ビー太郎サバイバル日記

武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。「正忍記」その5
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悟りの武術、ルールの武道

武道の世界から並々ならぬ気迫が迫ってくるのだが、どうもこの世界とは性に合わない。

魅力を感じつつも近寄れない。

だから、何か始めようとした時、弓道を選んだのかもしれない。

型を覚えたら興味がなくなって自然と遠のいた。

思い立って30年以上ぶりに弓を引いてみたのだが、型をしっかり体で覚えていた。

そして当時、聞いた話を思い出した。


「柔道の有段者は弓を引けない」

筋肉のつき方が違うということだった。


柔道で鍛えると筋肉は肩や背中の方が発達し、反りかえるような弓道とは逆なのだという説明だ。


私が疑問に思っていたことは、昔の武士たちは柔術も、剣術も、弓術にも長けていたはずだ。


ひとつを極めたら他のことが出来なくなることはどうしてなのか?


その疑問がとけた。


スポーツ武道に変わったためだ。



大東流合気二刀剣
曽川和翁著、愛隆堂、平成9年



現在、嘉納治五郎を柔道の神様として崇拝する人は決して少なくない。

この崇拝の中心根拠は武道家にして教育者であるということが、その根拠であろう。

これは嘉納治五郎自体が、学閥最高峰の東大を卒業した知識階級の人であったことや、学習院を初めとする名門学校の教育者としての地位と功績が持て囃されているからではある。

嘉納は武術の実践者というより、合理主義者であり、頭脳明晰で先見の明(めい)のあった近代希に見る経営学者であった。

そして大ていの武道評論家なり、註釈者なりは、嘉納の計算高い策士たる所以を迂闊にも見逃し、本当の武術家として批評し、言わなければならないことの根本を言い落している。


恐らく嘉納が目指していたものは、連綿と続いて来た日本武術という様なものではなかった。

策士であったが、上級武士が武士道精神に則って、戦略を巡らし戦術構想を練るというものではなかった。

ここが西郷四郎との間に深い溝をつくった原因でもあると謂われている。


※引用者注:西郷四郎は姿三四郎のモデル。



嘉納の目指す柔道は競技化し、スポーツ化した世界に向けての国際柔道であり、その構想路線は日本的なものから欧米的なものへの移行であった。

その組織拡大政策も欧米商人のそれであり、これによって柔道は欧米人に受け入れられ、瞬く間に世界的普及を成し遂げたのである。

目指すものは一国の国技という枠を超えて、国際化の美名の許(もと)に、日本武道及び日本的精神の崩壊を目指したものでもあった。

この点が福沢諭吉の「脱亜入欧主義」に極めて似通っている。


日本的な伝統及び精神を悪しき風習として、打ち砕くべく発端を切り開いたのは、ペリーの砲艦外交にはじまっている。

やがて明治維新を経て、森有礼(もりありのり)や福沢諭吉らによって創立した、明六社(明治六年に創立)の盛会によって、華々しい開花を見た。

これが彼等が豪語して憚(はばか)らなかった「文明化」即ち「脱亜入欧政策」であった。

中略


日本風土を徹底的に批判し、日本的なものに罵声のかぎりを浴びせかけることが、福沢諭吉の『学問ノススメ』からも窺(うかが)えるように、当時の社会風潮の流行の先端が、神仏と旧武士階級を扱(こ)き下ろす「文明開化」であった。

新興武道・柔道も、この流行に乗った観がある。

講道館柔道は、天神真楊流や起倒流等の柔術の名称を時代遅れのものと決め付け、《術》を《道》に摺(す)り替えて、《柔道》と体裁よく言い繕(つくろ)っているが、その正体は「人の道」とは全く関係ない、欧米を模倣した国際化の「欧米の道」であった。

国際化とは実は、「欧米人の、欧米人の為の、欧米人による、スポーツ柔道」であったのだ。

これはとりも直さず、白人国家主導型の運営で柔道を世界に普及させつつ、その裏で武士道精神を腐らせ、武道のスポーツ化を推進して、日本的なものを日本人から一切奪ってしまうことを意味していた。

(『大東流合気二刀剣』、 曽川和翁著、愛隆堂、平成9年、プロローグ、62~64頁)




次に紹介するのは、父親の蔵書であって昭和26年刊である。

一般大衆のひとりである父親は今でも自慢するくらい、柔道をちょっことかじったとしてもそれを誇りに思っているようだ。

捨てるに捨てられず置いておいたものだが、この機に頁を開いてみた。



徳川時代にあれ程盛んであった柔術も明治維新後の社会の変化により、一時は全く衰え世間に捨てヽかえりみられなくなった。

その中にあって明治十二三年頃嘉納先生はこれを学び、その護身術として、体育スポーツとして甚だすぐれていると共に心身の力を最も有効に使用する道(精神善用)としてその原理は世間の全ての事柄に通ずる事を悟り、以前の柔術諸流の長所を採り、これに工夫を凝し、修行の順序、方法を定めこれを柔道と名付けられた。

(中略)

以上のように国内で発展した柔道はやがて海外にも進出し、世界の人々にその名を知られ親しまれるようになった。 

即ち国際オリンピック委員であった嘉納先生や門下の人々が外国に渡って柔道を紹介し、普及に努力して成果をあげ、世界柔道連盟の結成も今一歩という所まで普及発展にいたったのである。

(『図解 柔道』、曾田彦一著、柏書院、昭和26年、3頁)



この後、大東亜大戦の機運が高まり、戦前の東京オリンピックはかなえられなかったのであった。

大東亜戦争は「文明開化」後の日本人の抵抗であったのか。

海外移民事業や満州開拓団事業も帝国大学の知識人エリートが中心となって進められ国際化の波に乗せられた経過とだぶらせて見ていると、現代のTPP問題も時代は変わっても同じ流れに代わりはない。



忍者や武士の生き方を、蓑内宗一著「ツボと日本人」や「正忍記」から照らしてゆくと、スポーツ武道とは明らかに違うことに気付く。

日々鍛錬して自然と精神力を養う武術と、道(精力善用)を唱えながら「気合いだ、根性だ」といっているスポーツでは、筋肉を鍛えて精神が養えず不祥事をおこすのは当然のことだった。





嘉納は武術家というより経済学者であり、また彼の国際化を図る柔道は、企業経営者のそれであった。

そこに柔道の大衆化があった。

講道館柔道は純粋に武術を修行する人達の願いとは裏腹に、分厚い柔道人口に支えられながら、国際化の先兵となるのである。

(『大東流合気二刀剣』、67~68頁)





「分厚い○○人口に支えられながら、国際化の先兵…」


どこでも先端を行く支持者は出てくるものだ。

何をしているのか知らずに。



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[ 2013年04月11日 20:15 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)
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