ビー太郎サバイバル日記

武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。「正忍記」その5
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忍者少年の仙人入門(3)

忍者については、

下忍による政権乗っ取りや、ニセ忍者の霊感商法まがいの詐欺行為が横行したりと、忍者にまつわる話題は秘密めいたところが多く悪事と結び付けられてきた経緯がある。 漫画の忍者はヒーロー扱いで、仕える主によって正義になったり悪になったり中間的な存在で実際どうだったのかよく知らなかったことに気がついた。

アパッチ族のシャーマン、グランドファーザーの話やその技を読んでいるうち、もしかしたら、私は武士とか忍者とか、普通出回っている固定観念から脱却できずにいたのだ。



忍者少年が来年高校卒業を控えていたころ、弟子入りした甲賀忍者の師匠が亡くなった。
兄弟子の忍者犬は、主の死を悼んで絶食し後を追うようにこの世を去った。

そうこの本には書いてある。

そういうこともあって、心おきなく中国拳法の修行に打ち込むことになった。





「仙人入門」
程聖龍著


から引用する。

もともと忍術の修行では「気」で「気」を隠す、つまり自分で自分の気配を抑える訓練をしていたし、なにより内家拳は「気」と「勁(けい)」とを二大支柱とする拳法である。 仙人の練丹(気)法には少なからぬ興味を覚えていたし、内家拳の理論的支柱である仙術がどのようなものであるかを知りたい気持ちも元よりあった。

仙術は山岳修行の一種でもあるため、仙人が住むという山に登るには麓から延々と自分の足で登る以外にない。

(116頁)





内家拳の修行も終わり、いよいよ仙人が住むという山へ案内してもらうことになった。

その山は「最後の修行」をする山で、修行者たちが険しい山を集団をなして登ってゆく。

修行のための山なので、ハイキングコースのように整備されているわけではない。

山頂に到着する前に足を滑らせ「最後の修行」になる人もいる。


無事山頂まで到着したら、寺で一晩休憩し翌朝絶壁の縁に座るのだ。

ここは相当高い山なので座って読経しているうちに凍死する。

「最後の修行」を終えると同時に人生も終える。


忍者少年は「最後の修行」に来たわけではないので、ここで仙人を待ちながら寺の仕事を手伝うことになった。

毎朝毎朝、凍死した体の背中を押して崖の上から下に落として葬る作業である。


滞在予定の一カ月が近付いて、もう仙人には会えないと思ったとき……





そんな単調な日々にも、やがて終わりが近づいて来た。

山麓に迎えの人が来る日があと十日ばかりに迫って来ていた。 僧侶にも寺男にも「仙人などいない」ときっぱり否定されたことだし、ちょうど潮時かもしれない。 少し早いが、もう山を下りようか―などと考えていた頃のことだ。

その夜も、私は登ってくる人を出迎えるために外で待っていた。

寺の前の岩場に出て、右手の下にある登山道から登ってくる修行者を待ち受ける。 いつものように套路(とうろ)をやりながらそれを待っているときに、背後の寺の横にある道が、妙に気になってきた。


物音がしたわけでも、何かが見えたわけでもないのだが、どういうわけだか気持ちがそちらに引きつけられる。

その道を上に登って行くと、西に向いた断崖絶壁の上の岩畳に出る。 修行者が最後の修行を行なう場所である。

(中略)

道は修行場の奥からさらに上に延びて、やがて小さな岩の上に突き当たる。 私はその道の奥を覗きこんだ。

すると、そこに、ぼうっと白い人影が浮かび上がっているのが見えた。

幽霊だ――と、咄嗟(とっさ)に思った。

(中略)

ただ、修行者の霊にしては様子がおかしかった。 着ている服も今まで見たものとは違うし、第一あんな長い白髭を見たのは初めてだった。 髷を結った髪といい、手に持った杖といい、あれはまるで幽霊というより仙人だ。

私はまじまじとその姿を見つめた。 確かに普通の幽霊と少し様子が違う。

その人の姿だけではなく、まわり全体が淡く発光している。 周囲は真っ暗闇なのに、どうしてそこだけ光っているのだろう。 光る空間の境目は闇に溶けこみ、白っぽい姿の向こう側には星空が透けて見えている。 肉体はあるのだが、存在自体がなんだか薄いのだ。

幻灯だろうか? 影絵のように、誰かが私を驚かそうと幻灯を映し出しているのかもしれない。 風が吹いているのに、髪も服も動かないのがその証拠ではないか。

じっとその光を見つめているうちに、私はおかしなことに気がついた。

姿が次第に大きくなっていくようだ。 じっと見ていると、時々、ふわりと光が大きくなる。 不思議に思った私は、少しそちらに近づいてみた。 しかし、光の大きさは変わらない。 やはり大きくなったのは気のせいなのか――と思った瞬間、またもやふわりと大きくなった。

やがて、その「幻灯」は呆気に取られている私の目の前に立った。

その姿はまさに仙人そのものだ。 ただし、風貌が変わっていた。 何と言えばいいのだろう、まるで髑髏(どくろ)にそのまま目を嵌(は)め込んだように見えるのだ。 それとも、やはりこれは私を迎えに来た幽霊なのだろうか?



ぽかんとその姿を眺めていると、その幻灯は手にした杖を持ち上げて、私の肩にそっと触れた。 その瞬間、凍える寸前だった身体がパーッと温かくなった。 ガチガチに固まっていた身体があっと言う間に楽になる。


やはり死ぬのだろうか? そんな思いが頭を過(よぎ)る。 凍死寸前で、今まで感じたこともないくらい身体が楽になって――つまり危ない状態になって――ついでに幻覚を見ているのかもしれない。 けれどこちらを覗きこむ彼の瞳を見た瞬間、途轍もない安堵感が胸に満ちてきた。

(中略)

ああ、これでいいのだ――そんな思いが突然湧き上がった。 この人が仙人であろうと、幽霊であろうとかまわない。 こんな目をした人なら、もう、何があってもそれでいい。 すべてを受け入れよう。

そう思ったとき、仙人めいたその人が杖を差し出してきた。

「ついて来い」

(『仙人入門』、135~138頁)




著者は仙人との出会いの場面をこのように書いている。



仙人とは人間の身体を持たないが、必要に応じて姿を見せてくれるスピリットのようなものだろうか。

仙人が自分で名のったわけでもなさそうだが、仙人と断定できたのは、その出で立ちからだろうか。

仙人とはこのような格好をしているというのが昔からあって、実際会うことのない私たちはその姿をイメージする。

そのイメージが形をつくる…ということか。

最初にみた髑髏に目玉がついたような風貌がそのままだったのか、最初のみだったのかどうか何の説明もないが、そのようなことは真意がわかればたいしたことではないのかもしれない。■



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[ 2013年01月29日 14:38 ] カテゴリ:忍者少年の仙人入門 | TB(0) | CM(0)
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