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武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。「正忍記」その5
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震災のおきみやげ/佐々木和子さん


震災のおきみやげ


311の震災は死に対して厳粛にさせられました。

命について語ればどうしても死が浮き上がります。

死を意識するのが現代だと思います。




そんな語りで始められた佐々木和子さんの講演会が2月16日開催された。

佐々木和子さんは、2011年7月「放射能とは何か」を書かれ出版しakazukinのブログで昨年一月に紹介した

紹介したといっても、自分が感じたことを書いているので本人の意図するものとずれているかもしれないし、引用したものは直接本をあたって確かめてもらいたい。


自分で感じたまま、それでいいと思っている。

佐々木さんが言うには、この本は、福島の事件があったあとに急いで出版したので訂正したいことがいろいろあって、何か言われることを覚悟していたが、思っていたほど反響が無いので少々拍子抜けしたそうだ。

この本にあるような内容を思いめぐらす人はいるのかいないのか…

私は、何でも物事の本質というものはなんだろうと思う。

放射能についてそのような見方をする文献は一般書にはほとんどないのだろう。

放射能とは何か



私も、この生死の問題は昨年来とくに強く意識するようになった。

佐々木和子さんの言葉を借りながら講演会で語られたことを自分なりに紹介したい。





この世に誕生して、生きて、死んでいくわけですが、この誕生から死までの時間空間のみ見ていて、この先を見通せないでいるのが現代だといいます。

物質文明というのは物質の壁に囲まれた状態でその先の周りが見えないといえるでしょう。



ガレキのことば


「ガレキのことばで語れ」

ここに、照井良平先生が自費出版された詩集の本があります。

陸前高田市に住まわれていて、震災被害にあったわけです。


そこで彼が見たものはガレキの山となった故郷だったわけです。

まさしくガレキ文化の山です。


そこで何が起きたかというと、

自分たちが築き上げた文化がガレキの山になってしまったのを鏡にして自分を見ているわけです。

本来の姿も、役にも立たなくなって機能しなくなったガレキ文化です。

ガレキ文化で死んでいるものに取り囲まれて私を意識するわけです。


これを専門的に言うと「自己意識的対象意識」とでもいうのでしょうか、

外から眺めている自分がいるわけです。

別に体外離脱したわけではありません。

そのような現実を目の当たりにして、ガレキ文化は唯物論であると悟るわけです。


生命を物理や科学で証明しようとします。

物理や科学ではどうしても推論にならざるをえませんが、それでも仮説を立てるわけです。

感情を入れずにまわりに関心を払います。

それは、私でありながら私から出て行くことで、しかも、明晰な思考を通して想像することです。

そうして、見えてくるのは物と物をつなぐ力であり、見えないけれど何かが活動しているという、その質を見きわめるのです。


そうすると「自己意識的全体意識」で見るようになります。


ガレキに映し出した自分とは、

ガレキを通してまわりの活動を感じる自分は「自己意識的全体意識」になると言います。






意識の流れ。


①「生死の問題」


②死んだモノに取り囲まれて「私を意識する」


③明晰な思考でもって「私でありながら私から出て行く」


④「自己意識的全体意識」で詩がうまれる。




私は、縄文日本人の「一体意識」、アメリカ・インディアンの「ワンネス」、道[タオ]の「いま=中庸」みたいなことを思い浮かべた。

生きていることは周りを意識するし、配慮する。


佐々木さんはここで、

被災された方々はガレキや、その状況を「鏡」にして自分を見ておられた…というような表現を使っていた。

「鏡」にはそのような意味も含まれていたのか。

「鏡」については次回書きたいと思っている。


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[ 2013年03月01日 06:48 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)
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