ビー太郎サバイバル日記

武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。「正忍記」その5
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ヒストリー・プロパガンダ・ファンタジー

最近、「韓国はファンタジー」とネット上に書き込む人が増えて、私も吹き出してしまった。

実際、言い得て妙なのでそう反応したまでだ。


アメリカの学者が言った…とどこかで書いてあったので、その状況を知りたいと思い、ネットで調べてみた。

そうすると、その前文があって、その文章は

「日本の歴史はヒストリー・中国の歴史はプロパガンダ・韓国朝鮮の歴史はファンタジー」

というのが出回っている。

最初の言いだしっぺは、宮脇淳子氏によるものらしく、宮脇淳子氏は藤井厳喜氏から聞いた話しを雑誌「歴史通」“続 総力特集、韓流はウソだらけ”(ワック出版、2012年1月号)に掲載したようだ。

歴史通

(抜粋)
2012年1月号で宮脇淳子氏は、評論家の藤井厳喜氏から聞いた話として、アメリカの学者による日中韓の歴史教科書研究の結論を紹介している。“日本では歴史は「ヒストリー」、シナでは「(政治的)プロパガンダ」、韓国では「ファンタジー」である”と。


抜粋元:史実を世界に発信する会:資料室: 韓国・朝鮮関連一般
http://hassin.org/01/category/data/koria

アメリカの学者がどういう集まりで誰が参加して話したのかこの本に書いてあるのかないのか、わからないが、これ以上詳しいことはわからなかった。


この文章は、それはそれで現代の国家事情を反映しているようで、異議はない。


さて、ヒストリーである。

世界史として教えられるヒストリーは、実はイルミナティのヒストリーではないかと思っている。

イルミナティがこの世に主力を得ていかに世界征服して来たかの歴史なので、ヒストリーにはプロパガンダもファンタジーも含まれている。

それを東洋の三国が仲良く三分割されて、その特徴によくハマっているのが面白い。


表面上に現われるヒストリーとは別に、それぞれ原住民に受け継がれている伝統というものがある。

伝統が強い民族なら、ヒストリーを形成するうえでも拮抗して生き残りをかけてきたはずだ。

ヒストリーに取り込まれた英雄でない、真の英雄をさがしたいものだ。




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[ 2013年06月28日 18:00 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

つくりだされる精神病と社会問題 その2


精神を否定するところからはじまった精神医学。

人間はモノであるから精神病の原因は「脳内化学物質の不均衡」がおこしたもので精神が病むという説が、精神医の間でも患者が理解するうえでも流行った…という。


精神医は診断に対し科学的な検査をするのではなく、患者との数分間のカウセリングで病名を決める。

何ら科学的根拠のない、「脳内化学物質の不均衡」で説明される化学薬を精神医は処方する。

まだ、世の中に常識のわかる人々が存在していた時は、精神学者は医者として認められなかった。


精神医学が医学として人々に認知される過程は、まさしく現代のなんでもない問題が社会問題として認知されていく過程と同じであると私は思う。


大手製薬会社が自社の製品を売り込む過程に、

政治家を買収し法律を改訂させる。

メディアには広告料を払ってでどんどん宣伝させる。

医者や専門家を買収して効果がでたという論文を書かせる。

新薬の開発のためとしてボランティアを集め人体実験をし、データを改竄し都合の良い結果だけを発表する。

などなど、


すべて金のため、というがそれだけだろうか。

大手製薬会社のなにが問題なのか?

雇われる人たちは金のために仕事をする。

雇われる人は私たちと同じ一般の人間であるので生活のために仕事をする。

小さなピラミッド構成の社会では、底辺や中間層で仕事をする人たちは現金収入が必要である。

金は、役人、研究者、その他メディア、雇用者を雇うために供出される媒体でしかない。



主目的は何かと言うと、

主目的は人間の精神を破壊すること。

人間が精神的に目覚めないよう、それを阻止しようとする勢力がいる。

としか思えない。

または、単に人間がバカで、このようなキチガイの世界を構築しているのか。




人間が精神的に目覚めないようにするのが目的だから、反対勢力にも同じように入り込み資金が融資される。


さて、社会に組み込まれている以上、私はこのいずれかのピラミッドの中にいるとしよう。

創られた社会で自分の主体を失わないために、そこでどのような行動ができるというのだろう。





まさしく、歴史を振り返ると私たちの先祖はその境の際で生きてきたのだ。

先祖たちの精神の鍛え方は学ぶべきところがある。

日本人の生活神道というのは、生活そのものが精神を活かしたうえに成立していたのだ。

[ 2013年06月26日 16:30 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

つくりだされる精神病と社会問題 その1


CCHR


1969年から活動しているというCCHR(市民の人権擁護の会)は、サイエントロジー教会が資金を出して設立された、とウキペディアに出てくる。

私は、サイエントロジー教会がどういうものか知らない。

このHPのビデオを見ていると、精神医学の歴史を追って問題を整理しあばきだしているように見える。

精神医学によってつくりだされた被害者と加害者が存在する。

これは、精神病でもなんでもない子どもから老人までの人びとを精神病患者にしたてあげるプロセスである。

どうしてこんなことが出来るのか。

どうして人々は自分が精神病だと思いこまされるのか。

その患者が薬品を購入するには、その薬となる薬品とそれをつくりだす機関とそれを宣伝する媒体が必要である。

この大がかりな国家、企業、社会組織ぐるみで行われているシステムや悪事が何で野放しになっているのか。


CCHR(市民の人権擁護の会)の活動は活かされているのか、どうなのか。



すべての人に人権と尊厳をとりもどすために…

とビデオ内では言っている。



これは「被差別部落」問題の定義と似ている。


精神医はありもしない精神病に病名をつけて薬を処方し、本当の精神の病気にして患者をつくってしまった。

彼らの言う人権とは、なんなのか。




そもそも「人権」なんて人為的な権利は人類には存在しないものだ。

「権利」を勝ち取るための戦いというのは、虚構であり、やらせられているのではないのか。

精神病という病気があるかのように演出させられ、人権もまた、さも「ある」かのように演出されるが、それは対立を生みだすための道具になっている。

そのような背景にするには、人々に不満意識をもたせないといけない。

まるで戦時中のプロパガンダの手法のようじゃないか。


「被差別部落」という根拠が、ちょこちょこ変わるいい加減なカテゴリーも、なんで定義が作られたかと言うと明治時代に帝国主義というシステムにのせて天皇制にしたために、その対比で作られたようなものだと思っている。

天皇制と言う宗教をつくって、西洋のまねして階級制度をつくったら奴隷階級が必要になったのだ。



精神科医に「うつ病」だと言われれば、うつ病になる。

人権擁護団体に「人権」があると言われれば、人権を主張するようになる。

「被差別部落」のレッテルがつけられれば、一生、不幸の元凶かのように被差別部落が潜在意識について回る。


これらの問題は、社会全体が一種のありもしない病(精神病)に侵されている。


参考:部落解放同盟「解放運動」の犠牲者…人権救済機関設置法案20日閣議決定?
ぼやきくっくり(2012.04.07)

http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1172.html



上記のブログの記事では解放運動に絡まれた被害者の方が向精神薬を内服したかどうか知らないが、自殺にまで追い込まれたことが書かれてある。

人格破壊的行為は薬害だろうと言葉の暴力だろうと、被害者の精神が侵され蝕んでいくのに変わりがない。

この被害者というのは、被差別部落のレッテルを貼られた方々でない。





ちょうど、内海聡医師による「大笑い!精神医学」を読んだ後なので、CCHRが制作したビデオはその映像版、海外版のように見えた。

内海医師もご覧になっているので、このビデオを参考にしたかもしれない。


最初、良く出来ていると感心したものの、何か物足りなさを感じた。

米国のCBSドキュメントを何度見てもスッキリしなかったかのように論旨、論調はそのとおりだが、問題解決に至らない無力感がのこった。


結局どのビデオもみても、本当の黒幕は出て来ない。



このビデオ内で指摘したひとつに、

新薬の特許申請は、同じ薬に名前を変えて新開発してできた新薬のように見せかけ、新しく特許を取得しなおすことで、研究費をかけずとも継続して利権が得られるという内部事情を暴露する。

彼らの手口を暴いたとしても誰が規制し、監視できるというのだろう。

監視する方も買収させられている。

カネまみれのシステムが暴かれているとしても、国家や大手製薬会社が罪を問われ世の中が改善してゆくことは別問題である。

と思った。



テレビでコマーシャルを流し、マスコミを雇って取材させ、大学に精神科を創設し学者を育成し、医者でもなかった精神医の権威をもたせ、製薬会社と癒着させる。


この仕組みを知るまえに患者達はすでに亡くなるか、薬を飲まされ精神を病まされ、中毒になってわからないままになる。





このビデオに登場する、それこそ内海医師のように精神医学に警告を発する人々は、現にそのように犠牲になった患者を麻薬中毒患者を更生させるのと同じように化学薬害断ちをさせる仕事をしたり告発する医者や人々である。

これらを通し、ビデオで問題意識を高めている。

内海医師の本を読んだり、このビデオを見ればより詳しく理解できると思う。




精神病は存在しないと言ったとしても現実問題として、不安や不調を抱え何とかしたいと思っている人々が大勢いる。

そのような人は普通にテレビで流れるコマーシャルや新聞の広告をみて、公認された薬の宣伝の暗示にかけられ安易に薬物に手を出してしまう。

その前に、世の中を不安や不満でいっぱいにして根拠をつくっておかなければならない。

まさに疑似精神病や社会問題は同時に進行し存在している。


[ 2013年06月24日 22:20 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

私もモリンダのノニジュースを考える

医者に処方された薬、市販の薬を飲んでも体調が思わしくない人は、次にどうするであろうか。

似たように良いとされる健康食品に手を出すのではないだろうか。

化学合成のサプリメントを飲んでも効かなかった人が、ひとたび、効果のある健康食品にあたったら、それはその人にとっての救い主で、なくてはならないものになる。

先日紹介したノニジュースは、聞くところによるとそのような効果が現われた人が多かったようだ。

モリンダ社はそれに資格がなくてもできるビジネスをつけて利用者に配当金の還元をしている企業である。

マルチ商法とも認めている。



最近、以下のような意見を書く人を見つけた。

なかなか冷静に観察している。

参考:マルチ商法 モリンダのノニジュースを考える(2013年6月5日)
http://migsis.blog129.fc2.com/blog-entry-287.html


ここでは、イリドイドという言葉を初めて聞かれたとある。

私も初めて聞いた。

モリンダ社がイリドイドという成分がノ二に含まれていることを発見して新商品を開発したのだろうか。

このイリドイドという成分は漢方にも含まれる有効成分であるといっている。

だから安全だ、ともいっているように聞こえる。



漢方は乾燥させると何百年でも効力を失わず保存ができるほどで、ほとんどが生薬を乾燥させたものである。

乾燥させたからこそ薬効があるともいわれる。

ノニは乾燥していない。

自然発酵させるのである。

従来ではノニジュース特有の発酵酵素に価値を置いていたのに、路線を変えたことは少々矛盾を感じる。

何十、何百とまだ発見されていない有効成分が含まれている…といって期待させているのはどうなんだろう。

ノ二ジュースを販売する他社との差別化なのだろうか。




モリンダ社は、

酵素の有効性を強調していたのからイリドイド(生理活性物質)という精製抽出した一成分へ視点を向けさせているようだ。


新製品のスライブ・マキシドイドはそれを意識したものらしい。

名前も変え、含有成分も変えてゆく。

ノニ本来の発酵ピューレのなかに別のものをブレンドする。

新しい別物に変化させる。

これを進化と言うのか。

皆さんにあったものを提供します…お好みの味を選べます。

と言わんばかりに味覚を変えて何種類も登場する。


古代の知恵がここでも分断されていく感じだ。


ブレンドしてより良くなるのは常套手段で悪いことではない。

しかし、ノニは古代から伝わるシャーマンの薬草である。

大手製薬会社はそのようにして、薬草から成分を抽出し化学製薬をつくってきた。

自然の薬草と化学的に合成された製薬とでは効果が違う…はずである。

漢方やシャーマンの薬草は何千年も変わらず伝統的に処方されてきた知恵の結晶である。


スライブ・マキシドイドは別物になってしまったのではないのか。



スライブと聞くともうひとつ思い出すことがある。



THRIVE(スライブ)からslave(スレイヴ)を発想してしまったのである。


カタカナで書くと奴隷の意味のスレイヴ(slave)と混同してしまう。

しかし、スラブ民族がイスラム圏で奴隷にされたからスラヴという固有名詞にあとづけで意味がついたのであって、奴隷がスラヴ民族ということではない。



そして昨年公開された『THRIVE』というビデオ。

参考:◆世界の支配者とTHRIVEの嘘を暴け(改)
<< 作成日時 : 2012/02/22 18:56 >>

http://two-wave.at.webry.info/201202/article_1.html


抜粋ここから。

ちなみに「THRIVE」という言葉は、古典ラテン語のスラングで「繁栄する」(英語も同じ)という意味だ。コメント欄にも書いたが、奴隷が王のパレスを建てる。という意味合いを持つ言葉だ。(フェニキア語から派生)つまり、
ここで言う「繁栄」は、人類の繁栄のことではなく、グローバリストたちの繁栄を意味している。こんなプロパガンダに騙されてはいけない。


抜粋ここまで。


モリンダ社のシステムについての感想は以下にちょこっと書いた。

参考:知恵の喪失/マルチ商法
http://akazukinverde.blog.fc2.com/blog-entry-85.html
[ 2013年06月22日 16:16 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

心理学や精神医学は「心」や「精神」を否定したところから始まった。


「心」や「精神」とはどのように表現してよいのか迷うものだが、

心理学や精神医学という学問的分野ができてからというもの「心」や「精神」が人間から切り離されたといっても過言ではないだろう。

『大笑い!精神医学』には、大事なことがさらっと書いてある。

以下引用。


心理学や精神医学は「心」や「精神」を扱うものだと、みなさんは考えているのではないでしょうか?

しかし精神科医たちに言わせればそれは大きな間違いです。 心理学と精神医学は、すべての人間の行動や感情、思考、感覚は脳によって物理的なレベルで決定されるという考えを、長い間支持してきました。 彼らは、生命とは化学物質を混ぜてできあがったものに過ぎないとして、魂や心は存在しないと述べています。 なぜ彼らはこんな主張をするのでしょうか?

こう主張し、魂や心などないと決めつけていかないと、生物物理学・生物化学たる医学の分野において精神医学や心理学が主流になることはありえないからです。

(『大笑い!精神医学』、内海聡著、33~34頁)






日本人は何事も連動して動くという一体思想があった。

そう思っていない人もいるかもしれない。

私も実は思ったとしてもどれが実感なのか自信がなかったが、最近、自信がなくてもそういうものだと思うようになってきた。

人が知ろうが知るまいが自然とはそのように動いている。

それが宇宙を取り巻く原理で、人間はその原理から生まれてきたのでその法則が当てはまっているという感覚である。

そのような感覚が自然に対し畏敬の念を持たせたりしてきた。

それを分断させて別のものに依存させるように変えてきたのは西洋悪魔主義であった。

ゴッドだったり、カネだったり、スターだったり、なんでもいい。

夢だったり、希望だったり、愛だったり、とにかく自分から離れたところのものを求めさせるようにした。

もしくは、すごく自己中心的にさせ、エゴイスト、ナルシストにさせたり、術(わざ)はあの手この手としかけられた。



人間に悪魔主義的考えがおよぶと、人間が率先して悪魔主義者に加担してやるようになる。

西洋科学の特徴が分断、分解、解剖、分析ですべて細分化していくように、

「心理学」や「精神医学」で「心」も「精神」も分断して考えさせるようバラバラにさせられた。



その結果、身体とココロがバラバラになり、行動がちぐはぐとなり気が狂わせられる。

自殺が多いというのは、どのような種類にしろ、その時点で生きることに対する抗議なり、抵抗なので、帰属している国の政策が間違っていることである。

若者が死んでしまうということは、全体としてみれば未来が希薄になり失うことだ。

人口が減れば移民を受け入れ増やせばいいというそろばん勘定は、根は一緒で解決にはなっていない。

こんなことをいうのは経済グローバル主義の考えである。

経済グローバル主義は、「心」や「精神」はおよびでなく、人間をモノ扱いする。



宇宙の原理のまえには国家は無い。

国家に分断されてから民族がバラバラにされた。

今度は、個人がバラバラにされる。

まさに、トーマス・ホッブスのいう「万人の戦い」状態で自己の主権が奪われる瀬戸際である。

この解決策は、もうおわかりのように、いかなる場合においても自分の主権を失わないようにすることなのだ。

その主権は宇宙の原理とつながっていなければならない。

戦乱の時代にサムライやニンジャたちが精神性の境地に心を落ち着かせることを求めた結果が、

これが戦国時代を終わらせ江戸時代を迎える原動力になったと考える。

しかし、その主権をもつ自分の気が狂ったら一巻の終わりである。



だから西洋悪魔主義者たちは呪文のように「魂や心は存在しない」とする「心理学」や「精神医学」のカウンセリングを受けろと言い続ける。

そして、多くの精神病患者を作りつづけ、レッテルを貼り、楯つくものを排除している。

現代の日本は、自殺数をみれば、それがうまく作用し進行している国、ということになる。



[ 2013年06月21日 02:40 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

人間は自殺しない。 その2

「人間は自殺をしない」

するとしたら気が狂ったからだ。

その気を狂わす原因は、たぶんなんでもそうなる。

たいていは、自力で立ち向かって克服していく。

子供の時は大人が守ってくれたりした。

いじめても、いじめられても、アレルギーで不快な症状がでたとしても、失敗して落ち込んだ時も自分で解決策を見出さないと精神の成長はなく、克服できるまで同じことを繰り返す。

克服して行くことによってひとつづつ問題は解決し、そのうちなんでもなくなる。


貴賤の別は人工的なもので、実際は精神の高低の差で人間の価値が決まる。


ここでいう人間的、人工的とは、どういうことなのだろう。

どうも本来の人類である原住民的発想ではないようだ。





ところが自力では克服できないどうしようもない事態が出てくる。

精神医学で処方された化学薬品を飲んだときからだ。


欧米社会ではだいぶ前から問題にしているが、日本で精神科医の立場からはっきり言ったのは内海先生が最初じゃないだろうか。


大笑い精神医学

大笑い!精神医学
精神医学を100%否定する理由

三五館、2012年12月

内海聡著
マンガ/めんどーさ



ここには精神医学の歴史が書かれている。


もともと人を差別、監禁、迫害、殺人するというのは人類の歴史の一部でもありました。 しかし、200年ほど前にそれをビジネス化して儲けようという考えをもとに発展しました(優生学という学問が作られたのはもっと後になりますが)。


だれかがだれかを排除したいとか迫害したいとか殺したいという願望のもと、こうした考えが許容され、罪のない人々が犠牲にされるようになりました。 1800年代であれば、たとえば政治犯、たとえば異民族、たとえば異教徒、たとえば内部告発者、たとえば居住区の邪魔者、たとえば「知恵遅れ」と呼ばれた人々が、そのような扱いを受け収容されていったのです。 じつはこれは2012年現在でも大差ありません。
(同書、28頁)




18世紀初めに始まった精神病院・施設は、人々を閉じ込めることを専門とし、それを金儲けのビジネスとして発展させていきました。

中略

このシステムを利用したい人間たち、応援した人間たちの代表格は、権威者や権力者であったのです。

中略

その代表格が、たとえばビスマルクであり、レーニンであり、スターリンであり、ナチスのヒトラーでした。 彼らが絶賛した理由は、内実は単なる人権侵害や殺人であっても、それを精神医学の名の下に治療として正当化できるからです。
(同書、29~30頁)




そうしたら、「市民の人権擁護の会」(CCHR)という非営利組織のサイトを見つけた。

精神医学の実体をあばいたグループのようだ。
司法を蝕む:法律を退廃させる精神医学

司法を蝕む:法律を退廃させる精神医学
http://jp.cchr.org/cchr-reports/eroding-justice/introduction.html

以下引用。

G. ブロック・チショルムは、ジョン・ローリング・リーズとともに世界精神保健連合(WFMH)の共同創設者です。彼は臆面もなく、当時の同僚たちにこう語りました。「もし、民族が善と悪という不自由な足かせから開放されるとするなら、それは精神科医のおかげである。」

中略

リーズは、臆面もなくあからさまでした。「大衆の生命、政治、そして産業はどれも、(精神医学の)影響下に入るべきである。…もし私たちが他の人々の職業であり社会の活動に進入するなら、私たちは全体主義を模倣しなければならない。
そして、ある種の第5部隊的な活動を組織しなければならない!…したがって、自分たちをとても密かに『第5部隊』にしようではないか。」リーズは、法律や医学の分野は攻撃するのが最も難しい分野であると考えていました。


引用ここまで。

リース
ジョン・ローリング・リーズ
(John Rawlings Rees :1890 – 1969)


参考:J・R・リースが作り上げた「タヴィストック流大衆洗脳テクニック」=米国をコントロールする最重要神経中枢
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=211230





同じ「市民の人権擁護の会」(CCHR)から、

dms

精神医学:死を生み出している産業
http://jp.cchr.org/videos/psychiatry-an-industry-of-death-1.html

14章からなるビデオ。 
それぞれ10分弱のもので日本語字幕とナレーターが併用してある。
精神医学の歴史が描かれている。


先日、政府の「自殺対策白書」の閣議で、20代、30代の自殺が最も多くなっていると発表した。

参考:自殺白書「若い世代の対策強化を」
NHKニュース6月18日 13時58分

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130618/k10015383951000.html

参考:自殺者数の推移
時事通信社

http://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_tyosa-jikenjisatsu


ここには、精神医学との絡みも、処方されて飲んでいるはずの薬も表だって出て来ない。



dsm-v精神疾患の分類と診断の手引

[ 2013年06月20日 02:00 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

人間は自殺しない。

子どもは本来自殺するはずはないが自殺する現実がある。

と考えていた時、

食べるものにも住むところも心配のいらない家畜人は自殺しない。

と、思いついた。

奴隷もまた自殺しないのは、最低でも食べ物と住むところがあるからだろう。


人間はどうして自殺するのか?


そこで、行き当たったのが、人間は自殺することはしない。

だった。


じゃあ、どうして自殺するものが後を絶たないのかと言えば、

自殺に追い込まれている…

としかいえなくなる。



自殺は人間的である…とある学者は書いた。


「中央公論」6月号、伊藤茂樹「子供の自殺を消費する社会」

「子供はもともと自殺する存在とは見なされていない。 動物が自殺しないことから明らかなように、自殺という行為はきわめて人間的なものである」

参考:消えゆく「人間」的知性=家畜人
http://akazukinverde.blog.fc2.com/blog-entry-87.html




この「人間的」と言うのは、

自分なのか他人なのか。


自殺に見せかけた他殺や暗殺のような事件がらみは別物だが、

自殺しなければならなくなる状態に追い込まれるのか、

はたまた、

自殺したくなるような気持ちにさせられるのか、


自分から死ぬようにさせられる原因は何かというと、自分の気が狂ったからにほかならない。

気が狂う。

気を狂わせられている。


なにで…。

大笑い精神医学


大笑い!精神医学
精神医学を100%否定する理由

三五館、2012年12月

内海聡著
マンガ/めんどーさ


この本は専門医が精神医学の現状と疑問点を精神医学の歴史をとおして、現代の薬漬け社会の弊害をあばいた良書になっている。

まさに、まともな人間をキチガイにするプロセスが、政府の承認を得て、公共社会がらみで、愛する家族が心配するあまり、自分もまたそれに応えようとして、堂々とまかり通っている実態が浮き彫りになっている。


精神病でない人間が精神病になっていく話である。


内海医師のような勇気ある行動を起こしてくれる人が増えてくれるのはもちろん必要だが、私たちも知らぬ間に自殺を思いつめなくていいよう、防衛本能を働かせるべきなのだ。

人間は、生きるために産まれてきたのである。


注:ランキングは調整中。

[ 2013年06月16日 22:30 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

天皇とエタ


住井すゑさんは、いいところに気づかれた。

宇宙の法則にのっとって人間には貴賤の別はないと断言したのはよかった。


しかし、その法則が、アインシュタインの時間の法則に落ち着いてしまったから、橋は架けられなかったのだ。


時間は法則の一部ではあるがすべてではない。

まして生命の源ではない。

これでは「橋のない川」に橋は架らない。



天皇制は時間の経過でその時代に沿って作られたもので、これも生命の源から発したものではなく、なくてもいいものであるし変わるものである。

では、なぜ守っているかというと、その日本原住民のご先祖の名家としてであって、その制度ではない。

イルミナティ悪魔主義者は、地球原住民に取りつき、次々滅ぼしてきた。

日本を例外と考えるのは虫がよすぎる。

人間という生命現象が現れたと同時にそれも存在し、古代から痕跡が残っていると考えるべきだ。

しかし、なんというか、入り込まれつつも日本得意の精神性で別物に変態するという技をみせたことで巻き返しながら今日までたどり着いているような気がしてならない。

悪魔主義者たちは幕末明治維新の騒動を仕掛け、明治維新を担った売国奴の日本人を使って西洋風に天皇教の制度に改造させたのだ。

天皇制をつくり、日本原住民であるエタと切り離し、被差別部落という器をつくりいっしょくたにし、抑圧者と被抑圧者に分けさせた、という筋書きが考えられるではないか。

断っておくが、天皇制を作るのは天皇ではない。

つくられたものに便乗することはあるだろう。

先の世界大戦で日本を料理しようとしたものの日本軍の行動が計算違いだったため、叩こうと企んでいた連中の方針を変えさせたに違いない。

大局から見ればその様だったと思う。



住井すゑさんが『住井すゑ対話集3』の126頁でこういっている。

現実として、一般の人は、部落の人たちへの最後の爆弾として「エタ」という一言をもっています。


もし、この問題に橋を架けるとしたら、山本健造著の『裏古事記』や『暴かれた古代史』等の知識がなくてどうして論じることが出来るのだろう。

山本健造氏は飛騨族のことをヒエッタ=エタ、であるとはっきり書いている。



アメリカ先住民、地球原住民のアパッチ族のシャーマン、グランドファーザーの話しも参考になるだろう。
物質文明によらず、無益な争いを好まない彼等の生き方は日本原住民の生き方と似ている。


生命力がなくなった気枯れた状態には、地球原住民の知恵が必要だ。


人為的な法律や賠償では解決するものではない。






住井すゑ対話集3.


住井すゑ対話集3 人間みんな平等
労働旬報社、1997年

佐藤登美さんとの対話。

初出 未来に託すもの……『看護展望』1993年9月号、10月号


住井すゑさんが第8部の構想をもっていたという話が出てくる。

以下、住井すゑさんの言葉のみ抜粋。




七部に出てくる熊夫という少年が中心です。


…お父さんは網走の監獄にいる。 両親ともに部落民ですが、両親と離れて孝二の家にやっかいになりながら成長する。 小学校を終わって誠太郎の店に入り、そこで兵隊検査を受けて、第二次世界大戦の住井すゑさん召集を受けるのです。 部隊の言ったところが沖縄です。

明日はアメリカ軍が上陸してくるというので、部隊全員が玉砕の覚悟をする。 ところが、最終的には部落民の熊夫一人が生き残って帰ってくるという話です。

この、部隊でただ一人生還するというのは、実際にあったことです。 私が『橋のない川』を書き始めたときにこの事実がわかってきて、ひとしきり問題になったのですが、解放運動のなかでもあまりに悲惨な話だから、だれもまともに扱えなかった。 世の中には、そういう辛辣な天皇制にたいする風刺もあるのです。


(『住井すゑ対話集3』、145~146頁)



ではなぜ、日本にそんな不平等な天皇制が定着してしまったのか、これはどうも100パーセント、イギリスの政策だったようです。 島津に肩入れして軍資金をどんどん貸し出し、徳川を倒して、皇室に全権をもたせた。 これが、一つ号令をかければ国民全部が戦争に狩り出されるという軍国主義の基をつくっている。 アメリカもそうだけれど、明治維新は主にイギリスの必要からやったことで、イギリスと島津の関係を歴史的に解明していけば、そのことがはっきりわかってくると思います。 英米の遠大な計画に日本が乗ったのです。

皇室と島津の関係は今でも続いていて、隠してはいますが、皇太后は島津の孫です。 日本の天皇制のなかには、そういう国際的陰謀があったということを、私は八部でほのめかしておきたいとは思っているのです。

日本が軍国主義になり、天皇である大元帥閣下が陸海軍を統帥して、いちばん先にやったのは日清戦争です。 中国を負かしてもイギリスの利益にはなったでしょうが、日本には何の利益もない。

(同上、149~150頁)




住井すゑさんは八部を書かずして逝ってしまわれた。





[ 2013年06月14日 02:00 ] カテゴリ:部民(部落)/伴 | TB(0) | CM(0)

人間には貴賤の別はないが、差別はある。


住井すゑさんのいう

人間に貴賤の別を作ることは、宇宙の法則に反している…

のなら、差別というものはあってはならない。

という、仮説がたてられるかもしれない。


貴賤の別を作ったから差別ができたと考えてしまいがちだが、自然界には差別はある。

自然界は差別があってバランスをとりながら保っている。

なので、

人間には貴賤の別はないが、差別はある。

のほうが宇宙の法則にあっている。


人間に貴賤の別を入れ知恵したものは何かが問題なのだ。

貴族と奴隷の起源にあるかもしれない。

地球原住民は、そんな制度をつくらなかった。



自然界には、差別もあるし、いじめもある。

差別をなくせ、いじめをなくせ、と言う方が無茶である。

これらを克服してきた先人の生きる知恵で対処していくべきなのだ。




[ 2013年06月11日 00:47 ] カテゴリ:部民(部落)/伴 | TB(0) | CM(0)

「橋のない川」の思い出/貴賤の別の理論


「橋のない川」というタイトルがいい。

橋がないなら掛けてみようかという気にさせる。



「被差別部落」等々の呼称は、明治時代に江戸時代と対比させるうえで政策上、西洋を手本に近代化を図るうえで天皇制というピラミッド型の組織作りのために徐々に定着させられた印象である。

「被差別部落」というものが日本原住民の立場から論じられることなく居座っている。

感情論をやめて、気枯れたものを手当てしないと本当に穢れたものになる。



この小説を読んでも解決策の見いだせないまま、住井すゑさんの目指すものがなんなのかわからなかった。

住井すゑさんの対談集があったので何か手がかりがないかと思い、当時読んだ気がする。

どのような対談集かは忘れたのだが、「鬼に書かされた」…という発言があったのを記憶している。

その箇所を探すべく今回またページをめくってみた。


住井すゑ対話集1


住井すゑ対話集1 橋のない川に橋を
労働旬報社
1997年



は、これまで雑誌に掲載されたものをテーマ別に何編かまとめられている。




菅野照代(すげのてるよ)との対話
『部落』1980年一月号掲載分


のなかで、「橋のない川」の裏付けになったものはなにかとして、石原純(いしわら あつし:1881-1947)博士に教えを乞うた「相対性原理」をあげている。


人間平等というのは宇宙の法則、観念の問題じゃないんです。 宇宙が回転しているという、これは運動体ですね。 われわれはそのなかの一人、こんな小さな存在ではあるけれど、宇宙すべて運動体のなかにわれわれも存在するということは、宇宙のバランスに役立っているということなんですよ。 不必要になれば死んでいくんですよ。 必要あれば、また新しい物が生れるんですね。 お互いに引き合って運動体になっている。 だから科学的に、人間は平等であることが証明されるわけなんですよ。

だから天皇制とか部落を作るというのは、人間に貴賤の別を作るということで、宇宙の法則に反しているんですよ。 だから、天皇制はいけない、科学を否定する、宇宙の存在である限りは宇宙の法則に従わなければいけないんじゃないか、というのが私の考えです。

(同上、159頁)



住井すゑさんが、相対性原理にヒントを得て、持論を立ち上げた。

私も相対性理論だ、なんだと説明されるより、住井すゑさんの論の方がわかりやすい。


自分も日本人のアタマなのだと思う。

15年前、読んだ時より今の方がよくわかる。


そこで思ったのは、

ガリレオの相対性原理、
ニュートンの運動法則、
を経て
アインシュタインの相対性理論が生れ、相対性理論にも一般と特殊があり…


と進化というか、分割というか…

素晴らしい理論だとしても、まだ解明されていないようだ。





日本人のアタマの住井さんは、咄嗟にわかったようだ。

しちめんどくさい理論をすっとばして、

「天皇制とか部落を作るというのは、人間に貴賤の別を作るということで、宇宙の法則に反している」

と見破ったのだから。


ここで残念としかいえないのは、西洋の科学の本質を見誤っていたことで、それは宇宙の法則に反した貴賤の別を作ることにほかならない。

西洋の科学を採りいれた明治政府は、それゆえ天皇制を作り、被差別部落の認定をし、終らない論争へと道びいたのだった。


ここで言う西洋の科学は、もちろんイルミナティの科学である。





[ 2013年06月10日 02:36 ] カテゴリ:部民(部落)/伴 | TB(0) | CM(0)

「気枯れ(ケカレ)」考


先の6月2日「橋のない川」の思い出…のなかで、奈良の月ヶ瀬村事件にふれた。

このリンクした先のサイトや書き込みなどで加害者の青年に同情を寄せる人が多かったのを知った。


青年の育った環境に問題アリとの見方もあった。

このような家庭でまともに育つ方わけがないというものだ。





部落問題が、個人の問題なのか、部落というある閉鎖された地域の問題なのか、はたまた人種問題や民族問題にまで発展するものなのか。

広げ過ぎたら問題の焦点がよくわからなくなる。

社会問題で扱うより、日本列島に住む人々の経緯にかかわることなので、日本の多様性を見るうえでも大変興味深い資料になると思う。

もし、なんらかの解決を試みられるのなら、同次元の話ではおさまるものでもないだろう。



インドのヒンズー教は、大きく四つに分かれた階層である。

それぞれの階層の中では、さらに細かく分かれているらしい。

永年のカースト制の死守により、バラモン階級と奴隷との間の遺伝子はまったく別モノになっているという。


カースト制にも外れるアウトカーストの人々の精神状態を考えた時、日本人には当てはまらない。

アウトカーストの人たちは精神までも奴隷になっているから、顔つきに現われる。


アウトカースト以外の階級もまた、奴隷身分でなくともそれぞれの階層に囚われの身になっている。

奴隷より上位の階層ということで視野が開け待遇がいいとしても、このカースト制にのっとっているかぎり、その精神構造は奴隷と何がかわるというのだろう。




私が部落問題にまったく興味が持てなかったのは、その「気枯れ」にあるのだと気づいた。

昔、別の意味で部落に興味を持った時があった。

その美しい民家や自然の流線を活かした民具や村の生活形態からであって、今日の問題とは全然結びつきもないことだった。

いわゆる民芸という日常生活で使われる道具が、家主によって工夫して作られ、それが生活の中にとけこんでいる様子である。


しかし、現代さわがれている部落問題はそのようなものではなかった。

なんというか、それこそ「気枯れ」という表現がぴったりくる。

問題にした途端、陰気というか、嫌気というか、そのような気分にさせる。


日本人なら「気枯れ」を「気枯れ」たままにするはずはない。

人間であれば、だれ彼となく向上心というものがある。

というのは、生きることが目的である日本という風土に生まれ育ったならば、そのような気骨精神が備わっていると思うからである。

そのような人は、「気枯れ」の状態をそのままにせず、なにかしら手当をするはずである。

そうでなかったら、アウトカーストのような陰気な集団にはならない。

それでも、現代に「部落問題」があるというのは、禍根を根強く持ちつづけた部民がいたからではないのか。





権力者集団によって先天的に差別された原日本人のひとつ飛騨族はエタと呼ばれ、江戸時代までその呼称で呼ばれたが、明治になって解放令のもと、被差別部落に一括吸収されてしまった。

エタが差別をされたというのは、文献にあるとおりだが、どのような集団かは定かではない。

山本健造氏が自著の『裏古事記』等の書物で初めて明かしたものと思われる。



渡来人に随行してやってきた奴隷が、日本で後天的に差別なのか気に入らない扱いをうけたのかという問題はまた別である。

現代の「部落問題」はこっちが主となっているような気がする。



だから、「差別」といわれても程度の差があり、個人の問題を社会問題にした感があるのも混ぜこぜになっているかもしれない。


企業では商品開発するうえで「差別化」は当たり前のことである。

この差が商品の価値を増し、地域差が特産品を生み出し、差があるからこそ向上心というものが育まれる。


自分にできることはまず正す方へ努力し、共通の問題として社会に要求することは要求し改善させ、伴に成長してゆくものととらえられないならば、

被差別部落問題とは、手のほどこしようがない「気枯れ」た問題だと思っている。



[ 2013年06月07日 23:30 ] カテゴリ:部民(部落)/伴 | TB(0) | CM(0)

自分が主体なのか、他人が主体なのか


6月6日、今日は母の命日なので親戚が集ってにぎにぎしかった。


つい先日、私の農業の先生…といっても農業学校の教師をしていたので直接教わったわけではない…の家に遊びに行った。

田植えの約束をしていたのに時間が合わなくて手伝えなかったことの詫びも含めて雑談するためだ。


学校を退職されたあと、世話になった恩師の面倒を夫婦で見ておられる。

恩師には子供はいないのでその人がそのかわりになっている。

その先生のご夫妻にも子供はいない。

血のつがなりがない者同士が寄り添っている。



その先生は理想郷を夢見ているので、現実に根ざす私とはよく衝突する。

それなら行かなきゃいいのだが、上記の理由があるので時々様子を見に行く習慣が続いている。

今回、先生は昔「生長の家」という組織に入っていたことを言った。

そして、私が霊的なことを口にするから、「霊的体験があるのか?」と聞かれた。

私は、「ないが、憑依された人は見てきた」というと、「霊的体験がないとだめだ」という。

そこで、先生が話されたのは、

自分の尊敬していた霊能者の話しであった。

先生が霊的体験をしたのではなかった。

「その霊能者は観音様の言葉が聞こえる人で…」

といいだしたので、内心「勘弁してくれ」と思った。

「ある日、龍神が見えるという人が訪ねてきた」

「!!」

「その訪問者が帰ったあとから、霊能者には観音様が現われなくなり、代わりに龍神が現われるようになった」

と言って、先生は黙った。


私はその続きはどうなったのか知りたかった。

先生は、龍神が現われてから意見が合わないと思われ、その霊能者のもとを去った。


自分で語った矛盾に気がつかれたかどうか知らないが、先生は黙りこくった。

私にすれば観音様も龍神も同次元の存在にみえる。

でなかったら、簡単に取り替わってしまうことはないだろう。


追い打ちをかけると失礼になるので私も黙ったままだった。



私が基本に思っていることは、自分が主体なのか、他人が主体なのかということである。

霊能者が何か別の存在を介して託ける場合、たいてい憑りつかれて操られてしまっている。

幻覚が見える状態の脳を生まれつき持った霊感体質の人もいるくらいだ。



先生は話題を変えて、自分の理想とする縄文の生活の仕方を説明をしてから、「夢はなんですか? 幸せはなんですか?」と私に振った。


私はこのようなわけのわからない質問をされると虫ずが走ってくる。

世間では普通に喜んで会話に花を咲かせていることではあるが、

私は自分と何の脈略もない得体のしれないものに取り囲まれた感触になる。

もしかしたら、先生は無邪気なのかもしれない。



「生きる」ことを感じた瞬間、そのこと自体が幸せと感じ、夢の実現に向けて踏み出しているのである。

この夢というのは自分の意欲から生まれてくる。

別のところにあるものでも、遠くにあるものでもない。

誰かが授けてくれるものでもない。

すべてが一体となって動き出している。

同じ目標を持つ者同士が集まればそれだけ強くなるし、事を成せるものだと思う。



先生はもっと抽象的なありふれた答えを期待しているのだろう。

どのように説明すればわかってもらえるのか、わからなかったので黙っていた。

[ 2013年06月06日 21:45 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

「橋のない川」の思い出/気枯れ


農場の研修が終わって家に帰ったのは1997年の11月。

帰ってからこの本「橋のない川」を読んだ。

この続きが読みたかったのは、どうしてこういうことが起こるのかその原点となるものが記述されていないかと思ったからだ。

第七部まではそのようなことは書いていなかった。

インドのアウトカーストは宗教によるものだとわかったが、日本のその似たような状況はどのように生じたのか、この本ではわからなかった。

私はその原因が知りたかったのだ。

いつものように新聞を整理していたら、この記事が目に付いた。


平成25年6月1日
東京新聞/文化面

「うゐの奥山」第15回「『手入れ』しつづける国」
玄侑宗久



古代の日本人は、「毛」や「木」や「気」をすべて「け」と呼び、その自己増殖力を讃えた。

抜いた「毛」から神が生れ、「木」にも神が宿ると考えたのはそのような「産霊(むすび)」の力を感じたからである。

こうした増殖力が枯れてしまうことを彼らは「けがれ」と呼んで非常に嫌った。

穢(けが)れるくらいなら、旺盛な産霊の力を枯らさないまま、手入れしながらつきあうしかない、ということだろう。


以上抜粋。

玄侑さんのいう古代の日本人は何時の頃の日本人か短いコラムでは書いていないが、「けがれ」を「毛」や「木」や「気」と当て字されたことにハッとした。

私が勝手に「気枯れ」、と漢字をあててみた。

何かよくわかった気がする。



私が漢字の「穢れ」以外に「ケカレ」を知ったのは、楢崎皐月(ならさきさつき)による相似相であった。

電位差の違いで植生の優劣が現われ、優勢なところを「イヤシロチ」、劣勢なところを「ケカレチ」とした。

このケカレチに炭を埋設することによって電位差の幅を縮小し「イヤシロチ」化する技術であった。

カタカナで名称が書いてあったのであまり漢字は意識しなかった。

なるほど、「気枯れ」だと妙にぴったりくる。


この相似相の考え方も人が手入れをして土地を豊かにしてゆく発想である。

それは、自然と人間の付き合いである。

アメリカ・インディアン、アパッチ族のシャーマン、グランドファーザーも自分の祖父から自然の手入れの仕方を教わっていた。


玄侑さんは続けて書く。

おそらく日本人は、自然の増殖力を敬愛するがゆえに、そのような態度で自然と接しつづけてきたのではないだろうか。

最近は、手入れが面倒だからと銀杏(いちょう)の葉は散るまえに枝ごと伐(き)ってしまう。

それどころか草が生えないようにコンクリートで塗り込めてしまう。

そんなやり方をよく見かける。

そこまで行くと、面倒を避けるため、恩恵まで拒否する態度だが、どうなのだろう?


以上抜粋。


確かに、うちの近所の公園や街路樹も早期に枝払いしている状況がここ何年続いている。

春なのに新緑を愛でるのではなく、枯木の無様な姿をさらし、盛夏には木漏れ日さえなくなった。



かつて、「気枯れ」を「癒やす」ほうへと行動を起こしていた日本人。


自然の摂理を無視すれば「気枯れ」たままである。

木が枯れれば移植すればいいという身勝手な問題ではない。

自然は循環の中で潤っているのである。



部落問題は、明治時代になって「穢れ」で定着された印象がある。

扱う方も扱われる方もである。

昔はそのように固定した発想はなかったはずだと思うのは、古代日本人の知恵があればなにかしら循環していたはずである。


現代の部落問題は「気枯れ」状態である。

[ 2013年06月05日 20:50 ] カテゴリ:部民(部落)/伴 | TB(0) | CM(0)

「橋のない川」の思い出


「橋のない川」
住井すゑ(1902 - 1997)著


橋のない川


これを読むきっかけになったのは奈良県に隣接する三重県の白樫(しらかし)で農業の研修していたときだ。

この本が書棚に入っていた。

ある日、農場主が尋ねてきた人と雑談していたとき、この本が話題となり、「これは、いい本だ」というのを耳にした。


研修が終わって自宅に帰った時さっそく全巻読んだ。


読みだしたら、一気に読んだ。

二十歳の時インドを旅行し、アウトカーストの存在を知った時と同じくらい衝撃的だった。


おりしも、この農場に来る前、このような事件がテレビのニュースを賑わしていた。


参考:奈良・女子中学生殺人事件
http://yabusaka.moo.jp/tukigase.htm


参考:■哀しき鬼・丘崎誠人に捧ぐ
http://gxc.google.com/gwt/x?q=%E5%93%80%E3%81%97%E3%81%8D%E9%AC%BC&client=ms-kddi-jp&start=1&hl=ja&inlang=ja&ei=XSFjS5jpBIzK6AOfy8XSAw&rd=1&u=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fmarebit%2Foni.html



月ヶ瀬村は白樫の隣である。

梅の木がたくさん植わっており、季節には観光客でにぎわうそうだ。

ちょうどこの季節には居合わせなかったが、なぜか私の脳裏には梅で満開の記憶が残っている。

月ヶ瀬ダムの水量がもやを発生させ幻想的な光景を映し出す。

このもやがお茶の産地としても有名にさせた。

この地のお茶の生産農家を訪ねた時、冷水で入れてくれた玉露を口に含んだときのなんというふくよかな甘さがわすれられない。



白樫の別の隣には伊賀上野がある。


上野城で薪能が秋に奉納される。

上野城を背景にお能が見られるなんて何と言う幸運…にめぐまれ鑑賞させてもらった。

このとき初めて能とはどういうものか考えた気がする。

観阿弥(かんあみ)、世阿弥(ぜあみ)が伊賀忍者だったというのもついこの間知った。

能の動きは武術の動作が基本になっている。





さて「橋のない川」を読み終わって、続きが読みたくなった。

しかし、続きはない。

続編の第8部を書く前に著者の住井すゑさんは逝去されたようだ。



[ 2013年06月02日 22:40 ] カテゴリ:部民(部落)/伴 | TB(0) | CM(0)
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