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武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。「正忍記」その5
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正忍記 序の解説


〈武道選書〉
忍術伝書 正忍記


藤一水子正武著
中島篤巳解読・解説
新人物往来社 
平成八年八月二十日初版発行



前回は解説者[中島]による、「はじめに」を抜粋した。
この本のだいたいの位置づけがかわった。

中島篤巳(なかしまあつみ)略歴

1944年山口県生まれ。

大阪大学卒・医学博士

伯蓍流柔術宗家、古流武術範士八段 空手道教士六段師範 天心古流挙法免許 天心古流捕手術皆伝 浅山一伝流体術免許 神伝不動流体術皆伝 不遷流柔術免許 その他

平成八年(1996)現在。[本書奥付]


と、何て読むのかわからない流派が並ぶ。
その他、スポーツ医。日本山岳会会員でもあるらしい。

『正忍伝』の構成は、

現代語に直したところは以下のように三つに分けている、

読み下し文
注釈文
解説文



本書の後半は原本(国会図書館蔵)の写しが挿入されている。


本文の四部構成は、大雑把に分けると次のようになる。

正忍記 序 (歴史、種類、生活の心得)
正忍記 初巻(技術編)
正忍記 中巻(心理・周辺環境編)
正忍記 下巻(心に関する奥義)


ここでは、中島氏の解説文を抜きだし序と下巻から引用して、実際の忍者の性格や考え方をおさえておくのが目的である。




『正忍記』
名取三十郎正澄/藤一水正武(ふじのいっすいまさたけ)丈夫著
巻頭言 勝田何救斎養真
延宝九年(一六八一)



以下、中島篤巳氏による解読・解説。



【正忍記 序の解説】


正忍記序には巻頭言から當流正忍記伝法の条件までが含まれる。 まずは巻頭言である。

「藤一水正武(ふじのいっすいまさたけ)丈夫が忍兵の書を丁寧に書き上げたが、その術策たるや隠怪であり、これをもってすればどんなに優れた人物でも術中におとし込むこと自由自在、まさに隠形夜来の仙術のようである。 私はこの書の序文を請われたが、忍兵の術を知らない素人で無才である。 固く辞退したが結局許されなく、やむを得ず一言だけ蛇足をつけさせて頂いた次第である。

延宝九年(1681)初秋三日
紀州藩士 勝田何救斎養真

これを書く」



とあるように、正忍記は藤一水正武によって書かれたものであり、紀州藩士である勝田何救斎養真が巻頭言を添えている。

正忍記、万川集海(藤林保義)、忍秘伝(服部半蔵)は俗に忍術の三大秘伝書と言われているが、巻頭言を第三者に託して書籍らしく体裁を整えているのは正忍記だけである。

この勝田何救斎養真が如何なる人物であるかは、文章力や用字法からしてかなり教養のある和歌山藩士で、かつ巻頭言を依頼されるほど高い地位にあったと考えられるが、残念ながら詳細は不明である。

その教養の武士は「忍びの術は策謀の指針であり、軍師にとっては軍略の鍵である。 進退利害に関することだから、武士たる者は決してこの術をないがしろにしてはならない」

と、忍術は忍びだけでなく武士も心得ておくべきであると強調している。

「しかしそれは困難の極致にあり、また仮に警護の者に尋問されても、些(いささ)かも動じることなく明々朗々とし申開くことが出来るほどの精鋭でなければ諜報謀略は出来ない。 人選を間違えると、敵に兵を貸したり盗人に食料を与えるようなもので、かえって有害である。 忍びは人選に気を付けて訓練をしなければならない」

と忍びに力量、人間性などで最高の人物を当てるべきであるといい、また忍びの使い方を誤った時の危険性の注意をうながしている。 余談であるが、史料の「冠に兵を籍す」の出典は『史記』の「李斯(りし)伝」であり、「兵」とは武器という意味である。

なお呉子の「用間」の項には、「三軍の事、交わりは間より親なるはなく、賞は間より厚きはなく、事は間より密なるはなし」と、

間者には決して裏切られないように手厚くしてやらなければならない旨が記されている。


正忍記巻頭言は「それ忍兵の術たるやその来ることひさし」と始まっているが、この節だけを読み込んでみると次のようになる。 すなわち『忍術」の語源は「忍兵の術」に由来し、「来ることひさし」と歴史も古く大陸伝来のものであるということを示唆している。

確かに忍びについての記録は古く、最古のものは日本書記(巻二十二、推古)である。 それには「九年九月戌子、新羅の間諜者“迦摩多(かまた)”対馬に到る。 すなわち捕えて云々」と記されており、勝田何救斎養真の教養の高さからすれば日本書記程度の書は読んでいたはずである。 巻頭言の「来ることひさし」とはこの史実を意味するのではないだろうか。

これは西暦六〇一年の出来事で、その背景には大和朝廷の任那(みまな)復興政策が関与している。

すなわち推古八年(600)には境部臣(さかいべのおみ)を大将軍として朝鮮半島に出兵し、新羅軍を撃破した。 翌年には来目皇子(くめのみこ:聖徳太子の同母の弟)を撃新羅将軍とした二万五千もの軍隊が組織されるなど当時は新羅と大和とは臨戦体制にあり、新羅の間諜が日本に潜入したということは充分納得できる。

内政的には聖徳太子と蘇我氏との抗争があり、太子が斑鳩(いかるが)の里から飛鳥の動きを伺うべく使った忍びが伊賀の間者で大伴細人(おおともさびと)といわれている。

太子は彼を志能便(しのび)と呼んだという。

日本書記の孝徳天皇紀には斥候を「ウカミ」と訓じており、類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう)には間諜を「ウカミス、伺見」とある。

さらに時代を下り、天武天皇は大和の多胡弥(たこや)という忍びを使ったということも知られているところである(「釈日本紀(巻十五、述義)」)。


(『正忍記 序の解説』、中島篤巳解読・解説、16~18頁)
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[ 2013年02月15日 10:39 ] カテゴリ:正忍記 | TB(0) | CM(0)
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