはケムトレイルの影響その他について話し、ケムトレイルを知っているかどうか、パネル・メンバーに尋ねました。

数人のパネル・メンバーは、ケムトレイルについて少々知っているが、ケムトレイルが問題であると感じていないと認めました。 他のパネリストは、ケムトレイをこれまで見たことがないと主張しました。 すべてのパネリストは、彼ら自身の経歴によると、自ら認める環境保護主義者であることを忘れないでください。



主催者は、別の主題に切り変えました。 彼女は、怒ったようになってステージの方へ走りより、少し正気を取り戻し論文を持ってきて、主張しました。 ケムトレイルを見たくなくても現実に存在します、みなさん空を見上げてください!  もちろん、彼女は他に多くのことを言いました ... もっと多くのことを知りたければ、 ... 朝昼がかりで彼女に尋ねなければなりません。


カナダ緑の党
カナダ緑の党党首(2006年~)エリザベス・メイ(Elizabeth May )2006年~

その後、彼女は緑の党党首に、差し向かいで、ケムトレイルについて尋ねました。 党首は応えました、その話はこれっきり(WE DO NOT TALK ABOUT THAT)、そして何遍も繰り返しました。


そういうわけです。


会議が始まる前に、外では長蛇の行列が待っていました。 誰もが中に入れるまで、トニーと私はインターネットでビラと写真アルバム作りの作業をしていました。  支援と、より活発な行動を忘れないでください。


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Related - Lesser Known facts About Chemtrails (ケムトレイルの知られていない事実)

(前文より)

-人類駆除剤(Human Pesticide)? 

「この10年で、米国の呼吸器疾患は、第8位から第3位へ最も高い死因となった。 喘息罹患率は西欧世界で2倍以上になり、アルツハイマー型疾患(アルミニウム中毒に起因する状態)も急上昇した。

この災難をくい止めるために協力しないならば、それに値するものを得ることになる。



【翻訳:タドン】

[ 2013年04月08日 23:40 ] カテゴリ:ヘンリー・メイコウ | TB(0) | CM(0)

正忍記 その12/無計弁舌の解説

〈武道選書〉
忍術伝書 正忍記


藤一水子正武著
中島篤巳解読・解説
新人物往来社 
平成八年八月二十日初版発行



以下、中島篤巳氏による解読・解説。



無計弁舌の解説



「忍びだからといって話し方、教え方の肝要などがあるわけではない。

達人は事に臨んで始めて弁舌が爽やかになるし、謀(はかりごと)も湧くように思いつく。

前もってああしよう、こう対応しようと考えておいても、結局それは何の役にも立たない。

危険な時はなおさらである。

普段から理を極め心を安らかにしていれば、敵の変化に従ってうまく対応出来るものである。

心理状態が安定し聡明なら、事ある時には意識しなくても自然に理にかなった対応ができる。


忍びは本来は武士の役目であり、盗賊泥棒の類ではない。

だから昔から夜盗ではなく夜頭と名付けて、忍び上手を頭すなわち将として、配下に一群をつけた。

しかし大事な場合には忍びの頭に担当させたという。

時に臨んでは決して心命をおしんではならない。

“死中に活あり、活中に死あり。 生死の境に立った時は、自分すなわち命を意識してはならない”とある。


古歌に

空蝉の裳抜(もぬ)けのからと身はなりて
我もあらばこそ物怖じはせめ



とあるように、心を体から遊離して無我になり、恐怖感や感情に包まれていない純粋理性の我が姿を見つめることが出来たら怖いものはなくなる。


自分を感情欲情から離して“無”にすることが出来なければ、些細なことに振り回されて機会や情気を失い失敗の原因となる。

肝心な時には速やかに“無我”の境地に入り、冷静沈着に事を運んで目的を達成し、生きて帰るためには決して臆してはならない。

極論すれば、怒って我を忘れて物事を壊したりした場合でも“無我無心”である。

この辺を熟慮して悟らねばならない。

色々と説明していると仏法がましく、悟り損ねた禅修行者が迷っているようになるのだが、忍びの道においてその極みを察した時は、何を以て有とし、何を以て無しとするのだろうか?

おそらく“忍法は無我で仕掛けるなり”というだろう。

すなわち第三者が尋ねても忍びは宇宙に溶けこんでいるので形が無く、求めても自我を殺しているので心が無い。

ただ無我で得た自分の心に従って行動すればよいのである」




特に最後の段は実に難解であるが、さきの「無門関(むもんかん)」のように禅問答で解釈を進めればよい。

この項の「自心見性」とは「人心見性」であり、やはり禅の「直指人心、見性成仏」からの引用である。

また、「かねて定まりたる弁舌法要なし」の意味は禅の「不立文字(ふりゅうもんじ)」にあたる。

また極秘伝の「是を放てば六合にわたり、これを巻けば方寸の中にかくる」は禅の「教外別伝」にあたると考えられる。

以上の如く、正忍記の奥義は禅の境地と表裏一体の関係にあることがわかる。


ここで解釈を助けるために禅を代表するものに達磨の四聖句をあげておく。


一、不立文字(ふりゅうもんじ)

文字では伝えることが出来ないということで、具体的には「悟りの境地は文字で表現することが不可能な、純粋経験である」という意味である。

詰まるところ禅では悟りの方法は文字や言葉で伝達するのではなく、釈迦と同一の経験すなわち「座禅に励め」という。

この座禅は前項の「心を納め理に当たる」に共通点を見出す方法である。


二、教外別伝(きょうげべつでん)

他の仏教は「経典」が数学の中心となっているのに対して、禅宗は釈迦の教えを「教内の法」と言い、教典や数学では表現出来ない所の釈迦の教えが教外別伝であり、禅の真髄である。

この正忍記も総論的、例示的に記されているのはこの意味合いが含まれてのことであろう。


三、直指人心(じきしにんしん)

迷い込まずに素直に自分の心をみつめなさいということで、ここに言う人とは自分である。

いたずらに外にばかり目を向けてもだめで、あれこれと考えずに直接自分の心を見つめなさい、という教えである。


四、見性成仏(けんじょうじょうぶつ)

達磨四聖句では一番大事な句であり「悟りは自分が備え持っているので、その仏性に目覚めれば、仏になることが出来る」という意味である。





悟りの方法が座禅であり、それによって「無我」になる。

これが正忍記の「心を納め理に当たる」と共通な方法であることは先に述べた。


(『正忍記』、188~190頁)




『正忍記』
名取三十郎正澄/藤一水正武(ふじのいっすいまさたけ)丈夫著
巻頭言 勝田何救斎養真
延宝九年(一六八一)

解読・解説 中島篤巳
[ 2013年04月07日 20:46 ] カテゴリ:正忍記 | TB(0) | CM(0)

正忍記 その11/心の納め理に當たる事の解説

〈武道選書〉
忍術伝書 正忍記


藤一水子正武著
中島篤巳解読・解説
新人物往来社 
平成八年八月二十日初版発行



以下、中島篤巳氏による解読・解説。




心の納め理に當たる事の解説



「道理と利口と知るべき事」では物事の道理すなわち真理を見極めることの重要性が説かれていたが、ここではそれに近づくための心構えについて述べている。


「心を納めるというのは、理性が感情や情念に左右されて判断を狂わせたり、情気を費やして心身共に破れて遅れをとったりと言ったことがないように、常に“気”を強く養っておくということである。

目的を遂げることが出来ないのは、確固たる信念や根性が足らないからである。

目的と対峙した時、その価値の理解と気構えが不十分なために今一歩の所で挫けてしまう。

忍びは気根が弱くては勤まらない。

心静かに落ち着き納まるなら、時として人の気付かないような真理に気づき、出来ないことさえも出来たりするものである。

精気が強ければ堪え難いことも堪え、泰然として動ぜず、物事に焦ることなく勇み足で失敗しないものである。

人の心は奇々怪々で自然の法理そのものの木火土金水、すなわち宇宙がすべて備わっている。

それは必要に応じて瞬時に現われるが、それを求めようとしても普段は求められない。

精神力で火を使わなくても冷たいものを吹き冷ます。

これはまさに森に入ると木は声を響かし、金は水を育て、土はこれを生み出すという条理である。


何と絶妙なことだろうか。

心静まれば水のように無理なく状況に応じて変化し対応することが出来る。

すなわち火は意識しなくても燃やす物に応じてその勢いを変え、木は自然に応じて枝葉や根がはびこる。

風がその木を倒そうとすれば素直に応じれば風になびき勝ち、自然に逆らって争えば風に倒される。

金は硬いが人の成すことに応じて形を変える。

土は水火木金の全部に関係し、その自然の理を生んでいる。

この自然の理に通じていなければ、弁舌に説得力がなく術も徒労に終わり、忍びの技が拙(つたな)いというべきである」




正忍記は天下の状勢を自然(宇宙)になぞらえて真理の流れに従うように説いている。

結局は忍びも大きな自然(人為を含む宇宙)の一員であり、逆らわずうまく時の状況の流れに乗れば無理なく活動できるものであるという。

そのためには自己との戦いがあり、精神力や知力を鍛えて常に力を蓄えておき、信念を持って対処することが必要である。


目的達成率0%で失敗しても失敗であり、また99%達成して残り1%で失敗すれば結果はまったく同じ失敗である。

しかし後者はもう少しで達成することが出来るわけであり、あと一押しの力が普段から蓄えておいた気根である。

ここに「常に心を納め理に当たる」意味がある。


(『正忍記』、183~184頁)





『正忍記』
名取三十郎正澄/藤一水正武(ふじのいっすいまさたけ)丈夫著
巻頭言 勝田何救斎養真
延宝九年(一六八一)

解読・解説 中島篤巳
[ 2013年04月06日 22:02 ] カテゴリ:正忍記 | TB(0) | CM(0)

正忍記 その10/道理と利口と知るべき事の解説

〈武道選書〉
忍術伝書 正忍記


藤一水子正武著
中島篤巳解読・解説
新人物往来社 
平成八年八月二十日初版発行



以下、中島篤巳氏による解読・解説。


道理と利口と知るべき事の解説


物事の中核には「真」があり、その周辺を「真しやかに」違和感なく取り巻く「偽」がある。

忍びが求めるのは真であり、これは実際に価値ある情報や手段である。

正忍記は「真」を「道理」とし、「偽」を「利口」としてその違いを次のように説いている。



「道理は誰に聞いても、何時、何処で聞いても絶対普遍にして内容が確実である。

対する利口は快く面白いが、時、所によって変わるものである。

物にたとえれば、道理は耳で音を聞くようなもので、途中に障害物があってもそのまま聞こえる。

対する利口は目で見るようなもので、薄い紙一枚で遮ったらもう見えなくなる。

すなわち道理は万里を隔てても正確に伝わってくるものである。

利口は道理と比べれば聞き劣りするもので、内容が変わるものは道理ではなくて利口と思えばよい」


という。

そして、

「道理をもって物事を察し、相手が納得するような虚飾をもって術中に陥れなければならない。

本心をしっかりと奥に秘め隠し、落ち着いて話をすれば、自分でも驚くほど弁舌爽やかになり、利口すなわち虚飾で相手を騙すことが出来る。

焦ると相手に先に利口を取られ、目的を達成出来なくなる」



と結論づけている。


忍びのいう「道理」とは真、真実、真理、天理などの意味であり、具体的には相手の本心、間違いない情報と思えばよい。

(『正忍記』、180頁)



『正忍記』
名取三十郎正澄/藤一水正武(ふじのいっすいまさたけ)丈夫著
巻頭言 勝田何救斎養真
延宝九年(一六八一)

解読・解説 中島篤巳
[ 2013年04月05日 21:20 ] カテゴリ:正忍記 | TB(0) | CM(0)

正忍記 その9/心相の事の解説

〈武道選書〉
忍術伝書 正忍記


藤一水子正武著
中島篤巳解読・解説
新人物往来社 
平成八年八月二十日初版発行



以下、中島篤巳氏による解読・解説。



心相の事の解説



術をかけるために相手の感情や性格を把握する方法である。

「ここは非常に大切である。 

人相を読むことは伝法をもって知ることが出来るが、この心相を知る方法は教えられ、さらに人生経験をもとに推察するものである。 

人相は当たらないことが多い。 

しかし心相はよく当たるので、読み違えるようなことがあってはならない。 

まず自分の生来の性格を考えてみよう。

それには偏よりがあり、偏りが個性を特徴付けていることに気付くだろう。 この偏りこそ術策を仕掛ける目標である。

偏りには七情、すなわち喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲がある。

これらは生まれつき備わっているもので、全く同じものを仏法では喜・怒・憂・思・悲・恐・驚という。

生まれながらにこの七情がすべて完璧である者はいない。

全部が完璧なら聖人である。

この七情は成長とともに少しずつ変わり、本人の生活環境によってそれぞれの情が、本人に丁度良いように他の六情とのバランスを取りながら形成されてゆく。 

急変や折節につけて他の六情が棄(す)たり、一情のみ突出し、これが本人の俗性となるのである。


要はある条件下に置かれた相手の、その環境に反応して表す突出した感情を素早く見抜くことが大切で、その感情の逆手を取って先手を打つことが、この“心相の事”の真髄である。

ただし、その感情の描出にはいろいろな原因がある。

たとえば怒り一つを取り上げてみても、争って怒る、損をして怒る、世を恨んで怒るなど感情を描出するまでの過程は異なっているので、当然のことながら、その原因、過程を見極めながら対応しなければならない」




人間の感情や性格を実にうまく概念的にとらえている項である。

心理学では、性格とは「それぞれの個人を特徴付けている、持続的で一貫した行動様式」と意味づけており、これがポイントである。

性格が「持続的で一貫した行動様式」であるが故に、冷静に相手の性格をうまく利用し続ければ「常」に先手を取り、自分に都合のよい誘導が可能なわけである。

性格には価値の概念が生きている。

したがって二度と生還出来ない死間や決死的な目的を持って行動する場合はもちろんのこと、普通に人をうまく利用する時にも、相手の価値観を考慮しながら策を仕掛けなければならない。

人間は理性よりも感情に左右される。

見かけは穏やかでも、高まる感情は確実に理性を凌(しの)ぐ。

欲、愛、憎しみなど七つの感情を刺激し、機を逃さず畳み込めば、相手は確実に術中に落ちるだろう。

正忍記の行間に潜む内容の深さと心理戦は絶妙である。

心理戦に関しては他の伝書を遥かに凌いでおり、現在でも学ぶべき点が多い。


(『正忍記』、176~177頁)






『正忍記』
名取三十郎正澄/藤一水正武(ふじのいっすいまさたけ)丈夫著
巻頭言 勝田何救斎養真
延宝九年(一六八一)

解読・解説 中島篤巳

[ 2013年04月04日 16:34 ] カテゴリ:正忍記 | TB(0) | CM(0)

東京新聞に騙された! -2「嘘から出た実」

四月一日の東京新聞のエイプリルフール特集記事は完全に嘘である。

これは後で大笑いであった。



他のウソ記事は興味を示さなかったのに、この「野球の起源…」はしっかり読んでしまった。

まことしやかに書かれたウソ記事でも「実」の面を見ていたのである。

サムライや忍者が球を持ったらその身体能力を使ってどのように扱うであろうか…と想像していた。


原理や規則にのっとった行動とはどのようなものなのだろう。

メジャーのイチローが米国人にニンジャといわれるゆえんであろう。



ことわざに「嘘から出た実(まこと)」というのがあるように、ウソがマコトになる時は、宇宙原理、自然の法則の理にかなった時である。


日本人は手技の方が優れているので、野球は性に合ったようで早くから馴染み普及された。

最近はサッカーだろうか。

足技はぶきっちょな西洋人向けと思っていたところ、日本人も武者修行よろしくどんどん海外へ飛び出し実力をつけて世界レベルとやり合うようになってきたこの頃は、足技も冴えてきたようだ。

日本人が西洋人より優れた面を見せ始めると日本に不利なルール変更やらされてきた国際社会の現実がこの「ウソ記事」にも反映され皮肉っている。

普段よりこの時とばかりやけに歯切れがいい。



以前、霊感商法の被害者さんたちのブログで紹介されていた本「霊と金―ピリチュアル・ビジネスの構造」(櫻井義秀著、新潮新書、2009)を読んだ。

一旦、サーバー元からブログ主が削除対象にされると、何回も同じ目に合うらしく、今その紹介された記事は見られない。

この本自体は他でも取り上げられているので問題はないはずだ。

これを読んで、なにかいたたまれない気持ちになるのは、まさしく「ウソ」と「マコト」の駆け引きだからだ。

しかし、最終的にスピリチュアル・ビジネスにマコトはない。

マコトになる時は、自分が自分で原理、法則を見つけた時であるので、自分でない他のモノが見つけてもらう、授けてもらうものではない。
[ 2013年04月02日 11:48 ] カテゴリ:ビー太郎日記 | TB(0) | CM(0)

東京新聞に騙された!

といっても、四月一日に毎度、東京新聞は嘘の特集記事を通常の構成で掲載する。

ので、パッと見た目では気づかない。

「韓国起源説」の向こうを張ったのかとも思いながら、ウソだと思いつつもだんだん信じてしまったのが
「野球の起源は日本だった」(東京新聞4月1日付朝刊、25,26面)。

インターネットで信憑性を確かめてみようと検索するまで気づかなかった間抜けさだった。

よく見るとこの面の広告も嘘だった。


前もこの新聞にダマされたから用心していたが、四月一日だということを忘れていた。


全文引用して如何に巧妙に練られ、時代考証、登場人物と手の込んだお話しかお知らせしたいほどだ。


人が興味を持つツボをついて、証人をたてたり、箔をつければ、ウソの話しだろうと「そうかもしれない」と思わせてしまうのだろう。


世の中はそんな話ばかりだと気をつけよう。

四月一日だけでなく。

[ 2013年04月02日 00:37 ] カテゴリ:ビー太郎日記 | TB(0) | CM(0)
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