ビー太郎サバイバル日記

武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。「正忍記」その5
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戦争が守るのは高利貸し業者(2)/ジューリ・リナ

ヘンリー・メイコウのニューズレターから
http://henrymakow.com/2013/05/all-wars-are-fought-for-usury.html


All Wars Defend Usury
戦争が守るのは高利貸し業者(2)
May 1, 2013


戦争が守るのは高利貸し業者のつづき

SPREAD OF CENTRAL BANKS:中央銀行の蔓延

オランダ(Netherlands)において、秘密結社は1609年という早い時期に中央銀行を設立することができました。 世界で最も重要な中央銀行のおよそ40行は、イングランド銀行の方針と同様に構築されました。 そうやって、フリーメーソンの銀行家は、ダミーとしての政治家と無知な賃金奴隷としての一般大衆ら、中央銀行を仲介役として貸付利子の手法を世界に持ち込み、長期にわたって進展しながら権力を行使して支配しました。

フリーメーソンの制御下にある銀行は、人に気づかれることなく行動することで政界をこのように支配することができます。 イギリス人は、三世紀もの間、税金を払い続けることで、これらの見えないフリーメーソンの力を強化させました。 中央銀行は、経済の安定に保つと思われました。 実際、それは全く異なる働きです。


フランクリン

ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin:1706~1790)は、1750年代の北アメリカ内における英国の植民地について次のように書きました。 「ここより幸せでより満足した人々は地球上どこにもない。」  彼は、これが「植民地の仮証券(colonial scrip)」と呼ばれる、「植民地内で、自分の通貨を造幣」していることに起因するとし、さらに、「我々が通貨を発行することによって、我々はその購買力を制御し、誰にも利息を支払わなくてもよい」、と説明しました。 


ニュー・イングランドという英国の植民地には、本国イングランドの貧困と惨めさにあえいでいる惨状と鋭く対照をなしている富と財がありました。 実際、無利息のありあまるお金がありました。


イングランドのフリーメーソンの銀行家たちは、英国議会でフランクリンの講演を聞いてから、議会が既存の金融システムの使用を植民地(the colonies:英国が米国に最初に建設)に禁止した、事実を確認しました。 マネーサプライは半分に減らされ、植民地はイングランド銀行からのお金を借りることを強制されました。 結果は、急こう配の利率の引き上げによる価格上昇でした。 1年以内に、道という道には失業者であふれかえりました。

アメリカの教科書では、独立戦争の勃発となった原因は、お茶税とありました。 ところが、フランクリンによると、お茶と他の問題に関して「植民地は、わずか(2パーセントの)お茶税を快く負担していたのに、イングランド銀行からお金を持ちこんだことが問題で、失業と不満を生んだのだ」、という。  英国議会による英国の銀行の影響の結果は、アメリカにおける最もひどい貧困でした。 この状況がつくられたならば、戦争に人々を引きずり込むことは簡単で、フリーメーソンが満足するところでした。 彼らは、来たるべき未来の世界的な変動に対処できる安全な基地を所望しました。

1787年の憲法を作成した政治家たちは、国際的銀行家の金融枯渇に対抗する保護をせきたてました。 したがって、憲法第1編第8項には、こうあります。 「国会(米国)は…貨幣(コイン)を鋳造し、その価値を管理する…権限を有する」


アレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton:フリーメーソン、ジョージ・ワシントン内閣の初代財務長官、更には国際的金融業者のエージェント)は、私有連邦銀行の設立と利息の導入を命じました。 彼の議論は単純でした、「国債が僅かであるなら、国にとって恩恵である」という考えは、独自通貨を発行する政府にとって危険である、と。
Alexander Hamilton


このように、アメリカ合衆国は1791年に最初の中央銀行が建ちました。 それは民有でありましたが、わずか20年間の営業申請という契約をしました。 期限を迎えたとき、それは更新されませんでした。  アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson:第7代アメリカ大統領)が言及したことは、憲法が議会に十分な量の通貨を発行する権利を与えたが、この権利を他へ移さない、という事実でした。
Andrew Jackson





WAR OF 1812:米英戦争(またはインディアン戦争)

1812


フリーメーソンであるネイサン・ロスチャイルド(1777-1836)は、イングランド銀行を通じてナポレオン時代の戦争資金を部分的に融資した人で、その後、次のような最後通告を出しました。 契約の更新か戦争か。 ジャクソンはフリーメーソンの銀行家一団を泥棒と呼んで、彼らを皆殺しにすると約束しました。 ロスチャイルドは、「横柄なアメリカ人を教育しろ。 植民地の地位に押し戻してやれ。」と、直に命令をくだしました。

英国政府はアメリカの海洋貿易を制限し始めて、カナダ国内へのアメリカの拡大を防止しました。 ジェームス・マディスン第4代米国大統領(James Madison在位:1809-1817)は、国会にイングランドとの戦争を布告させました。 ロスチャイルドの意向は、アメリカ人が財政援助を求めることを余儀なくさせるように、植民地を荒廃させることでした。 しかしながら、グレート・ブリテンは植民地を奪還できず、失うことになり、アメリカ合衆国はカナダを占領することができませんでした。

ロスチャイルドは、今回は、勝利を収められませんでした。 更新された中央銀行の契約は、彼がテネシー州のグランドマスターであったという事実にもかかわらず、アンドリュー・ジャクソン大統領の在任期間中(1829-1837)の1836年に、再び停止されました。 中央銀行は、一時的に廃止させられました。

ヨーロッパの銀行家やアメリカのエージェントさえ、アメリカの金融システムに手広く管理を行使することでなんとか動かしていました。  歴史家、グスターヴァス・マイヤーズが、その著書「History of the Great American Fortunes (大いなるアメリカの運命:1910))で認めています。 「ロスチャイルド家が、表面下からアメリカの財政法に命令を出すことで、直接的な影響がありました。 彼らがアメリカ合衆国の古い銀行を管理していた人物であったことを、法律の記録は示します」。

Gustavus MyersHistory
Gustavus Myers (1872–1942)



アメリカの歴史書には、第一および第二のアメリカの独立戦争(つまり1775-83と1812-14)における、銀行の役割について何も記述がありません。

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See also "Our Chains are Forged by Usury"




歴史家、キャロル・キグリー(Carroll Quigley :1910 – 1977:CFRメンバー、ビル・クリントンの指導者) による、彼の1975年の著書「Tragedy And Hope(悲劇と希望)」における中央銀行設立についての記述。


「金融資本主義による力は広遠な計画だった。 そして、総括して各国の政治制度と世界経済を支配することが個人の手でなされたことで、少なくとも財務統制の世界システムを作成した。 頻繁な集会と評議会でかわされる密約によって、このシステムは、世界の中央銀行と協力して行うことで、封建制度の形態で管理されることになっていた。 システムの頂点はバーゼル(スイス)の国際決済銀行(Bank For International Settlements)があたり、個人銀行は、民間会社である世界中央銀行によって所有され、支配された。  各中央銀行 ... 実業界に引き続き経済による報酬を与えることで政治家の協力を得、国家においてはある程度の経済活動に影響を及ぼし、外国為替を操作し、財務省の借金を制御管理することで、その政府を支配しようとした。」


Tragedy And Hope表紙Tragedy And Hopeウラ


【翻訳:タドン】



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[ 2013年08月09日 18:25 ] カテゴリ:ヘンリー・メイコウ | TB(0) | CM(0)

戦争が守るのは高利貸し業者/ジューリ・リナ

ヘンリー・メイコウのニューズレターから
http://henrymakow.com/2013/05/all-wars-are-fought-for-usury.html



All Wars Defend Usury
戦争が守るのは高利貸し業者
May 1, 2013

nathan rothschild

これは、ナサニエル・ロスチャイルド(1777-1836)の口から出た言葉である:
「マネーサプライ(通貨供給量)を所有する者は、人々をも所有する。(He who owns the money supply owns the people.)」


銀行は巧妙に誤魔化すことから始まった。 実際に貯蓄するより莫大な金塊の仮借用証(IOU's)を交付する方が容易いと、金庫室をもつ金塊のディーラーが気づいたときだ。 これが、通貨の起源である。 それで、彼らはマネーサプライとなった仮借用証を詐欺的に保証させて、国家に借りさせた。


人類はこれらの社会病質者(sociopaths)らによって奴隷にされた。 彼らは偽の負債と利子をかき集め、彼らの信用独占を擁護する口実として、現在、偽のテロリズムを使う。  ロックフェラーは、テロ(terror)はでっち上げであると認めた(Reflections And Warnings ―3.21分)

Reflections And Warnings - An Interview With Aaron Russo
http://www.youtube.com/watch?v=YGAaPjqdbgQ
2007年1月29日(月)のアレックス・ジョーンズ(プリズン・プラネット)によるアーロン・ルッソへのインタビュー


参考:上記の一部翻訳、日本語字幕付
「友人のロックフェラーは、911を事前に予告した」part1/part2

http://www.youtube.com/watch?v=EeWqlJHzcSo

翻訳:千早 TUP翻訳メンバー
2007/10/21公開





お金は、クーポンのような流通貨幣です。 それは固有の価値を持ちませんが、経済活力にとって不可欠なものです。 銀行家は、政治家とマスメディアを制御する会社を監督します。 彼らが「世界政府」を構築している間に、確実に偽の戦争と景気停滞で人類を消耗させ、注意をそらすようにしました。

非ユダヤ人の社員を雇用し、マネーサプライを民営化して、国家に責任をとらせることで、ユダヤ人の銀行家は成功しました。

ジューリ・リナが、イングランド銀行の起源をたどった結果、浮かび上がったのは: 「ひと家族の銀行家 ― ロスチャイルド家 ― が手引きしている経済的複合企業体(Economic Conglomerate)が融資することで、すべての大戦争は始まったのです。」



by Jyri Lina
"The Fight Against Usury"
(Excerpt from The Barnes Review, Oct 2004)



1688年11月(サソリ座の星の下で)に、ジェームズ2世(スチュアート)、カトリック教のイングランド王は、シオン修道会(the Prieure de Sion)とオレンジ秘密結社(Orange Order)の主導するアムステルダムの富豪のユダヤ人から資金の融資を受けたことで整然と侵入をゆるしたがため倒されました。

suasso
ブラハム・イスラエル・サッソ(Abraham Israel Suasso)、侵入資金を援助した


国王はフランスに追放され、1689年2月に、ナッサウ家の王子、オラニエ公・ウィリアム三世はイングランドの王座に付けられました。 これは、「名誉革命」として知られるようになりました。 公式の歴史家でさえも、国民がこのクーデターに関わっていなかったと認めています。


イングランドは、フランスとネーデルラント連邦共和国(オランダ)とのオランダ侵略戦争を経て50年後のさなかでも、ひどい状態にありました。 ウィリアム3世は、大手銀行家数人に援助を求めました。 彼らはイングランドに125万ポンドの融資を表明しましたが、75万ポンドのみ送られました。  ローンの条件は、貸手の名前は明記せず、イングランド銀行を設立する権利を保証すること、でした。  銀行の取締役は、金庫室に預けられるゴールド、1ポンドごとに10ポンド相当の債券を発行しました。 彼らもまた、国債や市民の直接課税による利息、年金の保証金を統合することを妨げなかったのです。



私有イングランド銀行は、紙幣発行権という通貨の絶対の制御下で、1694年に設立されました。 高利貸しによるお金の貸付けは、さらにより大規模に継続していました。 このように、イギリス人は膨大な借金 ( huge national debt )で苦しんだのです。 税は上がらざるをえず、価格は二倍になりました。 フリーメーソンの銀行家にとって、お金の独占発行が不可欠だったのです。 そのように、銀行家らは巨大な利益を儲けて、そのうえ政治の政策を制御することができました。



イングランド銀行は、貸手が担保にした10倍の額のお金を貸し付けても差しつかえありませんでした。 銀行が初期の担保と同一量を回収するために、5パーセントの利子を2年間うわのせするだけでした。


1698年までには、国債は125万ポンドから1600万まで増加しました。 1815年は、8億8500万ポンドでした。 そして、1945年、225億ポンドに増大しました。 1995年までに、国債は3000億ポンド以上まで膨れ上がり、GNPの45パーセントに相応しました。

マクミラン委員会(Macmillan Committee:1929年設立の金融および産業に関する委員会)でさえ、誰がイングランド銀行を支配しているのか知ることができませんでした。  ただ1つの名前だけが漏れました ― ロスチャイルド。  一つの銀行家族(Rothschilds)から発している経済複合企業によって融資され、すべての大戦は始まったのです。

(つづく)


【翻訳:タドン】

バーンズレビュー2004
(Excerpt from The Barnes Review, Oct 2004)


[ 2013年08月06日 14:45 ] カテゴリ:ヘンリー・メイコウ | TB(0) | CM(0)

攘夷(反ユダヤ)の流れ

麻生氏の「ナチス発言」にともなって、サイモン・ウィーゼンタール・センターが予想通りの反応を示した。

東京新聞も、平成25年8月3日(土曜)朝刊、26,27面で大々的に報じている。

東京新聞タイトル
「麻生氏「ナチス発言」即反応 サイモン・ウィーゼンタール・センターって」
「反ユダヤ見逃さない 問題繰り返す日本人」


麻生太郎swcロゴ
Simon Wiesenthal Center to Japanese Vice Prime Minister: Which 'Techniques' of the Nazis Can We 'Learn From'"?
July 30, 2013




新聞等の反応もあいからわずシオニスト・ユダヤを擁護する書き方をするのはしかたがないのか。

麻生太郎氏は、以下のことを踏まえての発言だったら、たいしたものである。


日本人に謝りたい
日新報道/1979年出版/初版
日新報道; 新版 (2000/01)


以下、インターネット上に公開されたもの。

日本人に謝りたい
~ あるユダヤ長老の懺悔(ざんげ) ~


──ユダヤ長老が明かす戦後病理の原像──

■■■第4章:日本国憲法はワイマール憲法の丸写し
■■日本国憲法の作者はユダヤ人である

http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe804.html








前日(8月2日)の東京新聞、朝刊第一面の「筆洗」覧では筆者による麻生氏の揶揄が書かれた。

高祖父が明治の元勲大久保利通で、祖父は吉田茂元首相。 超のつく名門一族に生まれた麻生太郎副総理兼財務相も、間違いなく、「銀の匙を加えて生まれてきた」人物だろう▼その麻生氏が、改憲の議論をめぐって、「(ナチス政権の)手口を学んだらどうか」と発言した。…云々



幕末、下級武士らによる下剋上で江戸幕府が倒され明治維新となった。
大久保利通は、薩摩藩の下級武士であった。

下級武士下級武士と差別的にいう根拠は、福沢諭吉の論による。
参考:「知られざる福沢諭吉 下級武士から成り上がった男」の品格(2)



『もともと「尊皇」と「攘夷」は全く異なる言葉である。』

と、下記のHPの著者は書いている。

参考:尊皇攘夷とは・・・
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/5921/bakumatu/sonjyou.html#TOP




そのいきさつは上記を参考にしていただいて、外国勢力の圧力が日本の体制をゆるがせた時代ということを念頭において、

その情勢の大変化は、人々の不安をあおり、これまでの体制の危機であり、
福沢諭吉のような下級武士が幕府にめしかかえられるという好転機にもめぐまれた。

反幕派は、最初「攘夷論」をとなえナショナリズムを丸出しにしたものの、外国の侵略は目に見えているし、その力もわかっている。

当時の為政者、幕府は万延元(一八六〇)年、三人の遣米使節団を派遣した。
参考:「知られざる福沢諭吉 下級武士から成り上がった男」の品格(3)

この全権一行の、アメリカにおける行動は、すべて日本式であった。 小栗は、とくにその心をくばって、外国人の目をそばだてるほどの華やかな日本服や、はかまを用いたのであったが、これは、彼に、俗物的な衒気があったためでは勿論なく、彼の志としたところは、実に日本国という二千年の祖国を重く考えて、自分は日本人であるとの威儀を示さなければならないと考えたからであってそれ以外のなにものも、その眼中にはなかったはずである。

そのときの江戸幕府から、アメリカ政府に送った国書は、国際法にもとづいたものであり、「国際法上の原則」に則り、一点の過誤のない立派なものであった。 反幕派が悪口するような卑怯な政治家は幕府にはいなかった。


(『開国の先覚者 小栗上野介』、蜷川新著、千代田書院、昭和18年、26頁)



この著者の蜷川新(1873~1959)氏は法学博士で小栗上野介の義理の甥にあたる。


「日本の武家封建の七百年の制度は、日本民族が、自ら考案し、建設した特殊の制度であった。 そしてその幕府制度の下に、七百年以来、幾多の景仰すべき人物は生れ種々の日本文化はそれらの人物の力により輝いたものである。」(同上、8,9頁)


これは、小栗氏の身内が書いたため、書き方に多少偏向があるのかとも思っていたが、最近、武士はシャーマンたるべき精神の持ち主ではないかと仮定し始めたら、素直に受け入れられるようになった。

それは、トム・ブラウン・ジュニアのグランドファーザーがきっかけなのだが、一族を率いるためには武力もさることながら、目付の正確さが要求される。

ゆえに、徳川幕府時代、スメラミコトは天皇と呼ばれなかった。

スメラミコトは日本の名家であるがために存続して尊敬もされていたのであった。


しかしながら、そのような精神力も能力もなかった下級武士が、手引きする後ろ盾がいたにしろ孝明天皇を弑逆し、自分たちの仕立てた大室寅之介を陸奥親王とすり替え、尊皇攘夷論をかかげ討幕してしまったのは、日本国も日本人も眼中にない、他を敬うこともない、威厳も品格も備わっていないものの仕業ではなかったのか。


下士はあくまで下士であり、その品格は劣り、その劣った品格は現代にまで後を引いている。

麻生太郎氏の出目はそれを物語ってる。





このようなことが起こると、

『ユダヤは日本に何をしたか』渡部悌治著、成甲書房 (2003/02)
を読み返したくなる。

この本の私家版のタイトルは「攘夷の流れ」である。

攘夷の流れ


人種、民族、国境は人為にすぎず、国際連合によって主の道を直くし、そこにユダヤの王が天降るのだということは、とりもなおさずユダヤの世界支配を意味する。

主の道を直くするためと称してユダヤは第一次の世界大戦を勃発させ、それによって国際連盟を作り、各国に主権と軍備とを認めてしまったためにそれは失敗におわってしまったのだとして第二次世界大戦を計画し勃発させ、それによって第二次の国際連盟、つまり国際連合を樹立したのである。 
(『ユダヤは日本に何をしたか』、77~78頁)


そして今回は、国際連合も破壊して、ワンワールド、国際警察のもと支配管理するように画策しているのである。

支配するのはもちろん、シオニスト・ユダヤ……

と、彼らが言っている。


[ 2013年08月05日 00:00 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

「知られざる福沢諭吉 下級武士から成り上がった男」の品格(3)

「知られざる福沢諭吉 下級武士から成り上がった男」
礫川全次著 (平凡社新書)2006年11月、初版第一刷



から内村鑑三による福沢諭吉批判。

とはいっても、内村が直接名指しすることでもなく、文章から察しが付くようだ。

著者も「憶測」と断っている。

以下引用。



内村鑑三の脱亜批判


キリスト者の内村鑑三が、明治の藩閥政治を厳しく批判していたことは、あまり知られていない。

しかし、たとえば『内村鑑三著作集』(全二一巻)の第二・三巻(時論・時評上)などに目を通した人は、藩閥政府批判の文章があまりにも多いのに驚くことだろう。

内村は一八九七年(明治三〇)の『万朝報』紙上に、「大虚偽」というエッセイを発表している。(四月二二日)。

短い文章なので、全文を引用してみよう。



余輩は思う、新日本は薩長政府の賜物(たまもの)なりというは、虚偽の最も大なる者なりと。

開国、新文明、封土奉還〔版籍奉還〕は、一として薩長人士の創意にあらず。

否、彼らは攘夷鎖港を主張せし者なり、しこうして自己の便宜と利益のために主義を変えし者なり、すなわち彼等は始めよりの変節者なり。

新文明の輸入者とは、彼らが国賊の名を負わせて斬首せし小栗上野介等の類を云うなり。

真正の開国者とは、渡辺崋山、高野長英等の族を云うなり。

封土奉還すら、木戸、大久保等の創意に出でしにあらずして、姫路の城主酒井雅楽頭〔忠邦〕の建白に基けりと伊藤博文侯は報ぜり。

薩長人士は、世界の大勢と日本国民の意向とに乗ぜしのみ、新日本は文明世界と日本国民との作なり、開港和親は、みな旧幕政府の創意なり、この点に関して、われら日本人は薩長政府に一の恩義なし。




内村は、薩長人士が、開国政策を取っていた幕府を打倒するや、その攘夷主義を捨てて開国政策に転じた変節を非難している。

内村は歴史家ではなかったが、その史眼はなかなかに鋭い。

おそらく内村は、幕府が採用した「脱亜入欧」イデオロギーが明治政府に引き継がれた事実に気づいていたのであろう。

(『知られざる福沢諭吉』、礫川全次著、212~213頁)





福沢諭吉は、蘭学の知識を買われ藩命にて故郷の中津(大分県)から幕府に出向した。一八五八年(安政五)のことである。

そこで、オランダ語が役立たないのを知り、英学へと転向する。

翌年(安政六)暮に、咸臨丸派遣のことを聞きつけ、「ツテを求めて木村摂津守喜毅に面会を求め、その従僕として随行を許可される。」(同書、237頁)とある。


遣米の話しは五年前にさかのぼり、寛永六(一八五三)年六月三日(西暦七月八日)のペリーの来航より、幕府は米国を見据えた政策を強いられ、交渉を開始した。

寛永七(一八五四)年、日米和親条約の締結。

それでも公家や孝明天皇の攘夷による反対にあいながら、「その後、大老に就任した井伊直弼(なおすけ)の決断によって、勅許を待つことなく安政五(一八五八)年、日米修好通商条約を調印しました。」(『小栗上野介 忘れられた悲劇の幕臣』、村上泰賢著、平凡社新書、2010年、26頁)

という。
続けて引用。


この条約の主な内容は、

(1)外交官の常駐
(2)神奈川、長崎、箱館、新潟、兵庫の開港
(3)領事裁判権をアメリカに認める
(4)民間の自由貿易
(5)江戸大阪の開市
(6)関税率は両国で協議する
(7)貨幣は同種同量で交換する
(8)アメリカへの片務的最恵国待遇
(9)アヘン輸入の禁止

というもので、領事裁判権で外国人の犯罪人を裁く権利が日本側にない、また関税自主権がないことなど、不平等条約という側面もありました。

また、その条約文中に「日本政府より使節を以て亜米利加華盛頓(ワシントン)府にて本書を取替すべし」という一文が盛り込まれていました。

条約批准書の交換をワシントンで行うことで、進んだアメリカの政治や社会を実地によく見聞し、日本の将来に資するところを得てきたい、という幕府側の意向が条約締結前の安政四年ごろから提示され、それを歓迎するハリスの思惑と一致して入った一文です。」(同上)



タウンゼント・ハリスは日米和親条約の締結から、下田に駐在した外交官。


以上のような経緯から、日本の幕府の正式な遣米使節三人とその従者たち一行が乗り込んだのは米国軍艦ポウハタン号で、オランダ船の咸臨丸はこのポウハタン号の護衛船という名目で随行したのであった。

名目とは別に、他に日本の海運技術の向上も目論んでいた。

咸臨丸はサンフランシスコへ寄港し日本へ帰った。

ポウハタン号は、パナマ運河を通過し目的地のワシントンに到着し無時任務を遂行した。
その後、世界一周して日本に戻った。

咸臨丸の責任者は軍艦奉行木村摂津守喜毅(きむらせっつのかみよしたけ)であって、その従者に福沢諭吉が乗り込んだ。

福沢諭吉は帰国後も幕府の外国方で翻訳を命ぜられる。

さらに、文久二(一八六二)年、文久遣欧使節(第1回遣欧使節、開市開港延期交渉使節)で、二度目の海外、ヨーロッパに渡航している。

このとき始めて香港に寄港し、最初のアジア体験から、まさにのちに出てくる脱亜入欧論の実体験をしたのであった。

しかし、福沢のそれは、

「いずれ『わが帝国』も国威を発揚し、支那人や英人を奴隷のように圧制したいものだ、否、ひとり世界中を圧制したいものだ。」(礫川氏による現代語訳、『知られざる福沢諭吉』、202頁)

というもので、

「アジアへの共感の欠如、西洋帝国主義への羨望と同化。」(同上)

だった。




福沢の脱亜入欧論は、幕末から晩年まで一貫した主張であり、それが与えた影響力は大きかった。 また、欧米に開国を迫られた日本が、攘夷の風潮を抑制しながら欧化を図ってゆくためには、これはきわめて現実的なイデオロギーであった。 特に「攘夷」を名目に幕府を打倒した維新政府には、このイデオロギーが必要不可欠であった。

脱亜があって入欧があったのではなく、入欧という既成事実があって脱亜があった。 脱亜は、入欧(欧化)によるストレスを中国や朝鮮を蔑視することで解消しようとする側面を持っていた。 このイデオロギーは、現実に明治政府の対アジア政策を規定し、人々のアジアに対する差別・偏見を助長することになった。

この影響は二一世紀の今日にまで及んでいるといってよい。 これはまさに「国家の品格」に関わる問題であると考える。(『知られざる福沢諭吉』、221頁)



礫川氏は「国家の品格」と言ったのは、ちょうど数学者の藤原正彦氏の『国家の品格』(新潮新書、2005/11)という本がベストセラーになったころ、この本を書いていたようだ。

その流行にのって、当時、私も藤原氏の講演を聴講する機会を得た。

当たり前のことを普通に言っていたような気がする。

「品格」というのは、特別変わったことでも特殊な事でもない。


万延元(一八六〇)年閏三月二十四日(西暦五月十四日)、日本から遣米使節団がワシントンに到着し、アメリカで初めて日本人を迎える群集でごった返した様子が伝わっている。



日本人の世話係として、ポウハタン号で使節一行に親しく接した乗組員のジョンストン中尉は日記『チャイナ・アンド・ジャパン』に、「あらゆる階級の人々は月世界より使者が来るとも、これほどのことはあるまじと思われるばかりの熱心を示した。……いずれも趣味ある題目として日本史節の事を口に出さぬ者とてなく、物見高き群集は町々辻々を充たした」と、そのときの様子を記しています。

最初に条約批准書の箱が下され、それを担ぐ海軍士官の後に続いて、使節一行の下船が始まりました。 正使を先頭に埠頭に足を踏み下ろし、列を作って進んでいきます。

これを見たアメリカ人は「日本人は列を作って歩ける!」と驚き、新聞でも、文明度が高い人たちと紹介されました。

従者柳川當淸(まさきよ)の『航海日記』に米国新聞が伝えたこととして、「日本人は、身長は低いが至って義心が厚く、また槍や剣術に熟達していて、剛勇な気性をもっている。 初めて外国に航海しているのに少しも恐れる様子なく街中を歩き、物を盗るようなこともなく、正直な人たちである。 今度の使節に加わっている者たちは勇猛な戦士が選ばれていて、常に二本の刀を身につけ、その刀は恐ろしいほどよく切れる」と、記しています。

(『小栗上野介 忘れられた悲劇の幕臣』、村上泰賢著、平凡社新書、2010年、67~69頁)



日本使節団 万延元年
参考:日本使節団 アメリカ派遣から150年「記念写真展」 遣米使節団に湧き立つ150年前のニューヨーク
レポート日:2010年 6月 27日

http://blog.looktour.net/13/150150


日頃の行動がモノを言うのであった。




この記事の最初に引用した内村鑑三の随筆の中で、「新文明の輸入者とは、彼らが国賊の名を負わせて斬首せし小栗上野介等の類を云うなり。」、というのは、小栗上野介が米国より帰国してから行った政策が明治時代の日本の土台となるようなまさに先見の政策だったからである。

そのようなことができたのは小栗上野介が「上士」であったからにほかならない。

明治政府の為政者たちは初代首相になった伊藤博文は「下忍」と言われていたし、政権を取った薩摩長州の「下士」達がフリーメーソンの介添えによる執政だったからではないのか。


福沢自身が著述したように「上士」と「下士」の分界が断絶に近いほどの開きがあり、「上忍」と「下忍」の分界もそのようであったろうと憶測する。

その違いは、どこにあるのか。


福沢の「脱亜入欧」のイデオロギーが江戸幕府から引き継がれた明治政府の原動力になったとはいえ、必ずしも福沢の思想のままでなく「大東亜戦争」で欧米列強からアジアを解放しようという方針がたてられたのも、軍隊の中に情勢の目付の効く「上士」が多く従軍したからではないだろうか。


[ 2013年08月02日 23:03 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

「知られざる福沢諭吉 下級武士から成り上がった男」の品格(2)

人の生まれ出た環境がその人の性格を決定するのか、それとも持って生まれた素質なのか。

「氏より育ち」ということわざもあるが、今生ではそれを出発点として人は成長進化することが要求されている気がする。




普通言われている唯物論の進化とは形態の変化であるが、人の場合、どうもそれだけの枠には収まらない別の進化が求められているようだ。


ここで取り上げた、「品格」について、私の考えを書いておくなら、

「品格」は、どことなく品があるとか、品を感じるとか、品が良いとか、使われるが、どういうものかと説明を求めれば、精神性が高いものからおのずと自然に醸し出されるように、しぐさに、言葉づかいに、作品に現れるものと考える。

どういうものが品格があるとは、その人間の考えと態度や行動が一体となったものとして在るのをいうので、身分で決まるものではないが、概して上級の名家は精神の素養を養うべき環境や習慣が整っている。


下級武士と言えども武士である福沢諭吉をなぜ著者は、「成り上がり」とみたのか?

この「成り上がり」というのは侮蔑の意味も含まれていると思うからである。


この本では福沢諭吉の出目を取り上げる。

以下、同書より引用。

…本章では、幕末明治の啓蒙家・福沢諭吉の意識、言動、品格を、「下士」という出目に注目しながら検証する。 その際、筆者が重要な手がかりとしたのは、旧幕時代の「下士」の生活について、福沢自身が回想した記録、『旧藩情』である。

中略

福沢の説くところによれば、旧中津藩奥平藩士は、「上(かみ)大臣より下(しも)帯刀の者と唱えるものに至るまで」、その数およそ一五〇〇名で、その身分役名は、精密に分ければ「百余級」に達する。 

ただしこれらは、「儒者、医者、小姓組より大臣」にいたる上士と、「祐筆、中小姓
(ちゅうごしょう:旧厩格)、供小姓、小役人格より足軽帯刀の者」にいたる下士の二つに大別できるという。

数の割合でいうと、上士はおよそ下士の三分の一である。


中略

この「下士」は歴史家などから下級武士と呼ばれることもあるが、それはのちのことである。

ともかく福沢は、この「下士」=下級武士の出身であった。

では福沢は
(福沢家は)、下士のうちで、具体的にどのような位置に属していたのだろうか。

「福沢諭吉年譜」によれば、諭吉の出生時
(一八三五)に、父・百助は中小姓格、一三石二人扶持、廻米方(かいまいがた)として大阪に在勤していた(諭吉も大阪生まれ)

すなわち旧幕時代の福沢家は「下士」階級の上位に属していたのである。


中略

福沢が『旧藩情』で記述したのは、豊前中津の藩士が、かつてどのような生活をしていたか、ということであった。

とりわけ、福沢が特筆し詳述したのは、同藩の藩士に上士・下士という二大階層があり、この両者の間には、生活や意識の点でハッキリとした断絶が存在していたという事実であった。


(『知られざる福沢諭吉』、礫川全次著、46~54頁)




「福沢は、『旧藩情』の中で、上士と下士のとの「分界」」を六項目に分けて具体的に紹介したとして、著者はかいつまんで書きだしている。


興味深いので引用する。


(1)権利を異にす

上士と下士の間には大きな分界があり、したがって下士から上士に昇進する事例はきわめて稀であるという(二五〇年間に三、五例のみ)。 ただし上士内部における昇進、下士内部における昇進は珍しくない。 また百姓が中間(ちゅうげん)を経て下士に昇進することも珍しくない。 あくまで上士と下士の間の断絶が大きいのである。 中略


(2)骨肉の縁を異にす

上士と下士とが縁組することはない。 これは藩法の上でも、風俗においても許されなかったという。 藩士の家族間で不倫事件が生じるところがあったが、これらの事件も、上士内部、下士内部で生じるものであり、上下士の男女が通じる例はきわめて稀だったという。 中略


(3)貧富を異にす

上士は一般的には正味二、三十石以上の家禄を得ており、衣食に差しつかえなく、子弟にも相当の教育を施すことができる。 しかし下士は正味七、八石から十数石のものが多く、生活は苦しかった。 したがって下士は、手細工、紡績等の内職を行なう場合が多かった。


(4)教育を異にす

上士は文武の芸を学ぶ余裕がある。経史を読み兵書を講じ、騎馬槍剣の術に通じる。 品行もおのずから高尚となる。 一方下士は、内職のかたわらに若干の武芸に勉めるのみである。 ただし下士は「算筆」の技芸において、上士を上回る。 この技芸は、下士の家産、栄誉の向上に寄与するところがあったために、下士の家庭は、その方面の教育に関しては熱心だった。


(5)理財活計の趣を異にす

「理財」という語は、近年はあまり使われないが、「財貨を有効に運用すること」の意味である。 「活計」は生活の計の意味だが、ここでは家計という意味で使われているようだ。 下士は、内職の収入で麦を買い、粟を買う。 粥や団子も食う。 また下士の婦人は、一五〇匁の綿を一反の木綿に織り上げ、これを三〇〇匁の綿に替えて、という形で家計を助けている。 こういう理財の道は、上士のあずかり知る所ではなかった。


(6)風俗を異にす

『旧藩情』全体の中で精彩を放っているのが、この部分の記述である。 当時の武士のメンタリティが、あるいは上士と下士におけるメンタリティの違いが、非常にわかりやすく描かれている。 この違いを一言でいえば、上士は誇り高く、体面を気にするが、下士は誇りや体面にさほど縛られていなかったということであろう(だからこそ、内職に励むことも出来たのだと思われる)。

(『知られざる福沢諭吉』、51~53頁)



という具合にである。

そして、著者は締めくくる。

「福沢が武士は武士でも、『下士』の出身であったことは、その人格の形成上、きわめて重要なことがらだったと考える。」(同書、54頁)

「だからこそ彼は、封建制を批判することもできたし、西洋の新しい精神に共感することもできたのであろう。」(同書、56頁)




著者は福沢自身が書き残した書物から、このように分かりやすく要約して分析されている。

これらの要素が、のちに批判につながってゆく。

福沢自身が臆面もないことまで自伝に書き残しているのは、『下士』出身だったからなのか。

なるほど、福沢は武士というイメージとはかけ離れているのはこういうわけだったのか。

時は、幕末、尊皇攘夷の末期。

明治時代に政権をとった為政者によって江戸時代幕府の治世はことごとく批判の対象となった。

この時代の「上士」とはいかなる存在だったのか別の資料をさぐってみることにした。





[ 2013年08月01日 01:50 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)
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