ビー太郎サバイバル日記

武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。「正忍記」その5
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正忍記 その3 當流正忍記の解説


先の序において忍術の由来を書いている。

推古八年(600)、新羅と大和とは臨戦体制にあり、新羅の間諜者を捉えた、という記録が残っているという。

間諜は、大陸由来の言い方でスパイみたいなものである。

推古八年とは、隋に遣隋使が送られた年である。
朝鮮半島のシラギでは任那との戦争が始まり大和はそれに加勢した年である。


新羅と大和との関係は、「暴かれた古代史」をベースに参照して仮説を立てる。
インターネットではakazukinのブログのカテゴリー「飛騨高天原」のなかに少々まとめた。


私が忍者に興味を持ったのは、紀元前、飛騨山脈の山から寒冷化によって国府を大和に遷都した飛騨族が、大和政権をシラギ出身の豪族に握られ、その周りに飛騨から移住した人々が居住していた、とこの本に書いているからである。

そして、出雲シラギ神崇拝者の追手から天皇の印である「八咫鏡」をトヨスキイリ姫が持ち出して逃れ、倭姫に引き継がれ現在の伊勢に落ち着くまでの道筋にこの伊賀と甲賀の領内が含まれている。





滋賀県の琵琶湖のほとり「お多賀さん」と呼ばれる多賀大社がある。

飛騨から大和へ降りてくるさいの途中にヒルメムチ(天照)の先祖であるイザナギ・イザナミを祀ってある。

尾張名古屋にはサルタヒコを祀る熱田神宮がある。

サルタヒコも古い飛騨族の先祖である。

これらの勢力圏があれば、倭姫は逃げおおせたのであろうと考える。


倭姫

倭姫命世記
http://www.yamatohime.jp/html/page_c.html


当時は忍者とは言わないだろうが、敵対勢力に太刀打ちできるような兵(つわもの)が揃っていたのではないかと思えてきた。

それでは、なぜ大和政権を攻撃し、政権を奪いかえさなかったのだろう。

天皇が人質だったのか、うまく融和されていたのか、わからない。



「八咫鏡」が何故三種の神器で天皇の印なのか、融和していたなら倭姫がそれを持って逃げたというのは何故なのか、融和していなかったとしたらどのような待遇だったのか、わからないことだらけである。

この時はまだ「天皇」という呼称もなかったようだ。

大陸文化と混ざり合って神器を作ったのか、または、インディアンのシャーマンのように修行を終え資格を持つものに授けられたものなのかどうか。

どこにも記述がないのでわからない。

それとも何か、先住民の人間がひそめなければならない時代の流れが存在したのか。




〈武道選書〉
忍術伝書 正忍記


藤一水子正武著
中島篤巳解読・解説
新人物往来社 
平成八年八月二十日初版発行






以下、中島篤巳氏による解読・解説。


【當流正忍記の解説】


「日本の忍びは古くからあるが、その名前を知ることが出来るのは、源義経が勇士を選んで忍びとして使った」とある。

この勇士とは「伊勢三郎義盛(いせのさぶろうよしもり)」とその一党であろう。

彼は伊賀国伊那古村才良(ざいりょう)で生まれ、焼石小六と名乗っていた鈴鹿の山賊であった。 義経と主従関係を結び、忍歌「よしもり百首」として知られた存在である。

その歌は「万川集海」にも多くが引用されている。

義経自身も陰陽師鬼一法眼に剣や兵法を伝授された京八流忍術の祖ともいわれている。

義経流に関しては「義経流忍術伝書」「当流忍衆覚書語之抄」「忍大意」などがあり、その基本は山伏兵法でゲリラ戦を得意とした。


正忍記に続いて「建武(けんむ)に至りて楠正成等数度これを遣(つか)う」と記している。

ここでは鎌倉時代末から建武中興、南北朝騒乱の時代に公権力に抗して諸国で暴れまわった中世の「悪党」の存在に注目しなければならない。

著者は「組織化された日本的な忍びの母体は中世の悪党である」と考えている。詳しくは拙著「忍術秘伝の書」(角川選書)を参考にしていただければ幸いである。




引用者注

建武中興(けんむのちゅうこう)
醍醐天皇(ごだいごてんのう)が鎌倉幕府(かまくらばくふ)をたおし,天皇(てんのう)中心に行った政治(せいじ)。

あくとう【悪党】

歴史的には鎌倉後期から南北朝期にかけて,秩序ある体制を固めようとする支配者によって,夜討,強盗,山賊,海賊などの悪行を理由に,禁圧の対象とされた武装集団をさす。《峯相(みねあい)記》によると,悪党はそのころ山伏や非人の服装であった柿色の帷子(かたびら)を着て,笠を被り,面を覆い,飛礫(つぶて),撮棒(さいぼう),走木(はしりぎ)など,特有の武器を駆使して,博奕や盗みをこととし,荘園などの紛争がおこると,賄賂をとって一方に荷担しつつ,状況によっては平然と寝返るなど,奔放な活動を展開した。
http://kotobank.jp/word/%E6%82%AA%E5%85%9A




楠正成は伊賀忍びを使っていたとされており、ここで黒田の悪党を考えなければならない。

それは強大な地侍連合体として東大寺支配に反抗し、主流が北伊賀の服部氏と南伊賀から河内にかけての大江氏である。

服部氏は平安初期から台頭し、平家側に付いて栄え、その頃には既に忍家として知られていたという。

服部家は少彦名命(すくなひこなのみこと)と金山媛(かなやまひめ)の二神を祖神とし、それが貞元二年(九七七)に伊賀一の宮である敢国(あえくに)神社に合祀されたということは、早くから服部は伊賀全域を席巻するほどの勢力に成長していたことになる。

大江氏は河内の豪族で、平安期の文学博士である大江匡衡(おおえのまさひら)を祖としている。

その子の匡房(まさふさ)は有名な漢学・兵法学者であり、また鎌倉幕府の政所別当の大江広元(おおえのひろもと)も突出した存在である。

忍術の服部と兵法の大江とが、この伊賀の地で結びついたらどうなるかは想像に難くない。

なお源平時代に活躍したのは服部家長であるが、それと同時代にこの地で大きな勢力を持っていたのが百地氏である。

鎌倉末期は文永・弘安の役で幕府の経済状態は最悪となり徳政令が発せられたほどである。 

それに追い打ちをかけるようにして後醍醐天皇は討幕の旗揚げをしたが、元弘の変に敗れて笠置(かさぎ)山に逃れた。

笠置山は山城国の南端にあり大和国に接し、足下の木津川と伊賀街道を抑えて京都と奈良・河内への動脈を掌握し、情報の流れの要である。

(後醍醐)天皇の笠置山逃落に呼応して楠正成が挙兵したことは諸家の知るところである。



楠正成が始めて史料に登場するのは「臨川寺領目録」(天龍寺文書)の正慶元年(一三三二)六月の記録の「悪党楠兵衛尉」という記載である。

それは臨川寺に施入された和泉国若松荘に悪党楠正成が兵糧米調達のための略奪を行なった時のことであるが、その頃には既に伊賀者を配下に置いていたようである。

面白いのは、南北朝騒乱期に山賊という忍者集団の原形が(正統)権力と結び付くことによって、「正義」となったわけで、ここで組織立った新しい忍群の方向付けがおこなわれたことになる。

正成は山に籠もって忍者的ゲリラ戦を展開して幕府軍を幾度となく撃破し、その過程が忍術の体系化に大きく貢献したことは想像に難くない。

楠氏の勢力範囲は摂津、河内、和泉であり、その系統は伊賀と関係が深い。 久保文武氏は伊賀上野の上嶋家本「観世系図」の観阿弥清次に付された「母河内国玉櫛庄橘入道正遠女」という記載に注目し、楠氏と伊賀との関係を明らかにした。


玉櫛庄(たまくしのしょう)は楠氏の庄(「荘園」に同じ)であり和泉、河内、摂津の中央に位置した奈良街道の要衝である。 

また橘入道正遠は楠正成の父にあたり、正遠女は「服部」姓をつぐ伊賀浅宇田荘の治郎左衛門元成のもとに嫁ぎ、観阿弥清次を生んだという。

これは楠氏と伊賀との関係、さらに忍びと猿楽芸能民との関係の深さを示唆する事実であるという。


正忍記は「北条氏康が風麻(ふうま)という盗人に知行を与えて各地を探らせ、甲州の信玄はスッパ(従者・透波)という盗人を使った」とある。

風麻(ふうま)とは風魔小太郎であり、相模国足柄下群風間(かざま)に生まれた、風間という地名から風魔を名乗り、その名を世襲したという。 

ラッパ(乱波)は関東で使われた言葉で、この小田原北条氏の風魔は北条ラッパである。


また「その後、伊賀の甲賀というところの住民に忍びの術が伝わった」と記されている。

著者蔵の稲葉丹後守道久が盗写したというもう一つの正忍記にも「伊賀の甲賀」とあるが、歴史のなかで甲賀が伊賀に属していたということはなく、正忍記の著者である藤一水正武の地理的誤解と考えられる。

忍びに地理的誤解は致命傷ともいえることで、これは藤一水子は伊賀や甲賀とは何ら関係ないということであり、正忍記と伊賀流忍術の関係の希薄さを意味するものである。

ただし、この二つが接する所は忍びの世界では非常に重要な地域であり、事実、互いに交流や相互扶助の掟があったという。

「彼らは一群一味の約束をしている。 忍びとして各国で雇われていても、彼らは固い神文を交わして散っており、お互いが助け合うようにしなければならない。 すなわちもし自分が探索に行ったら、彼はその国の秘密を教え、逆に彼が来たら自国の秘密を教えてやる。 しかし子孫の代になると相手が分からなくなるが、この場合は家にある証拠の松明が目印で、これを示されたら決して疑ってはならない」

とあり、これは常識ではついて行けない忍びの哲学でもある。

もっとも、密約は使用者側も知るところとなり、忍びは重要機密事項を教えられなかったという。

この項は忍びの生き様の凄まじさを感じるところで、忍びと主君との主従関係より忍び同士の関係を重要視し、お互いが秘密を教え合わなければならないという。

ただし上に立つ者は全面的に忍びを信頼してはいなかったようで、極秘事項は味方の忍びには決して教えなかったのも事実である。

古く孫子の「用間」にさえも、、「聖智にあらざれば間を使うこと能わず」とある。

正忍記は「今世の中に忍びの流儀が流れているが、これらはみな盗人の家伝であり、当流こそ忍びの正道である」と結んでいる。

このことは、忍びの多くが盗み盗賊の類であり、またこれが忍びの原点であったということも示唆しており、結局、「当流正忍記」こそ正しい道であると主張せざるを得なくなったのであろう。

「斬取(きりとり)強盗武士の習い」とはいえ、このような正義を主張する記載は万川集海、忍秘伝などを始めとする多くの伝書に見られるパターンで、忍びに悪行をさせないことの難しさが伺えるところでもある。

(『當流正忍記の解説』22~25頁)



『正忍記』
名取三十郎正澄/藤一水正武(ふじのいっすいまさたけ)丈夫著
巻頭言 勝田何救斎養真
延宝九年(一六八一)

解読・解説 中島篤巳
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[ 2013年02月21日 14:40 ] カテゴリ:正忍記 | TB(0) | CM(0)
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