ビー太郎サバイバル日記

武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。「正忍記」その5
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忍者少年の仙人入門(6)仙術修行2

仙術修行といっても組手をするのではなかった。

なかには、カイジの高層綱渡りよろしく、谷底から吹き上げる強風の中を岩棚の祭壇に線香を立ててくることを申しつけられた。


「仙人入門」
程聖龍著


から引用する。



手のなかには火の点いた線香がある。 これが消えるまでに祭壇上に上げて、戻って来なくてはならない―その思いすらも消えるまで。

やがてすべてが見えてきた。 自分を取り巻く空間の全体が。

ここに山があり、ここに岩棚があり、風が吹き上げ、自分が座っている。

その全体のなかで、自分が何かをやろうとする―たとえば、線香を上げようとする。

すると、そのことに意識が囚われる。 囚われた瞬間、全体は見えなくなる。 すると、線香を上げることはできなくなる。 つまりは、そういうことなのだ。

(中略)

私が進めなかったのはただ「風が強い」からだけではなかった。 風の強さへの恐れを含めて、あのとき、私は様々な思いに囚われていた。 その思いに深く囚われている間、私は「全体」が見えていなかった。

けれど風がゆるやかになったとき、すべての囚われが消えた。 あるいは、すべての囚われが消えたとき、私は、風がゆるやかになっているのに気づくことができた。

そして私は、立ち上がって歩きだし、線香を上げた。

(『仙人入門』、154~155頁)





もうひとつ岩棚での修行は、タイガーマスクの虎の穴の修行よろしく、逆さ吊りの修行だった。

足を持つのは仙人ではなく高齢者ぞろいの仙術修行者達であった。

前回と今回とのちがいは、線香を上げるという「自分で何かをする余地」があったのに対し、今回は「他社に委ね」なければならない。

でもタイガーマスクと違うのは、悪役レスラー養成ではなかった点はもとより、これもまた、他者がどう感じようと、自分はこうだった、という認識を持つことでいいのだろうと思う。

逆さ吊りにされ下を見た時、著者は見えないはずの山の麓の豆粒のような小さな人間をはっきり見てしまった…という。




なぜ見えたのだろう? このとき、見えるはずのないもの、見えるとは思わなかったものが見えたのは、いったいなぜだったのだろう?

仙術修行で経験した、こうした「ものの見え方」は内家拳の「ものの見え方」に通底していた。

内家拳では「天」で相手を見る練習をする。 天とは「天地人」のひとつであり、地と人とを含んだ宇宙全体の有り様をそのままにとらえようとする眼差しだ。 立禅を行なうときの意識もこの天である。

内家拳は套路(とうろ)や実戦で動くとき、常にこの「天」の意識と眼差しを維持しようと努める。 つまり、自分の体を動かしつつも世界のなかに己を置き、何かひとつのものに注目せずに、すべてを抱合した全体を見る訓練を積み重ねていく。

(『仙人入門』、161頁)



異論はない。 

不祥事や事件が多いのはとかく、自己中心に陥って周りが見えていない場合に生ずる。

武術や武道がスポーツになって悪役レスラー養成修行みたく技や力のみ重視していたら、当然の結果をまねくであろう。

人混みで他人にぶつからず歩けるかどうかも、惨事の中平静を保っていられるのもそうでないのも、こういうところに関係があるようだ。


仙術では、他にも呼吸法を習った。

仙術の呼吸法では、最初に腹式呼吸、次に逆腹式呼吸を行なう。 逆腹式呼吸というのは普通の腹式呼吸とは反対に、横隔膜を引き上げ、胸郭を膨らませて息を吸い、呼吸とともに中丹田に溜まった「気」の塊をゆっくりと下丹田におさめ、、それから息を吐いていく方法である。

「気」というと神秘的で不思議なものという感じがするが、これは、べつに特殊なことをしているわけではない。 「気は意によって導かれる」と言われるとおり、気功とは、、「自分の体を意識でコントロールすること」であり、それゆえに思ったところに気を導けるのである。

こうして養った気を小周天や大周天と呼ばれる身体のなかに巡らせていくことが仙術の呼吸法の主眼であるが、じつは内家拳にもこれとまったく同じものがある。 

気の存在やコントロールは忍術のなかでも知っていたし、内家拳の練習でも仙術の呼吸法に対応する身体の動きは学んでいた。 たとえば小周天は内家拳で行う呼吸法そのものであるし、套路で行う型は身体の動きがそpのまま大周天になっている。 あらゆる武術の伝説的始祖である張三豊が同時に仙人でもあることを考えれば、これは当然と言ってよい。

(中略)


こうして仙術の世界が内家拳と通底するものであることを知り、生と死の近さと重みとに己の身体で触れ、私は武術の世界へと戻っていった。 彼のもとで私が見出したものは、それからの自分の人生を深いところで支える核となった。

(『仙人入門』、163~164頁)


張三豊
参考:
太極拳の祖師 張三豊 (ちょう さんぽう:1247年生まれ)
【大紀元日本1月1日】 (07/01/01 08:00)

http://www.epochtimes.jp/jp/2006/12/html/d66297.html


法輪功の創始者李洪志氏は、あらゆる中国の老師から一子相伝の秘伝をほどこされて、一般人のための功法五つを選び広めている。

その修錬者のひとりに、呼吸はどのようにするのかと尋ねた時、自由で良いとの返事があった。

また、法輪功をするなら、法輪功のみで修錬しなければならないことも約束事である。

他の修錬方法は目的が違うので混ぜては良くないということだった。

分かるような分からないような…。


『仙人入門』の著者が最初に「意識が囚われる」ことを書いている。

法輪功でも「意識が囚われる」ことを誡めていた気がする。

自分がやろうとすることにいちいち理由をつけるようではまだ「意識が囚われる」状態かもしれない。

「意識が囚われる」のがなくなれば、自分のやることが定まった時なのだろう。

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[ 2013年02月04日 06:38 ] カテゴリ:忍者少年の仙人入門 | TB(0) | CM(0)
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