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武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。「正忍記」その5
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「知られざる福沢諭吉 下級武士から成り上がった男」の品格(3)

「知られざる福沢諭吉 下級武士から成り上がった男」
礫川全次著 (平凡社新書)2006年11月、初版第一刷



から内村鑑三による福沢諭吉批判。

とはいっても、内村が直接名指しすることでもなく、文章から察しが付くようだ。

著者も「憶測」と断っている。

以下引用。



内村鑑三の脱亜批判


キリスト者の内村鑑三が、明治の藩閥政治を厳しく批判していたことは、あまり知られていない。

しかし、たとえば『内村鑑三著作集』(全二一巻)の第二・三巻(時論・時評上)などに目を通した人は、藩閥政府批判の文章があまりにも多いのに驚くことだろう。

内村は一八九七年(明治三〇)の『万朝報』紙上に、「大虚偽」というエッセイを発表している。(四月二二日)。

短い文章なので、全文を引用してみよう。



余輩は思う、新日本は薩長政府の賜物(たまもの)なりというは、虚偽の最も大なる者なりと。

開国、新文明、封土奉還〔版籍奉還〕は、一として薩長人士の創意にあらず。

否、彼らは攘夷鎖港を主張せし者なり、しこうして自己の便宜と利益のために主義を変えし者なり、すなわち彼等は始めよりの変節者なり。

新文明の輸入者とは、彼らが国賊の名を負わせて斬首せし小栗上野介等の類を云うなり。

真正の開国者とは、渡辺崋山、高野長英等の族を云うなり。

封土奉還すら、木戸、大久保等の創意に出でしにあらずして、姫路の城主酒井雅楽頭〔忠邦〕の建白に基けりと伊藤博文侯は報ぜり。

薩長人士は、世界の大勢と日本国民の意向とに乗ぜしのみ、新日本は文明世界と日本国民との作なり、開港和親は、みな旧幕政府の創意なり、この点に関して、われら日本人は薩長政府に一の恩義なし。




内村は、薩長人士が、開国政策を取っていた幕府を打倒するや、その攘夷主義を捨てて開国政策に転じた変節を非難している。

内村は歴史家ではなかったが、その史眼はなかなかに鋭い。

おそらく内村は、幕府が採用した「脱亜入欧」イデオロギーが明治政府に引き継がれた事実に気づいていたのであろう。

(『知られざる福沢諭吉』、礫川全次著、212~213頁)





福沢諭吉は、蘭学の知識を買われ藩命にて故郷の中津(大分県)から幕府に出向した。一八五八年(安政五)のことである。

そこで、オランダ語が役立たないのを知り、英学へと転向する。

翌年(安政六)暮に、咸臨丸派遣のことを聞きつけ、「ツテを求めて木村摂津守喜毅に面会を求め、その従僕として随行を許可される。」(同書、237頁)とある。


遣米の話しは五年前にさかのぼり、寛永六(一八五三)年六月三日(西暦七月八日)のペリーの来航より、幕府は米国を見据えた政策を強いられ、交渉を開始した。

寛永七(一八五四)年、日米和親条約の締結。

それでも公家や孝明天皇の攘夷による反対にあいながら、「その後、大老に就任した井伊直弼(なおすけ)の決断によって、勅許を待つことなく安政五(一八五八)年、日米修好通商条約を調印しました。」(『小栗上野介 忘れられた悲劇の幕臣』、村上泰賢著、平凡社新書、2010年、26頁)

という。
続けて引用。


この条約の主な内容は、

(1)外交官の常駐
(2)神奈川、長崎、箱館、新潟、兵庫の開港
(3)領事裁判権をアメリカに認める
(4)民間の自由貿易
(5)江戸大阪の開市
(6)関税率は両国で協議する
(7)貨幣は同種同量で交換する
(8)アメリカへの片務的最恵国待遇
(9)アヘン輸入の禁止

というもので、領事裁判権で外国人の犯罪人を裁く権利が日本側にない、また関税自主権がないことなど、不平等条約という側面もありました。

また、その条約文中に「日本政府より使節を以て亜米利加華盛頓(ワシントン)府にて本書を取替すべし」という一文が盛り込まれていました。

条約批准書の交換をワシントンで行うことで、進んだアメリカの政治や社会を実地によく見聞し、日本の将来に資するところを得てきたい、という幕府側の意向が条約締結前の安政四年ごろから提示され、それを歓迎するハリスの思惑と一致して入った一文です。」(同上)



タウンゼント・ハリスは日米和親条約の締結から、下田に駐在した外交官。


以上のような経緯から、日本の幕府の正式な遣米使節三人とその従者たち一行が乗り込んだのは米国軍艦ポウハタン号で、オランダ船の咸臨丸はこのポウハタン号の護衛船という名目で随行したのであった。

名目とは別に、他に日本の海運技術の向上も目論んでいた。

咸臨丸はサンフランシスコへ寄港し日本へ帰った。

ポウハタン号は、パナマ運河を通過し目的地のワシントンに到着し無時任務を遂行した。
その後、世界一周して日本に戻った。

咸臨丸の責任者は軍艦奉行木村摂津守喜毅(きむらせっつのかみよしたけ)であって、その従者に福沢諭吉が乗り込んだ。

福沢諭吉は帰国後も幕府の外国方で翻訳を命ぜられる。

さらに、文久二(一八六二)年、文久遣欧使節(第1回遣欧使節、開市開港延期交渉使節)で、二度目の海外、ヨーロッパに渡航している。

このとき始めて香港に寄港し、最初のアジア体験から、まさにのちに出てくる脱亜入欧論の実体験をしたのであった。

しかし、福沢のそれは、

「いずれ『わが帝国』も国威を発揚し、支那人や英人を奴隷のように圧制したいものだ、否、ひとり世界中を圧制したいものだ。」(礫川氏による現代語訳、『知られざる福沢諭吉』、202頁)

というもので、

「アジアへの共感の欠如、西洋帝国主義への羨望と同化。」(同上)

だった。




福沢の脱亜入欧論は、幕末から晩年まで一貫した主張であり、それが与えた影響力は大きかった。 また、欧米に開国を迫られた日本が、攘夷の風潮を抑制しながら欧化を図ってゆくためには、これはきわめて現実的なイデオロギーであった。 特に「攘夷」を名目に幕府を打倒した維新政府には、このイデオロギーが必要不可欠であった。

脱亜があって入欧があったのではなく、入欧という既成事実があって脱亜があった。 脱亜は、入欧(欧化)によるストレスを中国や朝鮮を蔑視することで解消しようとする側面を持っていた。 このイデオロギーは、現実に明治政府の対アジア政策を規定し、人々のアジアに対する差別・偏見を助長することになった。

この影響は二一世紀の今日にまで及んでいるといってよい。 これはまさに「国家の品格」に関わる問題であると考える。(『知られざる福沢諭吉』、221頁)



礫川氏は「国家の品格」と言ったのは、ちょうど数学者の藤原正彦氏の『国家の品格』(新潮新書、2005/11)という本がベストセラーになったころ、この本を書いていたようだ。

その流行にのって、当時、私も藤原氏の講演を聴講する機会を得た。

当たり前のことを普通に言っていたような気がする。

「品格」というのは、特別変わったことでも特殊な事でもない。


万延元(一八六〇)年閏三月二十四日(西暦五月十四日)、日本から遣米使節団がワシントンに到着し、アメリカで初めて日本人を迎える群集でごった返した様子が伝わっている。



日本人の世話係として、ポウハタン号で使節一行に親しく接した乗組員のジョンストン中尉は日記『チャイナ・アンド・ジャパン』に、「あらゆる階級の人々は月世界より使者が来るとも、これほどのことはあるまじと思われるばかりの熱心を示した。……いずれも趣味ある題目として日本史節の事を口に出さぬ者とてなく、物見高き群集は町々辻々を充たした」と、そのときの様子を記しています。

最初に条約批准書の箱が下され、それを担ぐ海軍士官の後に続いて、使節一行の下船が始まりました。 正使を先頭に埠頭に足を踏み下ろし、列を作って進んでいきます。

これを見たアメリカ人は「日本人は列を作って歩ける!」と驚き、新聞でも、文明度が高い人たちと紹介されました。

従者柳川當淸(まさきよ)の『航海日記』に米国新聞が伝えたこととして、「日本人は、身長は低いが至って義心が厚く、また槍や剣術に熟達していて、剛勇な気性をもっている。 初めて外国に航海しているのに少しも恐れる様子なく街中を歩き、物を盗るようなこともなく、正直な人たちである。 今度の使節に加わっている者たちは勇猛な戦士が選ばれていて、常に二本の刀を身につけ、その刀は恐ろしいほどよく切れる」と、記しています。

(『小栗上野介 忘れられた悲劇の幕臣』、村上泰賢著、平凡社新書、2010年、67~69頁)



日本使節団 万延元年
参考:日本使節団 アメリカ派遣から150年「記念写真展」 遣米使節団に湧き立つ150年前のニューヨーク
レポート日:2010年 6月 27日

http://blog.looktour.net/13/150150


日頃の行動がモノを言うのであった。




この記事の最初に引用した内村鑑三の随筆の中で、「新文明の輸入者とは、彼らが国賊の名を負わせて斬首せし小栗上野介等の類を云うなり。」、というのは、小栗上野介が米国より帰国してから行った政策が明治時代の日本の土台となるようなまさに先見の政策だったからである。

そのようなことができたのは小栗上野介が「上士」であったからにほかならない。

明治政府の為政者たちは初代首相になった伊藤博文は「下忍」と言われていたし、政権を取った薩摩長州の「下士」達がフリーメーソンの介添えによる執政だったからではないのか。


福沢自身が著述したように「上士」と「下士」の分界が断絶に近いほどの開きがあり、「上忍」と「下忍」の分界もそのようであったろうと憶測する。

その違いは、どこにあるのか。


福沢の「脱亜入欧」のイデオロギーが江戸幕府から引き継がれた明治政府の原動力になったとはいえ、必ずしも福沢の思想のままでなく「大東亜戦争」で欧米列強からアジアを解放しようという方針がたてられたのも、軍隊の中に情勢の目付の効く「上士」が多く従軍したからではないだろうか。


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[ 2013年08月02日 23:03 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)
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