ビー太郎サバイバル日記

武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。「正忍記」その5
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タイムイズマネー/イルミナティ時間


イルミナティが現代の時間の概念を作った、と聞いてなるほどと思っていた。

ベンジャミン・フランクリンが言ったとされる、「タイムイズマネー」はそのものズバリを言いあてている。

考:Time is money
http://www.geocities.jp/sonny_l_lab/english/proverbs/t/time_is_money.htm

参考:ベンジャミン・フランクリン-フリーメーソンでしかもユダヤ人
2009-10-02
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-10354789488.html



お人好しの日本人は、いいようにしか解釈していないはずである。

イルミナティ悪魔主義者がタイムイズマネーの社会に人類を誘導したのである。



今日はひとつ、自分なりに説明を試みることにする。


時間の概念とは、現代私たちが生活に使っている時間である。


歴史の流れの時間とか、進化の過程の時間もこれにあたる。

生まれてから死ぬまでの人間の一生の時間。

朝から夜までという時間。

始点があって終点がある。



問題があるとしたらどこにあるのだろう。


みんなが共通の時間の概念なり基準をもてば、 同じ時間に同じ体験ができる。 報酬の基準も時間で決められるし、オリンピックの記録も時間を争う。 同じ時間の概念があれば人と約束をすることができる。 刻一刻と変わる相場も、年末のカウントダウンも世界中で可能だ。


そう、現代はそのように時間の制約の中、生きている。


民族それぞれに暦があったように、時間も価値基準が違っていたが、グローバル化とともにイルミナティ時間が基準となりつつある。

これはこれで一理ある。

みんなが同じことをするためには基準が必要である。


そうでない視点を考える。


自分を基準としてみれば、子ども時代を経て今がある。

子ども時代は自分にとって過去のものだ。

年とって老人になるのは未来のことである。


しかし、社会の流れから見れば、老人はやがて死んで過去になる存在で、子どもは未来を生きる存在である。



自分だけが過去と未来の間に立っている。

他の人たちもそうであろうが、認知できるのは自分だけである。

自分は過去にも未来にもなる存在である。

これは、過去も未来も「イマ」も渾然一体となってこの世に存在していることではないのか。

すべては自分の行動からはじまる。

目の前にある未来…子どもや老人という未来である。

夢のような未来ではなく現実の未来である。

ただ視点が違うだけである。


子どもや老人にとって住みにくい世の中なら、

未来が危ぶまれている、ということである。

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[ 2013年05月30日 19:55 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

家畜人は自殺はしない



昨日、「人工的動物とは家畜人のことではないか」

とふっと思い立って書いてしまったので、その続きを一晩考えた。



家畜は自殺しない

だから子供は家畜人ではない。



と私は結論付けた。





家畜は自分で死期を決められないトサツがあるだけだ。

だから、家畜人は食糧に困らず、住むところがあれば、自殺はしない。




自殺は人間的な行為であると、先の論者はいう。

私もそう思う。




では、子どもが自殺してしまう事件はなぜ起きるのか。

子ども=動物

と定義づけたとしても、子どもは人間であって、進化の過程における動物的感覚の優勢の時期のことで、成長とともに教育によって人間の知性を養っていく。


動物的感覚が優勢であれば、生きることに集中するので自殺などしない。

どの宗教でも自殺を否定的に見て、自殺しないよう呼びかけるのは、悲しみ以上に魂の問題だからではないか、と思っている。



では、人間はどうして自殺するのか。



ここで少し視点を変えてみる。

西尾幹二氏のビデオを見ていたら、ある回で「いじめ」について話していた。

「いじめ」による痛ましい事件が多くなっているのが背景にある。

彼もまた子供時代にいじめにあったとかなんとかで、どのように対処したのか持論を展開された。

私もそうだなと思ったことは、

「今の子どもたちは戦い方を教えられていない」ということだった。

いじめは人間の成長の過程において起きるものなのだ。

いじめっ子、いじめられっ子だけでなく、周りにいる大人や子どもたちも空気が乱される一大事である。

当人同士で決着がつかなかったら、

兄貴格の子どもが仲裁に入ったり、

近所の大人が注意したり、

社会構造が何重にも取巻き機能していたことを話された。



何が正しいか、何が間違っているか、どこが問題なのか、こうして学んでいくものだろう。

そして地域社会が子どもたちを守り育てていたのだと。



それはそうとして、

今まで構築してきた確固たる社会構造が破壊され、今までの観念が覆され、さまざまな要因で社会が不安定になったりして、

大人たちがつくる社会の問題を解決できなかったりしていたら、子どもの社会にも影響が及ぶ。

「いじめ」に対する「戦い方」を教えられていないのと同時に、

「生き方」が教えられていない。



どのように稼ぐか、儲けるかは「生き方」ではない。

自然と一体という人間の本来の「生き方」である。

「生きる方法」を知っていたら、「生きる」ために死を選ぶことはあっても自殺はしない。




もう一つ疑問がわいた。

人間に自殺することを教えたのは誰か。


[ 2013年05月27日 21:30 ] カテゴリ:ビー太郎日記 | TB(0) | CM(0)

消えゆく「人間」的知性=家畜人


新しく購入したパソコンがLED仕様で、昨年末から頭痛と目の痛みがひどくなり、度付のブルーカットレンズのめがねを新調してなんとか治まったもののやっぱりインターネットは向いていないと思うのこのごろである。

けれど、文字で綴る日記が長続きしないのに、これはこれで続いているのはどういう訳なのか。



5月23日の東京新聞朝刊第7面「論壇時評」覧に


大人のメディアと子どものメディア
消えゆく「人間」的知性


佐藤卓己(さとうたくみ=京都大学院準教授、メディア史・大衆文化論)

の記事が掲載されていた。

この論文は雑誌に掲載された論文の批評をしている形になっている。

そして、「新潮45」6月号の特集記事のひとつ濱野智史(はまのさとし)の「信者でもアンチでもなく」の」論文を大いに褒めている。


以下引用。


人間至上主義は、ウェブ技術が人間、すなわち理性的な主体を強化すると考える。

つまり理性的市民が熟議する「電子公共圏」の成立をウェブに期待するわけだ。

だが濱野によれば、ウェブは「人間」的ではなく「動物」的な知性を強化する。

それは「食欲」のグルメサイト、「性欲」の萌え系サイトなどで驚くべき「集合知」が蓄積されていることからも明らかだろう。

もちろん、これに反中嫌韓サイトなどの「破壊欲」を加えてもよい。

つまり、ウェブは熟慮する大人よりも即決する子供に適した技術なのである。

他方、機械至上主義者はウェブ上に蓄積された「ビッグデータ」のマイニング(解析)で人間行動の合理的予測を夢見る。

(中略)

濱野は、こうしたデータ解析も「動物」的な行動の分析には有効かもしれないが「人間」的な行動への適用では役に立たないという。

(中略)

その意味では、大人メディアである新聞雑誌を読む「スローな知性」の方が、ウェブ上の「ファスト的な知性」よりも実際には役立つといえるのかもしれない。

濱野も「人間という動物」の二面性を踏まえた技術の使い分けを主張している。


新潮45・6


以上。


人間は、「スローな知性」も「ファスト的な知性」も両面もつ生き物である。

「スローな知性」はこれこれこうで、
「ファスト的な知性」はこれこれこうで…

とデジタル的な解説で面白くもりたてて、現実ではその中間をとってアナログな生活をしている。


平凡にまとめるとたいていこのようなパターンでおさまるようだ。


私がインターネットはどうも慣れないと思いつつ技術的な面で使用し続けるように、現代はそのようにシステムが出来上がって生活の一部になっているように、道具として使っている。


ここでいうように、ウェブが「動物」的行動する子供に適しているというなら、現代のように生まれたときからインターネットに囲まれてウェブで育つ子どもは「動物」的反応に偏るのではないだろうか。

「スローな知性」とここで言っている新聞雑誌が肝心なことを突っ込まないことに日ごろから歯がゆさを感じているのは、結局、できあいの世界に収まっている感が強いからだ。

それは、社会全体が子供を「人間」ではなく「動物」にしようとしている事に加担しているのではないか。





この項目の前に『現代思想』5月号(特集・自殺論)の伊藤茂樹「子供の自殺を消費する社会」を取り上げ引用している。

「子供はもともと自殺する存在とは見なされていない。 動物が自殺しないことから明らかなように、自殺という行為はきわめて人間的なものである」


現代思想5月号


ここでは

(子ども=動物)→自殺しない


となっている。


しかし、自殺する子どもが増えているという痛ましい事実がある。

子どもは「人間」なのか「動物」なのか。


動物は本能の範囲で襲うことはあっても、人間のやるような民族絶滅を目論むような殺し合う「戦争」もしない。


人間の知性を失くした動物。

しかし、自然の動物でもない。


人工的動物とは家畜人のことになるのではないか。

そしてさらに考える。

家畜は自殺するのだろうか。






[ 2013年05月26日 17:46 ] カテゴリ:ビー太郎日記 | TB(0) | CM(0)

「知恵の喪失」/児童相談所の怖い話


バリー・シュワルツのトークには、話題を考えるうえで現実でおこったいろいろな例が引用されている。

同じように、自分自身も似たような状況を思い描きながら聞いた。


このトークの中で、父親が11歳の子どもに誤って5%のアルコール入りのレモネードを飲ませたときの話。

それを見つけた警備員が警察へ連絡したのが発端となって、子どもは病院へ送られ、検査され、児童養護施設へ監禁されてしまったという。

家族が元の生活を送れるようになったのは二週間後。


児童福祉局も救急隊も裁判官もみな一様に同じことを言っていました。
「こんなことしたくはないが決まった手続きに従うしかない」

(トーク「知恵の喪失」から)


他人事だから笑ってしまいましたが、日本でもこのようなことが起こっているという話しを最近インターネットでみたばかりだ。


精神科医内海聡さんの本もそのままズバリのタイトルで出版されている。

本を読んでから書こうか悩んだが、ユーチューブでも動画がアップされていることだし、バリー・シュワルツに合わせて紹介することにした。


内海氏は船瀬俊介氏との対談の中で「児童相談所に拉致される子どもたち」の話をしていた。

その部分だけピックアップした動画があった。



子供が児童相談所に拉致されている 
内海聡 船瀬俊介(28:54)
公開日: 2012/06/28

http://www.youtube.com/watch?v=xHBpaKj7smc



ZAKZAK【児童相談所が危ない】一方的な主観で全て決定 児童の一時保護
内海聡(うつみ・さとる)
2013.05.02

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20130502/dms1305020710001-n1.htm

児童相談所の怖い話


どうしてこのようなことが起きるのか。

この組織や制度を作った当初の人たちの目的と逆のものになっているのはどうしてなのか。

その後ろに潜んでいるかもしれない黒幕はこうなることを予想していたかもしれない。

親と子供を引き離し、伝統的知恵の伝承や親の愛情から遠ざけ、自然に愛情を持たせない子供を育成することを目的とする人々である。

将来を担うのは子供だから、子供の思考回路を変えさせるのである。



表に立ってこの規則を施行しようとする人たちにはそういうつもりはなく良いことをしていると思っているであろう。

もしくは、生活のために仕事を選んだか。

つまり、バリー・シュワルツによるところの「報酬と規則」によって、本来持っていた「知恵」の喪失を招いた結果が現われたことではないのだろうか。


体制、体裁を維持するうえで「報酬と規則」は、威厳を保つが、いったん例外が持ち上がれば組織を機能させないように働く。


もし私たちがより規則に依存するようになったら、規則や報奨は一時的に状況を改善するかもしれません。 ですが、長期的には悪化していく悪循環を生み出します。 私達は規則に頼りすぎることで臨機応変に状況から学ぶ機会を失い倫理的技術を衰えさせてしまいます。


また、絶え間なく与えられる報奨という誘惑は私たちの「正しい行為をしたい」という思いを奪い倫理的意志は揺らいでいくでしょう。 そして私たちは無意識に規則や報奨に頼ることで知恵に対する戦いに巻き込まれています。

(バリー・シュワルツ『知恵の喪失』から)



私たち人間は、どのような世界を作ろうとしているのか。

「報酬と規則」について明確な解決策は提示できないでいるが、それでもアリストテレスの言う実践知(倫理的な意志+倫理的技術)は必要だという。


みんなに実践知が備わっていたら、または多くの大人が実践知で生きていたら、逆に「報酬と規則」についての問題は解決する気がする。



未熟な子供や人間が、大人の行動を見て我が振りを直していた時代、以前はそのように生きるのが普通だったし、細かい規則がなくてもうまく機能していた。


現代、なくなったのは「知恵」だった。



[ 2013年05月23日 22:00 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

「知恵の喪失」/マルチ商法


年に一度、健康セミナーを開催する方がいて、そこに顔つなぎのつもりで出席していた。

今年は、ちょっと趣向がちがっていて、最近始めたらしいノニジュースの宣伝をしていた。

インターネットで調べれば、いろいろメーカーが出てくるが、このようなビジネス・スタイルでやっているのは一社しかない。

連鎖販売取引の企業一覧(ウキペディア)

にも「タヒチアンノニインターナショナル」と出てくるが、今では名前をかえて「モリンダ」と名乗っている。



悪徳業者対策委員会のページを見るとマルチ商法について次のようなランク付けがされていた。

マルチ商法(MLM) ★
ネットワークビジネス ★★
マルチ(まがい)商法 ★★★
ネズミ講       ★★★★


引用元:http://www13.plala.or.jp/ryu/ryu1.html


このサイトの個人的見解なのかどうかしらないが、星の数がピラミッド式になっているのがおかしかった。

この星の意味は数が多いほど悪徳であるという意味である。

法律的には「マルチ商法(連鎖販売取引)とネズミ講(無限連鎖講)の違い」があるようだ。

これまでのマルチ商法は、すそ野が広く下へ行けばいくほど儲けが薄い印象である。




知人は仕事がら健康について幅広く調べている人なのでその一環かと思ったら、すでに会員になっていた。

そのように入れ込むほど他にはない効き目が体感できたようだ。

その方がいままで薦めていた健康法はなんだったのだろう。

本人に言わせれば相乗効果があるという。


どうしてノ二が注目されているのかは、その植物酵素にある。



日本という国は古来より酵素を利用し摂取してきた民族である。

日本の伝統食に発酵食品が多いのもその効果を熟知し取り入れてきたためと考えられる。

それが幕末明治維新からの西洋文化の流入によって西洋食が一般に普及しだしてから現代に至るまで日本の食生活が大激変した。

天武天皇が七世紀の後半に「殺生肉食禁断の詔勅」を出し、それが継続していたのが、1872(明治5)年、明治天皇が牛肉を試食して自らそれを破った。

「殺生肉食禁断の詔勅」というと、肉を食べた食べないの話にする人がいるが、そんなせこい話ではない。


西洋食中心の食生活が今日における不快症状やがん多発の一翼をになっているのはだいぶ以前から言われてきた。

これほど病状が悪化した原因は、国家政策、社会状勢、経済という外圧や、環境汚染、化学薬品汚染、国内産より輸入品が増え食事の多様化や嗜好の変化の問題もある。

これらひっくるめて、人間の考え方の変化のうえに構築された社会は、壮健とは程遠い病気を招きやすい環境にしてしまった。

根本は人間の意識の変化ではないだろうか。


欧米人も健康問題に深刻であるので、先住民の知恵とされる新薬を求めて続けている。

そこで、古代ラピタ人が持ち運んだとされる植物酵素の宝庫であるノニという植物に目をつけたようだ。




知人の場合、上司が先に始めたので、上司に誘われて飲んでいるうち入会を決めた。

米国企業の「モリンダ」では、ノニジュースという商品を毎月一ケース購入することで会員の資格が得られる。

モリンダ社の特徴はこのビジネスにある。

無料のセミナーを定期的に開いているので誰でも参加できる。


知人のグループは、上司がトップリーダーとなる。

上司をトップに小さいピラミッドが形成される。

上司が会員を集めればその会員の分、配当金が入る。

その会員がまた孫会員を増やせば、配当金が増える。

その会員を中心に小さいピラミッドが形成されるがこれは、上司のグループ内である。

今回、新しいなと思ったのは、下位の会員で積極的に勧誘しなくとも、同じグループメンバーの活動如何によってこれまたボーナスがもらえるということだ。

もちろん、大元のモリンダ社がピラミッドの頂点である。

大ピラミッドの中に小ピラミッドがいくつも入っているという、現代の社会システムそのままが企業と会員の間で構築される。


商品は親会社が製造、流通してくれるので、販売員は商品を紹介するだけでビジネスになる。

ななんと簡単。



今までセミナーの講師経験者や、事業を手がけた人はすでに経験を持ち人脈があったりするので大きく展開することもできるし、一般の主婦で自分の才能に目覚めた人もでてくる。



この商品が出回る背景に、不快症状に苦しむ人たちが大勢いるということである。

この不快症状が自分の体質だと思っていたり、今までどのようなサプリメントや薬品を試しても効果が薄かったりまたは改善の自覚がなかったりしていた。

このジュースを飲んだだけで劇的変化が現われた人が出てきた。

劇的変化が現われた人は、このジュースのファンになって、人々に知らしめることを使命と感じる。

ジュースを飲んでもちろん、何も変わらないと感じる人もいるだろう。

そういう人は離れるわけだから、残る会員/販売員となる人は自分の実体験を持つ人たちになる。

販売員は定期的に開かれる会社のセミナーで知恵づけされてレベルアップしてゆき、エリート販売員への階段を上る。

上昇するたびにボーナスが出たり、海外研修へ招待される特典がついてくる。

自分が頑張ったぶん報酬がついてくるという夢のような仕組みではないか。




ノニという植物はポリネシアに伝わる古来の薬草である。

これは、古来伝統の「知恵」である。

これは疑いようのない事実のようだ。


もともと自然のものなので、地域や気候によりまたは製品になった時、その品質に大差が出る。


その製品の管理と流通は会社の責任になるが、

これを紹介する販売員は、自分の実践知と会社への信頼をバックアップに活動する。

実際、自分の体調が改善するのを目の当たりにし、自覚できれば、いいものは他者に知らせたい、広めたいと思うだろう。

最初、報酬目的でなくとも、このビジネスにひとたび参入されたら、どの階層にも多かれ少なかれ報酬がついてくる。

口コミ販売員は会員であって正規の職員ではない。

しかし、がんばればサイドビジネスくらいの収入になる…という。



ノニジュースが身体によさそうだから飲んでみようか、と思うのと同時に毎月一ケース買うことで、自動的にビジネスに参加していることになる。

あなたが買う事で上司が潤い、あなたが人に紹介するだけで上司が潤う。

それは今までのマルチ商法だったけど、これからは、紹介者のあなたにも少し利潤が回りますよ…

というのがこの方式のようだ。


なんか、体にもよさそうだし、商品も信頼できるし、いま稼業がうまくいかないから、ちょっとアルバイト感覚で…

という気分にさせる。



しかし、それは毎日飲むものなのか?

毎日飲めと言う。

途中でやめたり、毎月、買わなければ会員の資格がなくなるのではないか。

それをつなぎ止めるために報酬制度が導入されたのではないか。

報酬と規則。





ノニは、古来の「知恵」である。

人間には植物性酵素が必要だと訴える。

合成の酵素のサプリメントも出回っているがそれを飲んでも効かなかった人がノニジュースを飲んで体調の改善が見られた。

自分の生活習慣や考え方が間違っているのに気づき、生活のあり方を改善させるほうに働くのが本来の知恵だと考える。

ノニはその間の補助として有効だと思える。



モリンダ社の提唱するビジネスにまい進するとしたら、

本末転倒、知恵の喪失を危惧する。


私は、毎日飲むつもりはない。

ので、知人が薦めても買わない。

そうそう、この知人はこのように私が意思表示をしたとしても、再度進めるのだ。


[ 2013年05月19日 21:32 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

「知恵の喪失」/報酬と規則


バリー・シュワルツは「知恵の喪失」の原因は、報酬と規則によるのではないかと考えている。


彼のトークから引用すれば、


よくあることですが、何かが間違った方向にいった時、私たちは事態を収拾するために2つの方法をとります。

1つは規則 よりよい規則を、より多く。
2つ目は報奨 よりよい報奨を、より多く、です。

結局、他に一体何があるでしょうか? これは今の経済危機に対する私たちの対処方法にも現れています。 規制に規制を重ねていったり、毎回ちょっと違った報奨を与えます。しかし、規則も報奨も何も変えてはくれません。

あの清掃員がしたようなことを指示する規則をどうやって作れるでしょうか? 他人に思いやりを抱くことでボーナスがもらえるでしょうか?

それでは本末転倒です。

もし私たちがより規則に依存するようになったら、規則や報奨は一時的に状況を改善するかもしれません。ですが、長期的には悪化していく悪循環を生み出します。 私達は規則に頼りすぎることで臨機応変に状況から学ぶ機会を失い倫理的技術を衰えさせてしまいます。



また、絶え間なく与えられる報奨という誘惑は私たちの「正しい行為をしたい」という思いを奪い倫理的意志は揺らいでいくでしょう。そして私たちは無意識に規則や報奨に頼ることで知恵に対する戦いに巻き込まれています。



以上引用。

報酬と規則。

これは「飴とムチ」を体裁よく言い換えたものではないのか。


規則はどのようにつくられるのか。

宇宙原理、自然の法則にのっとって生きてゆくぶんには、このような問題はおこらないだろう。

そこへ別の意識が入り込んでヒトがヒトを支配するようになると規則が多く作られるようになった。

もちろん、支配する側にとって有利となる規則が作られる。

支配する側の論理を推し進めるために戦争や侵略がくり返され、第二次世界大戦でそれまでのやり方が終わったとしても、形を変え現代でも続いている。



この世はひとつの宇宙原理の中から派生したのに、二種類の考えに別れた。

宇宙[自然]原理にもとづくヒトと、

支配する側の規則をおしつけるものと、

誰(何)に支配されているのか、考えたことがあるだろうか。
GODに支配されているのか?


支配する側がたいてい優勢になるのは、支配する側がその欲求が強いためである。

そうすると支配される側が奴隷となる。
自分は奴隷じゃないと思ったとしても、支配者側から見れば奴隷である。

自然界にはない奴隷の身分にされたとしても、支配する側の規則に拘束されず、よほど宇宙原理を大切に守る傾向があれば、表向きは従ったように見えるが自分たちの生活の営みは宇宙原理に基づいて構成される。

人間は宇宙原理の中で生まれ生きているので、どんなに支配者の規則が幅を利かそうと宇宙原理にもどろうとする。

そこでまた規則ができる。

私たちは、まさにそんな渦中にいて、日々、「知恵の喪失」という場面に出くわしている。



[ 2013年05月18日 16:37 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

「知恵の喪失」/ 倫理的な意志


バリー・シュワルツ「知恵の喪失」のトークには、いろいろテーマが隠されている。

それを、わかりやすく話題に取り上げ、たぶん自分の身の回りに存在するであろう問題に何気なく目をむかせて気づかせるようにしているようだ。


私もいろいろ気がついた。


バリー・シュワルツ「知恵の喪失」
TEDを日本語で読む:TED人気スピーチ日本語訳 -
には、翻訳したものも並置してあるので、あとで内容が確認できる。



バリー・シュワルツ氏は、病院の清掃員にインタビューした心理学者の例をあげる。

職務明細書にはない人間的な行為が病院の評判なり運営の向上させている、という評価である。

清掃員自身が「人と触れ合いながら優しく気遣い思いやることが仕事において必要不可欠な部分だと考えているのです」、と意識しているという。


「にもかかわらず職務明細書には他者を示唆する言葉は1つとして出てこない。この清掃員たちは他者に対して正しい行いをするという倫理的な意志を持っている。 それ以上に、彼らは正しい行いとは何かを判断するための倫理的技術を持っている。 アリストテレスは「実践知とは」「倫理的な意志と技術の組み合わせである」と説いています。」(バリー・シュワルツ談)


倫理的な意志
倫理的技術

これらを合わせたものをアリストテレスは「実践知」といった。



私からこのような言葉は出て来ない。
こんなふうにも考えたことがなかった。




私が見たところ日本社会では、ごく自然とこのような行為があたりまえのようになされる。

行為する者も、行為を受ける方も黙っていたとしても心でやりすごし、別の機会に別の形でお返しするか、二度と合うことがなければ他者にお返しをする。

そうやってぐるぐる回っている。


今「倫理的な意志」が働いている、などと考えながらやっているわけではない。

思いが即行動へとつながって、流れるように物事が進んでいく。


えっ、自分が知ってる日本人はそうじゃないって……細かい例外はこの際抜きでいこう。



そこで、前回では「知恵」と「知識」の違いの例を蓑内宗一著『ツボと日本人』から引用した。

日本人が知らないのではなく西洋人の方が論理的に説明していて解かりやすい。

ジャック・ハルペンというドイツ系ユダヤ人は1946年の第二次世界大戦のあとに生まれている。

ドイツで生まれたからドイツ系なのだろう。

ハルペン氏の家族は、戦後、ドイツにいたことになる。

…と脇道にそれている場合ではない。

ハルペン氏の解釈は、伝統的ユダヤの教義に基づくなら、ネイティブな人間にも通じる知恵があるのだろう。




日本では、アリストテレスのように気難しく理論づけしなくとも「倫理的な意志」は全体をうまく回す潤滑油のようにとらえられる。

そのような意志を育てる社会の仕組みや人々の情緒の中にあればこそ、規則がなくても秩序だった営みが形成される。



病院の清掃員は、どういう人か想像するに、ブルーカラーで低所得者で家族を養うために移住したかもしれないが、そのような人たちは、自分の生まれ育った民族や地域で他者を思いやる感情が育まれたことだろう。

このようなことは勉強しても見に付くものではない。


ところがどっこい。

白人は次に「倫理的な意志」に対する報酬を考えてしまうのである。


次回につづく

[ 2013年05月16日 20:50 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

バリー・シュワルツ「知恵の喪失」


昨年、ジル・ボルト・テイラーのTEDでのスピーチを聞いたあと、メールで新着トークを送ってくれるサービスがあることに気がついた。

さっそく、申請すると、週一回くらいの割合で入ってくる。

知らない人との出会いもさることながら、人の仕事や体験談を聞くことは楽しいものである。

その中には、やりすごすものもあるし、一回見て終るのもあった。

途中で切ってしまったり…、目の前にいたらそんなことはしないのに…ネットは恐ろしい。




5月12日のメールに入っていたのは、

バリー・シュワルツ「知恵の喪失」


もちろん、はじめて聞いた名前である。

今回は、この「知恵…」という単語が目にとまった。

蓑内宗一著の「ツボと日本人」のなかに

「“知恵”と“知識”の違いを知れ!」

という項目のところをちょうど読んだばかりだ。

以下引用。



この際触れておきたいことは“知恵”と“知識”との違いを、よく分別(ふんべつ)して欲しいことです。

必要なのは知恵であり、しかも日本の家のしつけでも“知恵”に重点が置かれていたのに、戦後はどうして雲散霧消したのでしょうか。

そして、今日、外国人から指摘される破目にどうしてなったのでしょうか。

「学校の種類は多く、美容学校、料理学校、コンピュータの学校、カクテルの作り方を教える学校など、何でも専門に教える学校がありますが、みんな知識を教える学校のようです。 

ユダヤ人の言葉に≪魚を一匹やれば一日だけもつが、魚をどうやってとるかを教えれば一生生活できる≫というのがあります。 魚は知識、魚のとり方は智恵(智識)にあたるのです。 

ところで、江戸時代の武士教育は智、仁、勇に基づいていたそうですが、智というのは知識でなく知恵のことです。 現代日本ではなぜ知識に重点を置くようになったのでしょう」


つづけてこの著者は、“知”と“智”の違いをこう説明しています。


「“知”はある情報を知る」という単純な動作のみを表しています。 つまり自分の頭で考えて応用させたり判断する動作は含まれていません。

一方、“智”の方は、その字自体に“知恵”の意味があります。 つまり考え応用するという動作を示しています。

“叡智”という熟語にはその意味のままで使われているのです。

本章では“知識”と“智識”を使い分けています。 前者は英語の“Knowledge”後者は“Wisdom”に当たります。

先程、私が発言したように、ユダヤ人にとって、知恵は人生の重要な柱です。 旧約聖書には六一三の戒律があって、善行(=しなさい)と罪(=するな)に分かれていますが、なんとその中の最も大きな善行は“学ぶこと”であることからもその重要性がお分かりでしょう」


(ジャック・ハルペン 『ユダヤ人の頭日本人の頭 放浪民族と孤立民族の発想と論理』 青春出版社〈プレイブックス〉、1979年6月、179-180)。


省略

われわれ日本人に必要な文化的仕事の一つを、一外国人がコツコツ努力しているという変梃(へんてこ)りんな光景にまたしても出会ったので一例としてあげました。


(『ツボと日本人』、216~218頁:太字強調は引用者)





ジャック・ハルペン氏とはドイツ生まれのユダヤ人で、現在日本在住である。

ウキぺディアに少々説明がある。

漢英大事典を編纂したり、日本における一輪車普及の先駆者だったりと大変ユニークな方である。

蓑内氏はこの項目の中で、上記のジャック・ハルペンの本からの引用と、イー・オリョン(李御寧)の『「縮み」志向の日本人』(学生社、1984) から引用した後、ご自分の経験談を書かれている。




ずっと前、某大学の体育科の教授と兵法系のツボの話をしたときのことを思い出します。 私が殺活点のツボのことを細かに説明し始めると、彼は急に顔色を変えて、「そんな危険なツボを教えられますか」と怒気激しく言いました。 そして「文部省がそんなことを公認しますか」と言うにおよんで、私は言葉につまりました。 柔道の高段者であるこの教授が、経絡理論やツボについて知らなさすぎるからでした。

徳川中期からツボに関する本は本屋で売っていました(いちばん良く読まれたのは、今も東洋医学の専門校でもつかわれている『十四経絡発揮』です)。

だからツボ三百六十五点は総てわかっています。 ただ同じツボでも、柔術と医療とでは呼び方が違う点をのぞけば、ツボはもはや秘密のベールに包まれた存在でなくなっています。

そして柔術家が、「ツボをみだりに教えるな」と注意しているのは、柔術を多年練磨していた者は、それ相当の伎倆(うで)を身につけており、ツボを知りそれを利用するとなると効果てき面だからである、と説明したけれど、教授は全く耳を借(か)そうとしませんでした。 もはや私の頭の中には、彼に語ることは少しも残っていませんでした。

(『ツボと日本人』、219頁)



さて、バリー・シュワルツ「知恵の喪失」である。
スピーチは2009年2月に行われたもののようだ。


12日送ってきたのは、日本語版が編集し終えたのか、日本語の翻訳がついている。

バリー・シュワルツ「知恵の喪失」
By 読むTED / 2013年5月12日

知恵の喪失

「バリー・シュワルツは官僚主義を突き詰め、破綻の道を進む社会の特効薬として「実践知」が必要だと提唱する。規則は役に立たず、よかれと思って与えるインセンティブは裏目となり、そして、実際的で日々の糧となるような知恵こそ世界を再建するのだとバリーは力強く説く。」

http://ted.babblebuzz.com/archives/5239_%e3%83%90%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%bb%e3%82%b7%e3%83%a5%e3%83%af%e3%83%ab%e3%83%84%e3%80%8c%e7%9f%a5%e6%81%b5%e3%81%ae%e5%96%aa%e5%a4%b1%e3%80%8d/?utm_source=subscribe2&utm_medium=email&utm_campaign=postnotify


日本でも以前に本が出版されていた。

バリー・シュワルツ

なぜ選ぶたびに後悔するのか―「選択の自由」の落とし穴
バリー・シュワルツ著、 瑞穂のりこ訳
武田ランダムハウスジャパン (2004/10/20)


バリー・シュワルツ、1946年生まれアメリカの心理学者。

おっと、ジャック・ハルペンも1946年生まれとあった。


[ 2013年05月14日 01:45 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

西尾幹二氏の日本国憲法前文私案 その2


会社の定款のような憲法が、国家の憲法になるためには、その前文の定義づけにかかってくるのではと思った。

なるほど、現行の日本国憲法前文は「日本」と銘うたないでもいいくらい、無味乾燥な前文であった。


西尾幹二氏の日本国憲法前文私案と伊勢神宮(2013年5月5日付)のつづき。


「天皇と原爆」西尾幹二著、新潮社、2012年

から引用する。


夢の憲法
参考:「夢の憲法前文をつくろう」
http://comcom.jca.apc.org/hi-hu-war/kenpou/kenpou.html




そして山折り哲雄さんと私という人文系の人間がこれを受けて、大変興味深いことに二人とも、日本列島の風土にナショナルな基点を置いて書いたんですね。

で、なぜ今こんな話をするかというと、そのとき編集部に頼んで世界各国の憲法の前文をコピーで送ってもらいまして、二十ヵ国ぐらいのものを読んだ記憶があるんですが、どの国でも憲法前文は宗教を取り上げていたからです。

自分たちの民族の宗教を冒頭に掲げているわけです。

(『天皇と原爆』、158頁)



西尾氏の日本国憲法前文私案は省略。

続いて西尾氏自身による「前文私案」の説明。


私が冒頭「日本人は古来、太平洋上に北東から南西へ連なる列島上に生活し、縄文の名で知られる一万有余年の先史時代の人間を遠い祖先とする。 砂漠と大河の文明で知られる世界四大文明の栄えた同時代に、森林と石清水の生活文化を築いた」云々と書いたのは、一万年以上に及ぶ世界最古の文明、縄文土器文明を念頭に置いての揚言です。

そして「外部から何が入ってきても内部が壊れない地理的環境によって、排他的な原理や規範にこだわらない柔軟で、寛容な文明を育んだ」と定義したうえで、

大陸の西方からさまざまな文明の流入してきた諸影響のいわば終着点、入ってくるばかりでここから先へは何も出ていかない貯水池のようなわが日本文明が「古代中国文明と近代西洋文明の二度にわたる波及をよく耐えたのもそのせいで」と述べたのは、もともと日本には文明があったんだ、そこへ古代中国文明と西洋近代文明が入ってきた、何もない所にいきなり外から文明が入ってきて国ができたわけじゃないと言いたかったからです。

無から有が生じたのではない。 無もまた有であった、絶妙なこの列島の先史時代、文字のない深い森と石清水の生活文化を想定しなくてはなりません。

だからこそ両文明の波及に対しても「逡巡と抵抗をへた」、つまり受け入れることにためらいもあり、ときにレジスタンスをもくぐり抜ける長大な時間をかけた「理解と吸収の結果、一個の新しい文明としての歴史の独自性を保持することに成功した」という次第で、日本列島は一つの文明であったという宣言を行なったのです。

(同上、160~161頁、太字強調は引用者)




まだまだ続いて、日本史のダイジェスト版のようになっている。
手際よくまとめられて、好印象を持つ。

伊勢神宮が西尾氏を評価するのも当然であると思った。




日本という処に人々が集まってきて、いろいろあったけど一つになった。

「外部から何が入ってきても内部が壊れない地理的環境…」と、地理的環境が前面に出されているが、ひとつになるための日本の根幹を成した人々のことには触れていない。

「もともと日本には文明があったんだ、」という、もともととは?

ぜひ、山本健造氏の研究の成果を参考にしていただいて、新たな展開を模索してもらいたいものです。


末尾を以下のように結んである。

「日本は幸福と繁栄が対立しない富国であろうとする。 長期の平和が無為無気力を招かない強国であろうとする。 節度と自己主張、謙譲と世界経営の理念が矛盾しない指導的大国であろうとする。 以上の自覚と覚悟をもって、憲法をここに制定する。」(前文私案末尾)


「以上の自覚と覚悟をもって…」

現行憲法になくとも、西尾氏の前文私案と同じでなくとも、各人が「自覚と覚悟をもって」生きることは、自分で憲法前文のような信念を構築するということと理解する。

そうでなければ、自分は何を根拠として生きているのだろうか。





西尾氏は「どの国も憲法前文には宗教が取り上げていた」と書かれていた。

当然米国を真っ先に検証し、そうだろうと思ったが、アメリカ合衆国憲法の前文日本語訳にはそのような個所がみつからない。

参考:アメリカ合衆国憲法邦訳
http://members.tripod.com/sapporo_3/ho/usaj.html



私の捜し方が悪いのかどうかわからないが、宗教抜きでは語れないことを前提にする。


アメリカ人のマイケル・ルパートが「GODを議題にすること」(英語原文2010年11月1日付)を書いた。

アメリカがキリスト教の国であるという自覚と信念が圧倒的に蔓延している中で、もしくはGODを押抱いているような人々に向かって、この議題を取り上げるということは、アメリカ合衆国憲法前文に書かれているであろう宗教に対し真っ向から異議を申し立てたことになる。



彼の言うアブラハムの宗教(ユダヤ、イスラム、キリスト)は、国土というより宗教が民族を呑み込んでいった。

そのシステムは、無限に成長が約束される教会を立て、金融の右肩上がりの成長理論と重ね合わせる。

宗教を前文に治めた憲法は、自己利益を追求する企業と何ら変わりなくなり、むしろ正当化して他国を呑み込んでいく。


マイケル・ルパートは、アンリカ・インディアンの知恵をもとに精神(spirit)性を回復したことで、アブラハムの宗教システムがこのインディアンの言う地球に拠点を置いた精神の上に構築されていないことに気づいたのである。

宗教システムによって精神が囚われてしまっていたのだ。

その結果、目の前で崩壊してゆく現実に直面しても、とるべき道を見いだせなかったのである。

故にこのシステムは変えなければならないが、変えるならば地球を拠点とする信条でなければならないのだと。



[ 2013年05月12日 13:59 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

内臓が弱かった三島由紀夫


蓑内宗一の書き方が面白いので、他の本はないかと調べても入手するのは困難そうである。

国会図書館へ行けば、何冊か保管はされているが、複写禁止であったりする。

以下の本もそうだったので、急いで写してきた。

ので間違って写してしまってるかもしれないと、最初に断っておく。


「東洋医学の健康法」
蓑内宗一著


から引用する。


内臓が弱かった三島由紀夫


作家三島由紀夫の検死報告の一節に、

「顕著だったのは、その隆々たる筋肉と、弱い内臓とのアンバランスである」という指摘が読まれます。

検死官は現代医学の徒らしく、隆々たる筋肉があたかも“力”の根源らしく想定? 弱い内臓とのアンバランスに驚いた気配がうかがえるようです。


しかし、東洋医学では、筋肉と内臓と比べてさほどバランスを注目しない点です。

基本である内臓が正常の場合、骨格筋が働かなかったとしたら、むしろアンバランスでしょう。


私に疑問がわいたことは、彼の文章に見られる、今日ほとんど死語に近くなっている雅語を、なかばつかうほど、日本語の伝統に頑固だった彼が、体育の面では日本のよき伝統―内勁(ないけい)を主とし、外勁を従とする―がぷっつり切れていることの驚きです。

もちろん彼は居合、剣道から空手まで習っています。

にもかかわらず、惜しいことに体は逆方向に鍛えられています。

私はただ、中国の哲学者、孟子のことばを噛みしめて銘記するだけです。

「我はじめに千人然りといえども、始めに違えば、終わりにすなわち、妙理を知ることなし」と。

(『東洋医学の健康法』、蓑内宗一著、アロー出版社、昭和51年、17~18頁)



三島由紀夫の項目が目についた。

たまたま、先日、三島由紀夫の「豊饒の海」を紹介してくれた女性がおられたので記憶に新しかったからかもしれない。

三島文学なるものを読んだことがない私は、ざっと、あらすじを調べて感想を書いた。

参考:ウルフ爺さん(2013-03-09 投稿)のコメント欄
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-11486610725.html


もちろん、文学についての感想ではなく三島氏が題材にした「生まれ変わり」に対する私見である。


蓑内宗一氏の目のつけどころも彼ならではで、人間観察からその行動を見抜いている。




[ 2013年05月08日 22:21 ] カテゴリ:蓑内宗一 | TB(0) | CM(0)

宇宙原理は憲法ではない


憲法とは、会社の定款のようなものである。

と、定義づけしてみたら、何やら軽いもののように思えてきた。



憲法とは、家訓のようなものである。

とした方が、私にはしっくりくる。



しかし、現代は国家が一企業のように振る舞っているから、定款のように見えてくるのだ。

家訓のほうが、まだしも経験則によっていることから宇宙原理を踏まえたもののような気がする。



国家憲法は宇宙原理でないがために、自国民や他国民のために機能しないときも出てくるし、息詰まる思いだ。

経済利益優先するような企業の定款になっている。
そうしたらどうなるか、自分が得をすれば他者が損をし、他者が得とれば、自分が損をする。

両国のためにならない。

作者をみればどこに目的を置いているのかはっきりするだろう。


文明が進歩して文字が出来たという。

文字を持つ民族は進歩した民族というが、古代中国には最初から文字があったようにも見える。

書いてある文字が正しくて、口伝のものが正しくないとどうして言えよう。

文字は文明が進化した証か?

或る物質文明の証かもしれない。



飛騨の稗田阿礼の口伝で『古事記』が編纂されたが、文章になれば、筆記した人の解釈も入るし、間違えるし、改ざんもできる。

稗田阿礼が文字を知らなかったら校正も確認もできない。

八世紀、奈良時代の文字は吏読(リトウ)文字でみんなが使っていたわけではない。


山本健造氏が、飛騨に伝わる口伝を村の長老から聞き、後に現地調査をして「裏古事記」(2000)や「神武以前」(1992)、その他を書かれておられるが、本居宣長による『古事記』の内容とここに書かれた内容はまったく違っている。

裏古事記神武以前



本居宣長が『古事記』の文字を読めなかったので江戸時代の漢学の知識で解釈したとか、読めない漢字を当時の漢字に直したとかで、苦心惨憺して創作したのが現代に伝わる『古事記』であったようだ。



古文書に書かれていることがどれほど信憑性に足りるものなのだろう。


「正忍記」は、甲賀忍者の流れをくむ口伝で門外不出のものであったが、太平の世になって忍者の需要がなくなり子孫に正しく伝え残すために忍者自身によって江戸時代になり書かれたものであった。

江戸時代になれば、文字の知識もだいぶ行きわたっている。



アパッチ族のグランドファーザーは本を書かなっかようだが、代わりに弟子のトム・ブラウン・ジュニアが、英語でことばを伝えている。

トムは7才から10年近く学んだとはいえ当時の記憶をそのまま辿るような内容の文章構成は、読んでいる自分もグランドファーザーに教えられているような気分にさせる。

トム・ブラウン・ジュニアは教えを授けられた後はかならず、古来よりの習慣に従ってその意味を深く熟考することで物事を正確に判断することを体得していかれた。

グランドファーザーが英語に堪能だったかどうかしらないが(言葉が通じないというトムの記述もあった)、大事なのは多くの人にわかるように伝えることなのかもしれない。


書いてある言葉をどう判断するのか迷う時がある。
以下に引用するのもそうだった。

ある時、グランドファーザーがアラブの古いことわざを引用した。


「自分が知っていることを知っている人は賢者だ。 ついていきなさい。
自分が知っていることを知らない人は眠っている。 起こしてあげなさい。
自分が知らないことを知っている人は子どもだ。 導いてあげなさい。
自分が知らないことを知らない人は愚か者だ。 避けるのがよい」


「…ヴィジョンもなく、自分の教えを生きていないのに自分は先生だと人びとを導こうとする者はみな偽(いつわ)りの予言者なのだ」


(『グランドファーザーが教えてくれたこと』、トム・ブラウン・ジュニア著、さいとうみなこ訳、2012年、310~311頁)



これはこのまま読んだが、

読み終わった後、なにか疑問が残った。

この「自分」とは誰のことだろう、と。

「私」なのか「他者」なのか?

いろいろなバージョンを考えてみた。

そして、次のように並べ替えてみてしっくりした。


賢者は、自分が知っていることを知っている。
眠っている人は、自分が知っていることを知らない。 
子どもは、自分が知らないことを知っている。 
愚か者は、自分が知らないことを知らない。
 


さらに、状況により「私」にもなり「他者」にもあてはまる。
役目もその都度代わり、生徒になったり先生になったりする。

私はこう理解して納得した。



紙の上の言葉を原理に当てはめてみて、やっと使えるようになる。

人間が考えるということは原理に戻るということかもしれない。

だから、古代の賢人が言ったことはどの人間にもあてはまる。



憲法は人間をある目的に縛りとめる役割をする。

宇宙には原理はあるが憲法はない。

宇宙原理に当てはめたものに、楠木正成が旗に掲げたといわれる「非理法権天」というのがある。

これは何時の時代にも通じる原理だ。



宇宙の憲法を言い出す人間がいれば、愚者だ。

近づかない方がいい。


[ 2013年05月07日 11:45 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

西尾幹二氏の日本国憲法前文私案と伊勢神宮

天皇と原爆
「天皇と原爆」
西尾幹二著、新潮社、2012年




この目次に、

第十七回 仏教と儒教にからめ取られる神道

というタイトルがある。


私が「新しい歴史教科書をつくる会」の会長をしておりました当時、会のことを大変に評価してくださった伊勢神宮側が、ある人の案内で私ひとりを本殿にあげてくださり、単純なお祓いだけではなく、さまざまな舞と祝詞をあげて厳かな儀式をして見せてくださるという、本当に例のない、ありがたい体験をさせていただいたことがありました。(同書、167頁)

西尾幹二氏が1996年「新しい歴史教科書をつくる会」を発足者の一人となり立ち上げ翌年会長に就任された。

2006年に、精神的な部分で理解できなくなり離脱された、とウキペディアにはある。


しかし、その時の活動が伊勢神宮側に評価されていた。


この回の前は、

第十六回 「日本国改正憲法」前文私案

である。

こう言っては語弊があるが、「日本国憲法」は、書くだけなら誰でも書けるもののようだ。

明治時代、江戸時代から新しく国際世界へ出ようとする移行期、国際ルールに習って憲法というものが必要となった。

そのときも、明治憲法発布以前に私案を出す知識人が多かったのに驚かされた。

参考:明治憲法発布以前
出典:福村出版「明治前期の憲法構想」家永三郎、松永昌三、江村栄一共著

http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/8091/meijikenpouhappuizen-ichiran.html


明治憲法が天皇絶対制になり華族制度が大幅拡大されたのは、伊藤博文がドイツに行ってビスマルクに知恵づけされたプロセイン憲法を入れたためである。

参考:大日本帝国憲法もGHQ憲法もユダヤ人がかかわっていた。
http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2012/12/post-84ba.html

このとき盛んに活動していた、自由民権運動の村松愛蔵(1857~1939)が、明治14(1881)年9月29、30日に名古屋の「愛岐日報」紙上に発表した私案は、伊藤博文のそれより、むしろ現行憲法に近い「象徴天皇制」を唱えていた。(参考:『自由民権村松愛蔵とその予告』、柴田良保著、、白い家、1984年)






西尾幹二氏が日本国憲法の前文私案を書いたのは、『中央公論』が平成十四年に「夢の憲法をつくろう」という読者参加企画として一般の応募が百二十六作集まったというのをうけて、雑誌社に頼まれたからだそうだ。


現在でもこれだけ憲法を書く、それこそ一般人がいることに驚いたが、考えてみれば国家の成立、運営の中核をなすものとして当然のことである。

国家でなくとも、会社の定款も憲法みたいだし、家や自分の存在理由について自立した根本となる見方というものは必要である。




ところが、雑誌社が依頼した50人の有識者のうち主旨に応じて前文を書いて出されたのはわずか三人だった。

その三人とは以下の通り。

西尾幹二氏
宗教学者の山折哲雄氏
民主党代議士の某氏


『中央公論』のライターを何かと演じている政治家、学者、評論家、作家などはみんな逃げた。

と、著書「天皇と原爆」の157頁に書いてある。




西尾幹二氏への日本国憲法前文私案の依頼は平成14(2002)年で、この本に掲載されているその内容は、筋が通っていて違和感ない。

そのような、根本となる基盤があったので「新しい歴史教科書をつくる会」の会長(1997~2001年)を務められ、2006年に離脱するまで関わられていた。

この伊勢神宮参拝がいつの時期だか詳しく書いていないが、それが、伊勢神宮側に認められたというのは、もっともなことだったのであろう。


祝詞をあげていただいて、その内容を一緒に活動する仲間にも報告したいと思ったのも西尾氏の普通の感覚であろう。

以下引用。


何しろ伊勢神宮の祝詞ですから自慢できる話ではあるし、会のために役立つ、勇気づけられる出来事でもあります。

そこで儀式が終わりましてから社務所に行って、「先ほどの祝詞の書き記されたものか、そのコピーでもけっこうなんで頂戴できませんか」と申しあげたら、駄目だというんですよ。

一切の言葉はそのまま消えてしまう、文字を残さない、瞬時にして消えるものを頼りにしない、そういう思想なんです。

これは私にとって一つの文化的なショックでしたが、なるほど、そうかとも合点がいきました。

わが国の文化が文字のないところからスタートしたことと深く関係があるのかなと思ったりもしました。

(中略)

文字を使わないことについて、さらに一つ聞かされたのは、宮司たちが舞う舞の所作とか礼儀作法とかの順序、形式、注意事項などが当然あるのに、一切文字になってないんだそうです。

つまり文章には頼らずに、すべてを体で伝授していくというので、これまた私はびっくりしました。

(『天皇と原爆』、西尾幹二著、新潮社、2012、167~168頁)



ネイティブ・インディアンが文字に頼らない生活を今でもしている。

マイケル・ルパートが「ゴットを議題にすること その3」で言っていることと相違ないだろう。

「地球に拠点を置いたネイティブ(先住民)の信条は、私の知る限り、法典として編まれた印刷物に頼るものでは決してありませんでした。 書物は、最終的な権威であるはずがありません。」 


縄文日本人もまたそのような生活をしていた。

伊勢神宮は、その名残をのこしながら、初期の形態を今も儀式として守り続けているのだろう。


それをコトタマ、と世間では言われるのだろうが文章化したものを読んだだけで伝わるものではないといっている。

それを自分と一体になるまでくり返し体現していってこそ伝承してゆくもののようだ。

西尾幹二氏のような知識人であっても、伊勢神宮のしきたりについて知らなかったし、そのことを隠しもせず正直に書かれた。

伊勢神宮の宮司さんは、そうだとしても、お互いの琴線に触れたので祝詞をあげられたのであろう。


[ 2013年05月05日 18:22 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

マイケル・ルパートの「ゴッドを議題にすること」から


マイケル・ルパートの「ゴッドを議題にすること」を改めて全文読んだ。

文がスムーズでないところは気付いたとき直してもらうことにして、

国際問題が即宗教問題となるため「さわらぬ神に祟りなし」とささやかれるご時世に、私が「宗教」を題材にしてはいけないと20年前に言われたことがある。

それを正面から立ち向かうことを試みられたルパート氏には敬意を払います。


私たち日本人はじめネイティブ・インディアンが自然の中に「神」的存在を感じそれを自然の法則と認めたのと、西洋で考えられた宗教は異なっていた。


だから同じ「神」という単語を使っても前提条件が全然違っているのである。



「テクノロジーが物理学、化学(特に熱力学/エネルギー)の法則を覆すことを人類は心底から期待(または要求)しています。 定義上、自然の法則を覆すことができるものは、ゴッド(神)です。 この構築された概念の下で、テクノロジーは、宗教以外なにものでもありません。」 (『ゴッドを議題にすること』、その1)


マイケル・ルパートがここで出した定義は、「自然の法則を覆すことができるものは、ゴッド(神)」とした。

ここで、すぐ「悪魔」といわないところがよかった。

「God(神)」も「悪魔」も不可視のものとされるから、思考が整理できなければパラドックスに陥ってしまうところである。


西洋人が、自然界の「神気/霊気」を、物理・科学/化学という宗教で測って出た結果のみを信じるようにお膳立てされたのである。

そのお膳立てをできる人たちが、「自然の法則を覆すことができる」とも捉えられる。




マイケル・ルパートは職務を全うする警察官のように、事件処理にも科学的に当たって対処する。

科学であっても、出た結果に忠実であれば自然の法則の範囲であるが、不正行為で手を加えられたものや意図的に改竄したものを信じさせられたら、それは宗教になる。

ということではないか。


そんな西洋人が地球の信条に基盤を置いた考え方をもつ人間/インディアンを通じて、物理・科学/化学のみで測れないその奥のハタラキを明確に知ってから、さらに変化が現われた。

そのような現代人をルパート氏は「新種」と言っている。





マイケル・ルパートも学んだというトム・ブラウン・ジュニアの著書、

『グランドファーザーが教えてくれたこと』の訳者あとがきに


トムはヒッピー文化の終わりごろに登場し、ニュー・エイジのカリスマ的存在として、若者から熱狂的な支持を集めてきました。 しかし、そんな彼も還暦を迎え、彼の名声はさまざまな分野の人々にも広まり、自然保護や環境問題の専門家、アウトドアの指導者、心理学者、医者、聖職者、教育者、そして司法関係者などからも多大な関心が寄せられています。

(『グランドファーザーが教えてくれたこと』、トム・ブラウン・ジュニア著、さいとうひろみ訳、ヒカルランド、2012年、407頁)




作られたヒッピー文化からはずれて登場したところが世の計らいの妙ではないか。

作られたニュー・エイジ運動のあとで、ニセモノでない何かを渇望した若者たちに受け入れられたのだろう。


もちろん、「ニュー・エイジ」と「新種」は違う。




人間は地球を基盤にした生き方が自然と共に生き残る唯一の道である。

規範はそれによって定められるものである。



[ 2013年05月04日 22:34 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

ゴッド(神)を議題にすること/その5


GOD ON THE TABLE
ゴッド(神)を議題にすること


人類の精神的な将来に役に立つ議論を試みる


by Michael C. Ruppert
© Copyright 2010, CollapseNet, Inc.

Please Distribute Widely
[周知願います]



その5




WHAT DOES COLLAPSENET OFFER?
コラプス・ネット(COLLAPSENET)が提供するものとは?


コラプス・ネット(CollapseNet)哲学の基本と協定できないことは、私たちのCompass Points(羅針盤:訳者注:最後に掲載)で明確に示しています。 Compass Points(羅針盤)は物理学の法則によっており、すべての人々が生きるために可能な限り(信念に関係なく)支援するもので、私たちの生命とそれらが有効に世界でかかわってゆくために信頼していただけるものです。 そこに書いた内容は、精神的展望よりむしろ、ほとんど合理的なものです。  尚かつ、私が見たのと同じものを本稿の文脈内に見いだしたなら、どのように見て感じたのか、私が抱いている精神的信念とかみ合って共鳴するでしょう。 断絶しない、分割もしない、 感じてわかります。



私たちの情報サイト(Lighthouse Directory)に、精神に基盤をおいた教えと参照すべき多くの情報を掲載しました。 私たちは、羅針盤(Compass Points)において、地球を中心にして提携したものや直接に関連性のあるものを、活発に探して、記録しています。  羅針盤(Compass Points)を否定しない限り、どのようなものに基盤を置いているか、宗教的だろうとスピリチュアルなつながりだろうと除外しません。 たとえば、マンハッタンの黒人のキリスト教バプティスト信者たちとはぜひとも登録してもらいたい団体です。 私が聞いたところによれば、活発に説教して、その多くのメンバーが精神的に健全さを回復したと言います。  私たちがここでしていていることと明らかに直面しているとわかる宗教団体や哲学系列の団体が支援もしくは論文を熟考してリンクを申し出るなら私たちはすべてに応えます。


私は精神的信条と確実に異なるものとの間に境界線を引きました。 持続して基本的な段階を経ている全ての創造物と意識的な協力のもとで生きるための定めだからです。 人間優勢を広めるためとか創造から別れたものは、その境界線の外側です。 これは決められた進化に私たちの意識が次の段階に入っているというはっきりした描写です。  もし私たちが五世紀の尊敬するデカルト学派から達成された意識と知識があるのなら(協力と尊敬で再調整するのは必須事項)、退化ではありません。  私たちは、本当に「新しく進歩した」新種なのです。


このようなことの肝心な点は、人類が善と悪、勝者と敗者、特に支配者と奴隷の概念というレッテルから解き放たれたときで、残された唯一のことは、この宇宙の中に存在するすべてのものや事を尊敬することです。


ソース:COLLAPSE NETWORK
http://www.collapsenet.com/index.php?option=com_k2&view=item&id=341:god-on-the-table-1-november-2010&Itemid=130


(ゴッドを議題にすること:終わり)



羅針盤


コプラス・ネットのCompass Points(羅針盤)


NORTH – A NEW, SUSTAINABLE HUMAN PARADIGM MUST BE ROOTED IN LOCAL, CHEMICAL-FREE FOOD PRODUCTION, EXTENDED FAMILY AND COMMUNITY

NORTH – 新しい、持続可能な人間規範は、地域、無農薬での食糧生産、大家族、共同社会(コミュニティ)に根ざしていること



人間と地球の間にある二つの原始的な目に見える接点は、眠る場所と食糧を得る処です。 私たちお互いの将来と地球の関係は、産業革命以前の世界で生存を許された生活様式に立ち戻って距離を定め、新しく優先度の高い技術を保持し、適応させることです。 地域における食糧生産が、生活経験、芸術、文化の基盤になります。

無農薬農法とパーマカルチャー(持続可能型農業)は、地球に対する交換条件の自然な形で、率直で、最も効果的です。 それらは、大多数の人口を生存させ、新旧の規範の移行を可能にします。 私たちが食べて、着るすべてのものは地球起源のかつて命のあったものです。 このことから、私たちと生態系の関係が最重要となってきます。

その移行の過程で、より大きい危険、痛み、苦しみと損失が伴うでしょう。 それにも増して、無限の大きな可能性の再発見に喜び、人間の魂の満足いく表現ができるでしょう。



SOUTH – UNTIL THE WAY MONEY WORKS CHANGES, OUR SPECIES IS TRAPPED IN AN INFINITE-GROWTH PARADIGM WHICH THREATENS ALL LIFE

SOUTH –お金による変化であるかぎり、私たち人類種はすべての生命を脅かす無限の成長規範の中で罠にはまります


化石燃料の燃焼に起因するGDP成長と温室効果ガス排出量の間には96%もの相関性があります。

企業の「法人格(personhood)」に集中してとりまく、部分準備銀行、複利、不換通貨に基づいて築かれた現在の経済規範は、定義によれば、ネズミ講(pyramid scheme)であり、とうてい支えられません。―この規範の下では保護するより、生命を破壊した方が儲かります。

この死にかかった金融規範は今のところ惑星との関係を統括管理する支配的な要因です。

そこで、生き残りたい方々のために二つの選択肢があります。

その規範を変えるか、さもなくば、可能な限りそこから離れて、旧式の規範が衰え、やり過ごすのを待つことです。

金融規範を変えることはできません。

したがって、旧式の規範が崩壊すれば、そこからの撤退は不可欠です。

可能な限りどんな撤退であっても、恐らく人類の存続をかけた死活問題になるでしょう。

お金は完全に見直しが迫られるでしょう。

地域通貨で地方の自治か、あるいは現在の規範と関係ない、もしくは管理下にない交換媒体は、撤退時における必須段階です。



EAST – INFINITE GROWTH ON A FINITE PLANET IS NOT POSSIBLE

EAST –有限ある惑星で無限の成長は、不可能です


すべての人間は、食べる、呼吸する、飲む、着る、これらの消費は地球から得ています。 本質的に持続可能なバランス点は、地球と人類の人口いかんにかかっています ― そのライフスタイルによって影響されます ― 。

安く簡単に手に入る化石燃料(石炭、石油、天然ガス)の減少が早まっています。 人間が消費するため許されたすべての精製、製造、輸送のためエネルギーは、消えてしまいます。  石油と天然ガスは、エネルギー源でありません。  すべてのプラスチック、肥料、農薬、大部分の医薬品、ローション、塗料、樹脂、化粧品等、多くの製品は石油と天然ガスを投入した化学に依存します。  これらの化学物質製品は、代替エネルギーと取り替えることができません。 ―それらは、工業化された世界で消費されるあらゆる食物カロリーの内の10カロリー分が化石燃料エネルギーです。 食糧生産で、化石燃料を投入し、地球の住民はこの150年で50億人以上に増えました。 化石燃料がなくなれば、食物もなくなります。 そして、化学物質が表土に残ったまま枯渇します。 ―すべての生命あるもの、必要な資源(特に淡水)は、厳しく容赦しません。

エネルギー基盤の選択肢を未知の組合せに変えることができないのは、私たちがあまりにも長くなにもしなかったためで、化石燃料で建設される建造物にとってかわる代替エネルギーの配合がありません。

人間が参入するかどうかにかかわらず、人口と生態系バランスは回復するでしょう。 活発で意識的な参加は、最終結果を軽くすることができます。 生態系を破壊して私たちが生きることは、資源を私たちの消費に再優先させることも、適合することもできません。 したがって、自殺的なふるまいです。 文化的レベルで効果が増大し、地域から持ち上がる前に、 変化が下から上へ、個々では内から外へ起こるべきです。



WEST – HUMAN POPULATION WILL INEVITABLY REDUCE BY BILLIONS OF PEOPLE AMIDST GREAT SUFFERING AS THE SUN SETS ON INDUSTRIAL CIVILIZATION

WEST –人類の人口は、産業文明が後退することで甚大な苦痛にあえぎ、必然的に数十億に減少するでしょう



いわゆる、死に絶える(The Die Off)ことは、人類の産業文明の元に戻れない崩壊の不可欠な現象です。 それは避けることができません。 軽くすることができるだけです。  この死に絶えることを避けられるとすれば、新しい意識が人間に芽生えることで、実際、新しい人種がいます。 それは脱石油人間(Post-Petroleum Man)です。





【翻訳:タドン】


[ 2013年05月03日 00:30 ] カテゴリ:GOD ON THE TABLE/ マイケル・ルパート | TB(0) | CM(0)
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