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武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。「正忍記」その5
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正忍記 その14/奥書の解説

中島篤巳氏による解説は今回で終了する。


〈武道選書〉
忍術伝書 正忍記


藤一水子正武著
中島篤巳解読・解説
新人物往来社 
平成八年八月二十日初版発行



以下、中島篤巳氏による解読・解説。


奥書の解説


「以上のことを書にするというのは決してすべきことではない。

しかし巷では忍びは奇妙だ、人を騙すとか言っているようだから、忍びを正しく伝えるためにあえて書き表したまでである。

また忍びに出会っては隠れようもないので、秘密をことごとく表したので、しっかり理解して術の取得に励んでもらいたい。

忍びの本質がわからなければ、忍びを防ぐことは出来ないのでよくよく学ばなければならないが、決してこの術で人を欺いてはならない」



奥書のように書するということは流派の正しい継承を可能にするが、格付けを目的とする場合もあることを知っておきたい。

さらに漢文の部分は「この正忍記は當流の忍びの純粋な奥義である。 先師より一子相伝で脈々とこれを受け継ぎ、その秘密を外部に漏らすことはなかったが、今始めて子の懇望によってその全てを教授せしめたところである。

慎んで宜しく熟練し、みだりに他の人に見せてはならない」
とある。


最後に伝書の出所と付与先について書かれている。


「青竜軒

   名取兵左衛門

 時 寛保三歳次葵亥年

   二月吉日

   渡辺六郎左衛門(花押)
          付与之  」


すなわちこの書は寛保三年に名取兵左衛門から渡辺六郎左衛門に与えられたものである。


(『正忍記』、197頁)




『正忍記』
名取三十郎正澄/藤一水正武(ふじのいっすいまさたけ)丈夫著
巻頭言 勝田何救斎養真
延宝九年(一六八一)

解読・解説 中島篤巳







以下、中島篤巳氏による巻末の言葉も抜き出しておく。



おわりに


バブル経済の崩壊は各種多様な形で教訓を残した。 もっとも大きな収穫の一つは「本物」の価値の重要性を再確認させてくれたことである。

政治の貧困はもとより、それに輪をかけるようにして我流で薄っぺらい評論が、さももっともらしく茶の間を席巻する。

そんな御時世、本当に頼れるのは自分だけであるということを認識する日が続く。


また国とはいったい何なのだろうか、そして自分との関係はどこまであるのだろうか、と自問する日も少なくない。

ただ断言出来ることは、世の中には得をする人間と損をする人間とが常に決まっており、得をする人間は常にそれを求めて社会道徳を捩じ曲げながら行動し、一方、損をする人間はそれに気づかないか、または諦めてか、淡々とした日を送る。


忍びは社会の底辺で、死を的に極限状態で生き抜いてきた集団である。 その心理的極限状態で得た彼らの結論は「社会通念という束縛から解放され、自己の内に真理を見出す」ということであった。

そのためには自分がどれだけ深く社会と関わりを持つことが出来、その反面、それだけ社会から自立することが出来るかという逆説的な関わりを意識する必要がある。

すなわち国や会社など各種社会の一員としての自己の力が大きいほど、いわゆる社会からの自立の割合が大きいということである。

社会からの自立と逃避は根本的に異なる。

社会的責任を放棄した逃避は、治安や建設など社会の恩恵をこうむって生きている限り単なる寄生である。

忍びは一般通念を無視することによって社会からの自立をはかったが、そこにはそれを代償する忍びの哲学があった。

その生き様はドロドロした社会としぶとく付き合い、そして異質なところで突き放すようにして常に自立していた。


本書は忍術の古典であり、本物の忍術伝書である。

その復刻により、もし誤訳があるなら訂正も可能となり、校注の及ばぬところも読破していただけるものと確信している。

蛇足ながらルールで保護されてスポーツとした近代武道と実践的な古流武術との隔たりは次第に広がるばかりとはいえ、これは、一般武道家の方々にも是非御一読願いたい書である。

(後略)

平成八年七月吉日

中島篤巳

(『正忍記』、406~407頁)


正忍記


中島氏は書いた。

「社会的責任を放棄した逃避は、治安や建設など社会の恩恵をこうむって生きている限り単なる寄生である。」

私なんかそのまま受けて、「親に寄生しています。すみませ~ん」と謝ってしまうだろう。


だが、ちょっとまてよ、

生物の基盤となる自然環境を破壊し、国家としての自国の発展や運営の方針を誤り、社会責任を放棄した役人や官僚や天皇は国民に寄生しているのであり、

教祖や宗教家がその職務を乱用し宗教家あるまじき行為で責任を放棄すれば、それを信じてお布施してきた信者に寄生しているのであり、

シオニスト・ユダヤ・イルミナティのロスチャイルドは、人類に寄生している。

宿主か寄生かの関係は、いずれ宿主を食いつぶす。

エイリアンみたいなやつだ。


と考えた。

私は親に寄生している、といわれたら見た目はそうかもしれないが、上記に上げた社会的影響を鑑みれば、

家全般の運営は私に任されているし、同時に家族の世話をする責任も生じる。

これは寄生なのか?

こういうのは、伴(とも)の状態である。




当然ながら社会を運営する人の責任の方が重大である。

社会的責任を個人的責任にすり替え、官僚、政治家らの失敗も、運営の不備もいままで個人に転化させられてきた。

いうなれば、政治家を選挙で選んだ国民のせいにされる…とか。
選挙に行かない国民のせいにされる…とか。

どちらに転んでも弱い立場のもののせいにされる。

個々の間に入りこんで仲介のフリをしている寄生者(金融至上主義など)は、自己の責任逃れのために社会システムや法律を作ってきたのだ。


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[ 2013年04月15日 17:46 ] カテゴリ:正忍記 | TB(0) | CM(0)
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