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武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。「正忍記」その5
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正忍記 その5/一流の次第の解説

〈武道選書〉
忍術伝書 正忍記


藤一水子正武著
中島篤巳解読・解説
新人物往来社 
平成八年八月二十日初版発行





以下、中島篤巳氏による解読・解説。


正忍記一流の次第の解説




ここで正忍記は忍びの生活体験の厳しさや術理について切々と説いている。


「忍術修行は困難の極みにあり努力するしかない。 忍びの仕事となると誰もが死を覚悟して家を出、もし無事に帰ることが出来たら不思議な程である。 忍びという字は刃の下に心という字を置いているように、我が心を殺し、無我の境地で忍ばなければならない。 忍びは不安なものである。

忍術は魔法じみた奇怪な術であると思われがちであるが、そうではなく理論的であり、まやかしではない。 忍びは心を実にして見かけは虚を装おい、またその反対の場合もある。 さらに敵の心の“虚実”も正確にとらえて術を仕掛けるのでうまくゆく。 これだから神業のように思われるのだろう。 忍び上手は時や理に応じて、常に弁舌が巧である」


(中略)


「未知の国のことや見たことがないことでも、あたかもそこに居たかのように話し、会ったこともない人を、さも自分の友であるかのように語る。 金がなくても物を買い、食事もどこかで手に入れ、酒を飲まなくても酔狂する。 芸という芸は一応学び出家山伏、山姥などに変装する。 夜になると忍び出て、宿には泊まらず野宿して、鹿の声に驚いて隠れたり、月の光が明る過ぎればそれを恨めしく思って居心地悪い森の木陰に身を潜める。 このような悲しさや辛さは誰にも話すことも出来ない。

世間で忍びが奇怪に思われるのは、こんな行動にあるのだろう。 忍びの苦労を知らない巷の人が問うなら、そうであると答えておけばよい。 それも忍びの策謀である。 忍びの不実は虚であり、真は実である。

忍びはただ一つ、本懐を遂げるだけが目的である。 道を踏み外したり、疑義に心を眩ましたりして、当流の術理を失ってはならない。 目的を遂げることがすべてであり、迷いを払って術理を守り抜かねばならない」


伊賀流忍術伝書「万川集海」の忍者問答の項では孫子の用間について「間とは間隙のことであり、敵の隙間に入り込んで諜報する」といった内容の説明がなされる。


また「虚実」の概念は忍術の根本原理である「機を見て虚を突く」の「機」を作るための手法である。

すなわち忍術は相手が実を持って仕向けて来た時にはこれを避け、自分の虚(実際には実)をもって相手を虚(隙)にし、その瞬間に自分の実(全力)を相手にぶち当てるという方法である。

忍びの世界観は物事を絶対的とはみずに、すべからく物事は相対的・流動的であるとする。

その流れすなわち「変」を的確に読んで「機」をとらえる。

自己、敵、主従関係、社会情勢など彼らの活動する空間は常に変化する。

利害を読み、力を読む。

虚と実の宇宙は大きく広がる。

忍びにとって、隙、自己の大局的損失など不利益は虚であり、利、力などは実である。

忍びは常に広義の実を選択する。


実すなわち充実した「実動力」の移動があれば、その反対側に「虚の部分」が生じる。

その時は相手が自分よりも絶対に弱くなければならない。

虚を突いても相手が自分よりも強ければ、それは単なる無謀ということを忍びは知っている。

目的のためには焦らない。

武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。

しかし火花を散らして戦うのではなく、密かに仕掛けて最後まで相手に負けを覚らせないのが理想である。


(『正忍記』39~40頁)



『正忍記』
名取三十郎正澄/藤一水正武(ふじのいっすいまさたけ)丈夫著
巻頭言 勝田何救斎養真
延宝九年(一六八一)

解読・解説 中島篤巳
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[ 2013年03月11日 12:32 ] カテゴリ:正忍記 | TB(0) | CM(0)
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