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武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。「正忍記」その5
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「知られざる福沢諭吉 下級武士から成り上がった男」の品格(2)

人の生まれ出た環境がその人の性格を決定するのか、それとも持って生まれた素質なのか。

「氏より育ち」ということわざもあるが、今生ではそれを出発点として人は成長進化することが要求されている気がする。




普通言われている唯物論の進化とは形態の変化であるが、人の場合、どうもそれだけの枠には収まらない別の進化が求められているようだ。


ここで取り上げた、「品格」について、私の考えを書いておくなら、

「品格」は、どことなく品があるとか、品を感じるとか、品が良いとか、使われるが、どういうものかと説明を求めれば、精神性が高いものからおのずと自然に醸し出されるように、しぐさに、言葉づかいに、作品に現れるものと考える。

どういうものが品格があるとは、その人間の考えと態度や行動が一体となったものとして在るのをいうので、身分で決まるものではないが、概して上級の名家は精神の素養を養うべき環境や習慣が整っている。


下級武士と言えども武士である福沢諭吉をなぜ著者は、「成り上がり」とみたのか?

この「成り上がり」というのは侮蔑の意味も含まれていると思うからである。


この本では福沢諭吉の出目を取り上げる。

以下、同書より引用。

…本章では、幕末明治の啓蒙家・福沢諭吉の意識、言動、品格を、「下士」という出目に注目しながら検証する。 その際、筆者が重要な手がかりとしたのは、旧幕時代の「下士」の生活について、福沢自身が回想した記録、『旧藩情』である。

中略

福沢の説くところによれば、旧中津藩奥平藩士は、「上(かみ)大臣より下(しも)帯刀の者と唱えるものに至るまで」、その数およそ一五〇〇名で、その身分役名は、精密に分ければ「百余級」に達する。 

ただしこれらは、「儒者、医者、小姓組より大臣」にいたる上士と、「祐筆、中小姓
(ちゅうごしょう:旧厩格)、供小姓、小役人格より足軽帯刀の者」にいたる下士の二つに大別できるという。

数の割合でいうと、上士はおよそ下士の三分の一である。


中略

この「下士」は歴史家などから下級武士と呼ばれることもあるが、それはのちのことである。

ともかく福沢は、この「下士」=下級武士の出身であった。

では福沢は
(福沢家は)、下士のうちで、具体的にどのような位置に属していたのだろうか。

「福沢諭吉年譜」によれば、諭吉の出生時
(一八三五)に、父・百助は中小姓格、一三石二人扶持、廻米方(かいまいがた)として大阪に在勤していた(諭吉も大阪生まれ)

すなわち旧幕時代の福沢家は「下士」階級の上位に属していたのである。


中略

福沢が『旧藩情』で記述したのは、豊前中津の藩士が、かつてどのような生活をしていたか、ということであった。

とりわけ、福沢が特筆し詳述したのは、同藩の藩士に上士・下士という二大階層があり、この両者の間には、生活や意識の点でハッキリとした断絶が存在していたという事実であった。


(『知られざる福沢諭吉』、礫川全次著、46~54頁)




「福沢は、『旧藩情』の中で、上士と下士のとの「分界」」を六項目に分けて具体的に紹介したとして、著者はかいつまんで書きだしている。


興味深いので引用する。


(1)権利を異にす

上士と下士の間には大きな分界があり、したがって下士から上士に昇進する事例はきわめて稀であるという(二五〇年間に三、五例のみ)。 ただし上士内部における昇進、下士内部における昇進は珍しくない。 また百姓が中間(ちゅうげん)を経て下士に昇進することも珍しくない。 あくまで上士と下士の間の断絶が大きいのである。 中略


(2)骨肉の縁を異にす

上士と下士とが縁組することはない。 これは藩法の上でも、風俗においても許されなかったという。 藩士の家族間で不倫事件が生じるところがあったが、これらの事件も、上士内部、下士内部で生じるものであり、上下士の男女が通じる例はきわめて稀だったという。 中略


(3)貧富を異にす

上士は一般的には正味二、三十石以上の家禄を得ており、衣食に差しつかえなく、子弟にも相当の教育を施すことができる。 しかし下士は正味七、八石から十数石のものが多く、生活は苦しかった。 したがって下士は、手細工、紡績等の内職を行なう場合が多かった。


(4)教育を異にす

上士は文武の芸を学ぶ余裕がある。経史を読み兵書を講じ、騎馬槍剣の術に通じる。 品行もおのずから高尚となる。 一方下士は、内職のかたわらに若干の武芸に勉めるのみである。 ただし下士は「算筆」の技芸において、上士を上回る。 この技芸は、下士の家産、栄誉の向上に寄与するところがあったために、下士の家庭は、その方面の教育に関しては熱心だった。


(5)理財活計の趣を異にす

「理財」という語は、近年はあまり使われないが、「財貨を有効に運用すること」の意味である。 「活計」は生活の計の意味だが、ここでは家計という意味で使われているようだ。 下士は、内職の収入で麦を買い、粟を買う。 粥や団子も食う。 また下士の婦人は、一五〇匁の綿を一反の木綿に織り上げ、これを三〇〇匁の綿に替えて、という形で家計を助けている。 こういう理財の道は、上士のあずかり知る所ではなかった。


(6)風俗を異にす

『旧藩情』全体の中で精彩を放っているのが、この部分の記述である。 当時の武士のメンタリティが、あるいは上士と下士におけるメンタリティの違いが、非常にわかりやすく描かれている。 この違いを一言でいえば、上士は誇り高く、体面を気にするが、下士は誇りや体面にさほど縛られていなかったということであろう(だからこそ、内職に励むことも出来たのだと思われる)。

(『知られざる福沢諭吉』、51~53頁)



という具合にである。

そして、著者は締めくくる。

「福沢が武士は武士でも、『下士』の出身であったことは、その人格の形成上、きわめて重要なことがらだったと考える。」(同書、54頁)

「だからこそ彼は、封建制を批判することもできたし、西洋の新しい精神に共感することもできたのであろう。」(同書、56頁)




著者は福沢自身が書き残した書物から、このように分かりやすく要約して分析されている。

これらの要素が、のちに批判につながってゆく。

福沢自身が臆面もないことまで自伝に書き残しているのは、『下士』出身だったからなのか。

なるほど、福沢は武士というイメージとはかけ離れているのはこういうわけだったのか。

時は、幕末、尊皇攘夷の末期。

明治時代に政権をとった為政者によって江戸時代幕府の治世はことごとく批判の対象となった。

この時代の「上士」とはいかなる存在だったのか別の資料をさぐってみることにした。





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[ 2013年08月01日 01:50 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)
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