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武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。「正忍記」その5
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悟りの武術、ルールの武道 その2

「何をしているのか知らずに。」

というのは自分も含めてのことだ。

だから日本語には謙遜という態度の表明がある。

程度、種類は別として、それぞれ日々の鍛練をおこたらず、機転に対応できるよう自分を磨く。

これは他人が替わってやってもらえることではない。

他力本願を嫌うのはこのためである。

自分に能力がなく他力が必要な時は素直に頼めばいいことだ。

それは、上下関係ではなく伴(とも)の形態だ。


状態が常に動けばその綾を読み取って行動することが必要とされる。

武士や忍者の行動則はそれに対応するよう習練されてきた。
まさに「神人一体」をめざしたかのようだ。



利害関係が絡めばまた別の話になってややこしくなる。


ヒトに何もわからなくさせる力が働いて、「神人一体」から「神」と「人」を分けさせた。

何度も断るが「神=GOD」ではない。

そして、宗教は「神」を拝む対象として祭り上げた。



「嘉納治五郎を柔道の神様として崇拝する」というのは、別に嘉納治五郎が「神=GOD」ではないが、そのように権威付けすることで絶対的地位を堅守しその門下生以下すべてが信者となって、これに反する行動を監視する体制ができるということではないのか。


個人を「神」として祀る場合、企業であっても、芸事の流派であっても創始者ということである。

創始者が宇宙原理に通じていようが通じていまいが、それは関係ない。

最初に誰がやったのかが大事なのであって、ナントカスタイルの発端である。





蓑内宗一氏の「ツボと日本人」から「講道館柔道」の記述があったので引用する。



古来から武芸十八般と言い、剣、柔、弓、馬、槍……等等、十八種類の武芸がある。

そのなかで柔術ほど、東洋医学と関係の深いものはないだろう。

仁徳二八~昭和三〇年(紀元一〇〇〇~二六〇六)までの柔術の流派は約七二四流であり、現存している四十余流のうち、私が知っている二十数流を見ても、いずれも陰陽五行説、経絡学説と不可分にある。

もっとも、講道館柔道だけは他の柔術諸流派とは異っている。

野口清(潜龍軒と号す。帝国尚武会長、六段)は次のようにいった。


「世に講道館柔道なるものありて広く流布(るふ)す、主として乱捕(らんどり)を稽古し吾人のいわゆる型なるものの研究は殆んどなく、したがって我国の固有の真の柔術と称するを得ざるなり。

然れどもこは寧ろ当然の結果にして同流嘉納師範が護身術たる我国固有の柔術を殊更に体育のために按配したるが故なり、そのいかに真の柔術に異なる所ありといえども、これをとがむるはとがむる者の非のみ云々」



古来から剣もそうだが、柔術の習練方法には、型(かた)と乱取(乱捕)の二種類があり、型が主で乱取は従であった。

今日もこの伝統は守られているが、講道館柔道が全国を風靡すると同時に、乱取すなわち柔術ということが当然のように一般にひろがったのである。


嘉納治五郎氏が学んだ起倒流野田派(乱取と投技を重視した)の影響を見のがせない。

それに加えて体育学の見地から柔術を一般に普及した功績は素直に認めるべきである。

だが、固有の柔術とは違う。

それは技を比較するとすぐわかるが、根本的な相違は、経絡学説の有無にある。

それは講道館柔道の段位証とそれに匹敵する柔道諸流派の免許状を見くらべるのが早わかりだろう。

真之神道流(柔術)の免許状には「臓腑経絡云々」とあるが、講道館柔道の段位証にはない。

(『ツボと日本人』蓑内宗一著、いなほ書房、2002年新装第一版、221頁)




古来の柔術を、講道館柔道を普及させたように普及させることも可能であったろう。

そうしなかったのは、創始者の先見か、スポンサーの御威光か。

スポンサーは「神=GOD,創始者」より偉いのか?

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[ 2013年04月13日 12:30 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)
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