ビー太郎サバイバル日記

武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。「正忍記」その5
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「知られざる福沢諭吉 下級武士から成り上がった男」の品格(1)

福沢諭吉

「知られざる福沢諭吉 下級武士から成り上がった男」
礫川全次著
(平凡社新書)2006年11月、初版第一刷




「知られざる…」と題しているところから、これまで言われてきたこととは違うことが書いてあるだろうと思い読んでみた。


著者の礫川(こいしかわ)氏が、福沢擁護論者によらない、むしろあまり世に出なかった批判本を通して福沢諭吉像を端的に表している良書である。


だからといって、福沢を痛烈に批判しているわけではないのでそれを期待すると物足りなく思うかもしれないが、福沢諭吉という人物像と行動から幕末明治時代の変動期を分析しているのが共感できる。

以下抜粋。




生前の福沢が、始終「拝金主義者」と呼ばれ非難されていたことは、今日あまり知られていないかもしれないが、これはあくまでも事実である。

勝海舟の進退について論じた「瘦我慢の説」(一八九一年稿)は、一九〇一年(明治三四)一月一日の『時事新報』紙上に発表されたが(福沢:死の一か月前である)、これを読んだ徳富蘇峰は「拝金家の大和尚と歌われたる福沢氏の……世間に認められざる侠骨稜々(キョウコツ リョウリョウ)たる反面」が現出したという(『福沢諭吉選集』第七巻「解説」、家永三郎執筆、による)。

中略

ことによると福沢は、あえて「拝金主義者」という呼称を引き受けながら、日本人の意識の「近代化」という啓蒙活動を展開してきたのかもしれない。 しかし、そうした「仮説」の当否については、このあとの考証に譲らねばならない。

中略

幕末から明治にかけて、福沢諭吉は傑出した啓蒙家であり、啓蒙思想家であった。 幕末から明治にかけての混乱期に、もし福沢諭吉が、攘夷の風潮を厳しく批判し、欧米の科学や近代的精神をわかりやすく紹介しなかったとしたら、日本の近代化は、ずっと困難なものになったはずである。

中略

『学問のすヽめ』の冒頭の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」というインパクトに富む言葉は、たちまち全国に広まり、人々の意識を確実に変えていった。 そのほかにも彼は、多くの啓蒙書・実用書を出版する一方、慶応義塾を経営して近代にふさわしい産業人を多数育成した。

中略

もっとも福沢諭吉は、幕末から晩年にあたる明治三〇年代まで長期にわたって活動を続けた言論人であり、その思想や行動を「啓蒙思想家」というワクで括ることはできない。

彼は終始一貫して合理主義者、リベラリスト、あるいは民主主義者であったわけではない。

周知のように彼は明治一〇年あたりをさかいにして、藩閥政府に「迎合」的態度を示すようになり、「民権運動」に対しては距離を置くようになった。

また、一八八五年(明治一八)の「脱亜論」に代表される彼のアジア認識と脱亜入欧イデオロギーは、政府や国民に大きな影響を与え、その後の日本の対外政策をリードした。

福沢に帝国主義者としての一面があったことは事実であるが、多くの日本人はこの問題について、正確にして十分な認識を持っているとは言えない。


中略

この「福沢ルネサンス」のキッカケはいくつかあるようだが、その時代的背景について言えば、要するに、中国分割という福沢の主張が、一九三一年(昭和六)の満州事変によって実現し、福沢の先見の明が認められたということらしい(平山洋『福沢諭吉の真実』文春新書、二〇〇四、の解説に従う)。

それにしても、一九三五年前後には「福沢ルネサンス」が叫ばれ、一九三四年には郷里で福沢を「国賊」扱いする動きがあったというわけである。

毀誉褒貶の激しい福沢にふさわしい評価の「揺れ」というべきか。

さらに戦後においては、一転して、合理主義者・リベラリストとしての福沢が「再評価」されることになる。

敗戦間もない一九四七年、政治学者の丸山眞男は、「福沢に於ける『実学』の展開」および「福沢諭吉の哲学」を発表し、福沢再評価の動きを牽引した。

こうした傾向は戦後ずっと継続し、基本的には現代の「一万円札」にまで及んでいる。

ただし、歴史家の服部之総
(はっとり しそう)は、戦後初期からの「アジア認識」を問題にし、丸山眞男の福沢観に異議を唱えていた。


中略


戦後から今日にいたるまで、福沢諭吉の「評価」に関わる論争は、彼のイデオロギーをめぐるものが中心となってきた。

しかし、ここで注意しておかなければならないのは、同時代の人々の福沢への批判あるいは否定的評価は、必ずしもその「イデオロギー」を理由にしたものではなかったという事実である。

…同時代人の福沢に対する批判あるいは否定的評価は、彼の「品格」をめぐって、つまりその人格的側面に対してなされる場合が多かったのである。

曰く「法螺ふき」、曰く「変節漢」、曰く「拝金主義」。



(『知られざる福沢諭吉』、12~19頁)



という具合に、幕末明治時代という変節期に遭遇し乗り越えた日本人の様子が、下級武士出身の福沢の出目を強調しなければならなかったその時代の側面がみえてくるようだ。


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[ 2013年07月30日 02:37 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

すべては生きるために/「進撃の巨人」(2)

7月25日付、すべては生きるために/「進撃の巨人」、へコメントありがとうございました。


そして、投稿していただいた方への伝言ですが、

7月26日付の二つのコメントは、「管理人だけ表示を許可する」で投稿されたようなので、公開されていません。

私もこのブログの仕様がよくわからず使っているので、どうしたら表示できるかもわかりません。

もし、投稿者が間違えて「管理人だけ表示を許可する」で投稿されたのでしたら、もう一度、この項目をチェックせずに投稿しなおしていただけますか。

もし、非公開で投稿したものでしたらこのままでよろしいです。



そのような意向で投稿されたものから引用したら悪いかなと思いつつ、コメントをくださった中からいくつか紹介させていただきます。


「曰く人間の歴史は集合離散の繰り返しに過ぎなく、完全な善も悪もなく、大切なのは陰陽のバランスだそうです。」

私も、現世はそのように思います。

そして、イルミナティ悪魔主義者はこの陰陽のバランスの一部に含まれるものでありますが、人間が存在できる中庸には位置することはできません。

ですので、この地球進化における正統、主権は、人間であると考えます。



「広島長崎の原爆が日本人の仕業だった?」

このような書きかたは、投稿者がショックを受けたように、日本人にショックを与えたいのではないかという、目的意識が働いているのではないでしょうか。



ひとつの考えの中に、こういう風に考えてもらいたいという方向性を持たせれば、どのようにでも話をつくることが出来ます。


陰陽バランスをさぐりながら書いていると、断定のない説得力のない強調のない文章に仕上がって、なんかわざとつまらなくしているような気になってきます。


逆に、鼻息の荒い文章はひいてみてしまいます。





原爆は善でも悪でもない、

とすれば、

戦争に勝つために原爆が必要だ…

ということになりかねません。


経済発展のために原子力エネルギーが必要だ…

も同じ理屈のようです。


勝者/敗者である人間や自然環境に対する配慮がないところから、このような思考の出所がそもそも間違っていると断定できます。

どちらも、力を持つ推進派の目的がはっきりしているためにいくら反論がでようとぶりかえします。


原理や原則に沿っていないファンタジーをそのまま現実にもちこむと破壊します。


そんな追い詰められた状況下に置かれた日本も原爆開発に乗り出したところ、当時の研究者たちはその危険性にいち早く気づいたはずです。

日本の原爆研究が、アメリカの原爆製造のヒントになったようでした。



akazukinブログ過去記事より


「日本・原爆開発の真実」・彦坂忠義博士
2011-09-07

http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-11010909596.html


核の脅威とはなんだったのか?
2011-09-09

http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-11012402927.html


科学者たちの戦争
2011-09-10

http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-11013620422.html



彦坂博士の研究は常温核融合に近いものではないかとも思いました。



常温核融合
2012-03-11

http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-11190016755.html




彦坂博士は研究の主流から退いた後、戦争間近かに家族と大連に渡っています。

無事に帰ってきましたが、これ以上この研究は続けなかったようです。





陰陽バランスの考え方は、日本の武士に代表されるように日本人の中に浸透していたものと思われます。

そのような私たちを取り巻く状況や環境の中、日本人は新しいものを取り入れつつ中心を維持し変化してきた人種だと考えます。

そして、常に中庸をさぐってきたのだと思います。

これを説明するには、精神の分野になると思います。



イルミナティ悪魔主義者はそんな人間にまともになってもらいたくないので第五部隊である精神医学をつくり、躁うつ病、精神病患者であるかのように暗示をかけ増加をはかっています。


戦争や兵器がなくても人は殺せます。

しかも自ら死んでくれる。



このブログのタイトルの下の正忍記の言葉は、武士と忍びはとる態度は違ってもどちらも中心/中庸に身を置いていることを示したかったからです。

陰陽バランスのせめぎ合う中で、自分が最終的に勝たねばならないからです。

勝つというのは、何か景品賞金がでるとか、名誉の勲章をもらうというものでもなく、精神的に勝つことです。





『進撃の巨人』は、いまのところ好意的に視聴しています。

みなさんがどのように言っているか知りませんが、これも現代を写しているようなアニメだと思っています。

現代社会の仕組みを的確にとらえ、うっぷんや不満が素直に爆発して、主張が結構まともです。

大人には気づかないことを若者は感じているのかもしれません。



暑い日がつづき、パソコンの前に座るのも嫌になります。

ですので、ブログはさぼりぎみ。


[ 2013年07月27日 02:00 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(3)

すべては生きるために/「進撃の巨人」

テレビも見なくなったし、インターネット上でしかみていないのだが、「進撃の巨人」というアニメが最近大流行りだと言っている。

近辺に騒ぐ人もおらず、実感はないが、私は注目している。

作者はこの世界では若手の26才。

この作品が処女作だという。

まぁ、自分は詳しくは知らないし、宣伝をそのまま受け流しにはしたくないので、作品を見たことの実直な感想を述べたい。


私のこのブログのタイトルに「サバイバル」をつけたのは、昨年暮れからこの「サバイバル」つまり、「生きる」ということに強くひかれはじめたからだ。

このアニメは、人類が敵である巨人に食い尽くされるかもしれないという絶望した状況からはじまっている。

食われて、その巨人の糧になるのではなくただ食い殺されて吐き出されてしまう。

死ぬことが無意味なのである。



人類はこの巨人の弱点を研究し立ち向かい始めた。

絶望の中での一筋の希望を見出した…

と書くと、いかにもお話しっぽいのだが、


そういう話である。


私がふと思ったのは、主人公を初め巨人に立ち向かう姿は、戦時中の日本の特攻隊のイメージであった。

このアニメの状況は戦時中のそれに似ている。

戦ってしか生きのこる道はないそのような状況である。

それを、戦争体験のない若者が作品のテーマとし、これを見て共感する人たちがこれほどいるという現状は、現代に流れている雰囲気を単刀直入に写しだしたからではないかと思った。



西洋人はこれを、希望とは…生きるとは…愛とは…というように哲学という基盤にのせて論じるが、日本人はすべて「生きる」ことに集約されているのだ。

利己的な希望、利己的な愛、自分だけが生き残るのではない。

私という個人がすべてを活かす根源となるように置く思想は、日本人がこの世に生を受けた時からさだめのように受け継いでいる思想であった。


あの大戦で特攻隊が生れたのも、遠くアメリカに移民した日系人が442部隊でとった行動も、時を経て現代、マンガに著われでた主人公たち若者の行動も、自分の命を投げ出してこの窮地を脱し次につなげる姿勢にほかならない。



アニメは架空の存在の人類とは思えない巨人が敵であるので、思いっきりぶつかることができるが、現実では、人間の敵は人間になる。


現実には、人間の敵を人間に対峙させる策略がある。

敵を間違えてはいけない。



西洋の学問は人間から離れて観察されたところに構築された。

西洋思想で人間を知ることはできない。

日本人は「生きとし生けるもの」と云う思想があった。

そして、思ったことが、即、行動となった。




[ 2013年07月25日 11:18 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(2)

「児童相談所の怖い話」、権利と無責任体制

児童相談所の怖い話

「児童相談所の怖い話」
内海聡著、三五館、2013年2月初版





「精神科医は今日も、やりたい放題」三五館 (2012/3/23)
「大笑い!精神医学」三五館 (2012/11/21)

に続いて出版された内科医内海聡(うつみさとし)医師の著書。

専門医の立場からこのような本が出ることは本当に珍しいことだ。

たいてい、このような専門医は無責任体制の中に組み込まれ批判をしないのがほとんどだったからである。

保護された子どもたちが精神医の診断を受けて薬づけにされていることから内海医師の前作とも関係してくる。




本書の第5章には、「児童相談所の正体を暴く―児相をめぐる鼎談」が掲載されている。

児相被害者連絡会の松島弘さんと、その代理人である南出喜久治(みなみできくぢ)弁護士と、内科医の内海聡医師によって、この問題の根幹となるものが語られている。

以下、南出弁護士の弁を抜書きした。



親権と権利について考える


権利という言葉は、「権」は「力」を意味し、「利」は利益を意味する。

本当は、西周(にしあまね)と福沢諭吉とが論争したように権利(right)の訳においては、たとえば「通義」、義に通ずるという観点のほうが正しい気がするんです。

また、日本人のイメージとして、「道理が立たない」という言い方をしますが、この「道理」です。

人権というと、人の数だけ人権があって、人権と人権が対立したときにどう調整するかという問題が出てきますが、人の数だけ人権と正義はあるけれども、道理は一つだといえます。

つまりお互いに調整し、一致点を見出すプロセスが「道理」だと。

(中略)


義務を伴う権利なんだということを一番知らしめているのは親権だと思います。

その親権というものを基軸にして考えたとき、親に不備があって、自分だけで賄いきれなかったら、たとえば向こう三軒両隣が支えてくれる、あるいは社会が支えてくれるという公助、扶助の考え方があった。

そしてそれも無理ならば、国家が支えてくれる。

そういうふうなフラクタル(相似)な構造になっていると思うんですよ。

もしこの親権になんらかの落ち度があれば、法律的にはなんらかの一時的制限とか、それが家庭再統合する場合の暫定的措置を行政が取れる。

これは本当に道理に通った話です。


ところが今の児相の問題は、常に対立構造になります。

だから権利の概念でいくと必ず対立構造になってしまうんですよ。

親の側は「私のところに親権がある」。

それに対して、児相は「こちらには児童福祉法とか自虐法に基づいて取得している権限がある」という。

権利と権利の対立になってしまっているのが、権利意識の一番大きな問題点。


そうであれば、一時保護なんだから、子どもを速やかに平穏な家庭に戻してあげる、あるいは家庭を平穏化して戻してあげるという措置を取ることが本来の児童相談所の務めです。

にもかかわらず、隔離する、親と対決する、対立するという対立構造にもっていっているところに今の一番大きな行政の問題がある。

児童相談所の職員は、児童を拉致された被害者側の親に対して不信感を持っています

「お前が悪い、お前が虐待した。 お前が考え方を直さなきゃダメなんだ」と。

それに対する親側の「いや、私には私の教育方針がある」という言い分をすり合わせようとしないわけ。

そこに突出した権利意識がある。

(『児童相談所の怖い話』151~153頁)




体罰を受ける権利


子どもの権利条約というのがありますが、基本的に僕は子どもの権利はないと思っています。

これについては異論があるかもしれないので少し説明します。

子どもというのは、親の保護を受けてようやく全うできる存在です。

たとえば「子供には人権がある」という人たちは、全人格が完成された人を想定しています。

しかし、子どもが成人するまでの間、完全な全人格的な人権を主張できる前の期間というのがあるわけです。

そういうときでさえも権利意識ばかりが突出してしまっている。

学校に行かない権利がある。 体罰を受けない権利がある。 それから、親に反抗する権利がある。援助交際する権利がある。 自分が体を売って金儲けする権利がある。 ……皆、全部そういう意識になっています。

その権利意識の過剰さが今の子どもたちを破壊しているのではないでしょうか。

つまり親も含めて、権利という主張の前に、大人が何もできていない。

権利をあんまり強調しすぎることによって、子どもにしてみれば「あんたを親に選んで生まれて来たんじゃない」と言えるし、親も同じように「お前を選んで産んだわけじゃない」と言えてしまう。

「なぜ、血のつながりがあるということをもって扶養する義務があるのか?」と問われたらどう答えますか?

答えられないじゃないですか。

だから私の立場では、子どもの権利というものがあるのなら、子どもには体罰を受ける権利があるということになると思います。

(同上、154~155頁)





連鎖する無責任体制


責任のなすり合いの体制において連帯責任というのは、無責任のこと。

みんな責任を取らなくてもいい体制のことを連帯責任というんだから。

学校もイジメなどの問題があったときに、問題のあるやつを児相で引っ張って間引きしたいという目的で早期通報したりする。 

通報された児相側も自分のところで責任を取らなくていいように病院に放り込む。

病院は病院で薬を投与すると、これは薬の問題だから私の判断ミスじゃないというように、みんな無責任の連鎖が続いていく。

(同上、181~182頁)





この鼎談の完全版をネット上に公開しています。

本書への掲載にあたって、鼎談収録後に加筆・修正などを施しているため、動画と一致しない部分があることをお断りいたします。(本文より)



参考動画:

「児童相談所の怖い話~あなたの子供を狩りに来る1 」
公開日: 2013/01/17

http://www.youtube.com/watch?v=ioRpR_rXZyY






ここでの、南出喜久治(みなみできくぢ)弁護士の弁は私もそうだと思う。

権利を主張すると「対立構造」しか生み出さない。

これでは、道理や正義を問うているのではなく、自己主張したものが勝ちとなる。




「体罰を受ける権利」というのは少々変な言い方であるが、南出弁護士の論をみればいいたいことはわかる。

上記で「権利」について批判めいたことを書いているのだから、ここで「権利」という言い方をしなくてもよさそうなものなので、新しい言葉でも創作したらいいのにと思った。

ちなみに、自分が中学生の時、やたらビンタをくらわす物理の先生がいた。

宿題を忘れたら即ビンタ。

男女関係ない。

こんなことくらいでビンタしなくてもいいではないかと、私はその不合理なことを考えていた。

生徒から、恐れられていたにも関わらず、その先生をみんなはきらっていなかった。

生徒が総合的にその先生を評価していたに違いない。



「連鎖する無責任体制」というのは、読んだとおりである。

ここでの一番の被害者は、保護(拉致)された子どもであるのに、子どものためになっていないという体制である。

話しは違うが、このような体制下では、ここだけの問題ではない。

私の父親が入所している病院付き老人ホームでも無責任体制がおこる。

ルールにのっとた範囲では機能するが、予定外のことが起こるとたちまちとん挫する。

病院付きとはいえ当直医に専門医がいなければ他の病院に連れていかなければならないわけだが、病院を探すのも連れて行くのも私がする。

そのようになる状況を事前の協議と検査入院でわかって予想をたてて、専門外の当直医でも手当てできるようそれを見越して入所許可もおりたものの、二年たっても改善はまだされてないようだ。

細かい規則や利権が間に割り込み、行動を妨げる。


最終的に病院含めホームは共同して保身の態度を貫くので、いったい誰が責任をとって対処することになっているのか、場当たりの説明に面食らうことになる。





幕末明治以降、西洋(悪魔)思想が入ってきて西洋に追いつこうと苦心惨憺してきたと思うが、ここにきて第一線で仕事をしている専門の医師や弁護士からこのような意見がおおっぴらに出てくるようになったのは、もう行き着くところまで来てしまったからではないだろうか。

それまで、日本人はよくガマンして文化の発展に貢献してきたかもしれない。

今はまさに現実の中にファンタジーがもちこまれた状態で、無責任体制ができあがってしまったのではないだろうか。

架空現実でみんなが勝手なことを主張している。


筋を通したサムライ精神が健全ならこんなことは許さなかっただろう。

南出弁護士が言うように、西洋思想が入ってくる前の日本は、道理が通じた国だったのだ。




[ 2013年07月16日 01:28 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

「精霊の守り人」の世界観(2)

この物語の骨組みとなったものは、著者の上橋さんの経歴にもあるように、アボリジニの研究であろう。

アボリジニならびに日本人としての感性を中心に据えていると感じる。


地球原住民の世界観は、

宇宙自然界の生命力が、あらゆる命の根源であり、可視の現実世界は目に見えない世界であっても渾然一体となって存在している。

ということが、共通しているようだから。


ところが、物語では

原住民ヤクーは、新しい生活とともに伝承を忘れつつある。

この国で権力を握る外来者は、別の神を信じるゆえに、星を頼りに地上の自然界の営みのことには目もくれない。


自然界は約束通りに循環しているので、百年に一度、水の精霊が卵を産んで世代交代するという時期が訪れたのを、そして守り人に宿された卵がどうなるのかを誰もが忘れていた。


この三つの世界観が入り乱れて話は進む。


アニメを見ても、小説を読んでも感じたことは、登場人物たちがみんな生きるために命がけで闘っていることだった。


立場はそれぞれ違う。

追うものと追われるものと、

卵を宿された皇子は、無事に孵化するまで守り人となる。

それを守ることになった女用心棒と、

それらを暗殺せんがために放たれた刺客たち。

刺客たちはミカドの命で動くが、ミカドのためなら命がけである。

何でこんなことをしなくちゃいけないのか、自分の与えられた運命に愚痴をこぼさない。

サムライもこのような精神を持っていたのであろう。

皇子は11歳なので、少しは取り乱すも、自分が生き延びるための持つべき心構えを修得する。


最後に、卵の意味がわかり、両者が争う必要がなくなってからは、お互い協力して卵を狙う異世界の化け物を退治する。

とにかく、この卵を無事、海まで運ばなければ今年の夏は干ばつになってしまい、国民の被害が計り知れない。




最終的には個人の利を越えたところに、だれもが恩恵をこうむることが出来るのであった。


当然ながら、何が起きていたのかは一般の人々には知られることがないのである。




[ 2013年07月09日 16:00 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

「精霊の守り人」の世界観(1)

作者は、この小説の世界観をどこにヒントを得たのだろうか。

架空世界といっても元となるものはあるはずである。

完全な作り話は空虚感におちいってしまう。


その元となる確固たる世界観の上に、世界が構築されるというなら、現実であっても架空であっても原理は同じのはずだ。





上記のことを考えれば、「精霊の守り人」の世界観は架空の物語とはいえ、現実に根ざした世界観のうえに構築されているようだ。

物語をおってゆくうち、私たちの現実でおきている問題なり事柄を映し出していると感じるのはそのためであると考える。


少々、内容を紹介すれば、


ヤク―というその地に昔から住んでいたという原住民の世界観と外部からやってきてミカドを名乗る世界観、そして別の種族が加われば別の世界観といろいろな世界観が共存し、どれも否定していないが現実世界で実権を握っているのはこの帝(ミカド)のグループである。


私たちの現実世界もそのようなものだが、優性劣性で判断するのは、この物語で言えばミカドの世界観である。

ミカドはこの地で神を名乗るために「建国正史」を編纂する。

ミカドの背後で星読(ほしよみ)博士が政(まつりごと)の指示を出している。

ゆえに、初代皇帝が水妖を退治してこの国を救ったという「建国正史」が、ファンタジーであるということを知っているのは、ミカドと星読博士のみ。

この秘密を守るために、軍隊とミカド直属の暗殺集団を組織して不穏な動きを察知したら処分している。



その水妖の卵が第二皇子に産み付けられたことからこの物語ははじまる。

この事件はミカドにとっては国の一大事、「建国正史」が嘘であったことがばれてしまう。

皇子にすれば、退治したはずの怪物の卵を宿され、自分の課せられた運命のために父親からは命を狙われ、この卵を狙う異世界の生物から自分の命が危険に晒される。


しかし、水妖と思っていたのが、現実世界に雨をもたらす精霊の卵だった。




これだけでも、内容が複雑そうに見えるが、それぞれの立ち位置や性格、役割がはっきりしているので、常識にとらわれていなければわかりやすい。



原住民のヤク―は、水、土、火、気、木にかかわる〈大いなる力〉をもつものを、『精霊』と呼ぶ。

外来者のヨゴ人は、この世のはじまりは(天)のもっとも強い精気が集まって生れ出た巨人と考え、この巨人を祖とする現実世界の神、ミカドを中心として組織づくりをする。

異世界の水の精霊が百年に一度、現実世界に卵を産み付けるのは、自然の循環の摂理として現実世界に干渉しているからで、新しく世代の交代がなされ雨をもたらすしきたりとなっている。



大いなる力の自然の摂理の中で、原住民ヤクーの世界観を根底に別の世界観が作用している、という物語である。


[ 2013年07月06日 11:20 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

二つのファンタジー

週末はアニメを見ていた。

マンガ世代なのでアニメは嫌いじゃない。

一時期、漫画が面白くなくなって遠のいたこともあった。

たまたま、インターネットで無料視聴できるアニメ番組があって、最近の傾向をみようとのぞいてみた。

今回観たのは「精霊の守り人」。

2007年にNHK-BSで放映されたようだが、私は遅ればせながら今回初めて知った。

見はじめて、すぐ話に引き込まれた。

今までの傾向とは違うものを感じたからだ。

どうしてこのような作品が作られたのか、ちょっと知りたくなった。

捏造され、偽善のファンタジーは卑屈な精神をつくるが、強い精神の糧となるファンタジーはこうあるべきだと思ったからである。


精霊1精霊2

[左]偕成社(1996)、[右]新潮文庫(2007)

精霊の守り人
上橋菜穂子著




著者の上橋菜穂子(うえはしなほこ)さんは大学の助教授でオーストラリアの原住民アボリジニの研究をされているとある。


もともとは、児童文学で1996年に偕成社から出版されたものらしい。

平成19(2007)年に新潮文庫から大人向け表記にかえたものが出版された。

巻末に作家の恩田陸(おんだりく)氏、と翻訳家の神宮輝夫(じんぐうてるお)氏の解説が寄せられている。

私は、子どもの時から小説が苦手で、大人のいまでも読まないので失礼だが両人とも知らない。

お二人の解説から引用させていただく。


今も悩み苦しみつつ死ぬまで自分の地図を作り続ける大人たち、地図作りのつらさを知っている大人たちが面白く読める異世界ファンタジーは、冷徹(れいてつ)なまなざしを持ち、鋭く人間を観察できる力を持った真の大人―それでもなお、本当の夢見る力を持ちつづけている大人が書いたものに限る、ということである。

(中略)

永らく日本の作家や漫画家が、英米の異世界ファンタジーにあこがれ、西欧的世界を舞台にしたいと必死に勉強してゴシックロマンやヒロイックファンタジーを描こうとしてきたのに、彼らは自分たちのルーツや神話、宗教的背景といういわば地の利を放棄しているようにすら見えた。

しかし、『精霊の守り人』を読んで、それは私の考え違いだと気付く。

そういう二流、亜流の異世界ファンタジーは、世界を構築すらしていなかったのである。


(中略)

…作者は「私たちの世界」を描こうとしているし、この作品が「私たちのための」物語であると確信したのだ。

その核心は、読み進むにつれていよいよ強くなる。

新ヨゴ皇国の建国の歴史。 星読(ほしよみ)が伝える神話。 それは、勝者の残す歴史の常で、巧妙に影の部分が隠蔽されている。 本来学者であったはずの星読が、国を束ね、存続させていく過程で徐々に政治に口出しし、権力闘争に巻き込まれていくところなど、「私たちの世界」そのものではないか。


(『精霊の守り人』解説、恩田陸、新潮文庫、350~353頁)



アニメは、原作に忠実につくられたようである。

私もアニメを見てこの解説者にあるような感想を持った。

このファンタジーの中で「新ヨゴ皇国の建国の歴史」は、ミカドの権力支配を確固たるものとするための創られた歴史(ファンタジー)として登場する。





明治、大正、昭和戦前期と、日本の子ども文学は「童話」の時代でした。 第二次世界大戦後、童話は、本来の童話とリアリズムの小説と、ファンタジーに分化して発展してきました。その中で日本の子どもの文学では新しい分野であるファンタジーは、イギリスをはじめとして、ギリシャ神話、ケルト系の神話、聖書などを源泉とするヨーロッパのファンタジーに学んで生まれました。 

(中略)

そして、時が満ちるように40年ほどの時間をかけて…上橋菜穂子さんの「守り人」シリーズが生まれました。 鉄器を使う効率のよい農耕文化と自然のおきてにしたがって生きたプリミティブな文化との比較や、さまざまな文化の存在の認識を基礎とするファンタジーは、日本独自であると同時に国際的なテーマにつながると思います。

日本にも本格的なファンタジーと物語の時代が来たのではないでしょうか。


(『精霊の守り人』解説、神宮輝夫、新潮文庫、359~360頁)




日本人の感性を描けば、それはそのままファンタジーになる。

近代西洋文明が原住民の伝承に支配者側の歴史を押しつけたという痕跡は、その神話と呼ばれるものに似たような話や逸話があることから摺りこまれたものではないかと想像する。


ファンタジーにも二面性がある。

韓国の歴史がファンタジーであると、前回、指摘された面。

「一方、韓国にはもともと独自の歴史と呼べるようなものがないから、空想的・幻想的にならざるをえません。 それで、自分たちはすばらしい民族である、すばらしい国であるという幻想ドラマ、つまり“ファンタジー時代劇”をつくって国民をあげて喜んでいる。 人のいい日本人も、それにのせられて感心しているのです。」
(『歴史通』2012年、1月号、№16、宮脇淳子記、36頁)



そして、

本来、ファンタジーというものは、子どもが大人に成長するうえで欠かせない「強い精神の糧」でなくてはならない、と考えている。

いじめや困難をのりこえ、どのように問題を解決してゆくのか、自分の中の真の英雄に目覚めていく過程である。

真の英雄は自分の中にいる。

アニメを全編みた限りではこの『精霊の守り人』は充分その価値に値する作品であると感じた。



[ 2013年07月02日 01:20 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)
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Author:beetaro
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