ビー太郎サバイバル日記

武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。「正忍記」その5
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天正伊賀の乱における忍び

「正忍記」(新人物往来社)は、平成八年に出版された。

著者は、それ以前に「忍術秘伝の書」(平成六年)を刊行されており、これは「正忍記」の全要約に「万川集海」「忍秘伝」で捕捉されている。

「正忍記」のように逐次原文と解説という風ではなく、著者による構成で解説されている。



忍術秘伝の書
「忍術秘伝の書―忍びの世界を科学と歴史の刃によって切る」
中島篤巳著、角川選書248、平成六年





先の「正忍記」に中島篤巳氏は天正伊賀の乱について触れている。

私はこの天正伊賀の乱に興味を持ち、中島氏の解説にじつは衝撃を受けたのである。

以下引用。




コラム―天正伊賀の乱における忍び


日本史上、一国の武士と庶民とが一丸となって強大な権力に対抗し、一国の半数が死に、全域が焦土と化した国は伊賀国をおいて他にないだろう。

戦国期、伊賀国守護の仁木氏は権力もなく、伊賀国は在郷の服部(はっとり)、柘植(つげ)、川合(かわい)、名張(なばり)、長田などの国人衆に分割統治され、その国人衆はは一族ごとに党をつくり結ばれていた。


彼らは戦国大名の侵略に対しては伊賀国全体が団結し、また甲賀国人一揆と協力して対抗するという掟書(おきてがき)を交していた。

「他国より当国へ入り候においては、惣国(そうこく)一味同心に防がるべく候」(「伊賀国惣国一揆掟書」)とあり、これが伊賀の惣国一揆体制である。


『万川集海(ばんせんしゅうかい)』にも「伊賀国は権力に屈することなく、あの織田信長さえも手こずらせ、最後まで屈しなかった」と誇らしげに記されているのは、さきに述べたところである。




参考:(同書、18~19頁より)

『万川集海』の序の末尾に「延宝四年辰仲夏日 江州甲賀郡隠士藤林保義序」とあるように、伝書は藤林保義(保武ともいう)が西暦一六七六年五月に著したものである。

同書の忍術問答の中で、「此(かく)の如き忍術普(あまね)く天下に用いしと聞く。 然(しか)れども専ら伊賀甲賀は殊に忍びの名、諸州に冠たるぞ何ぞや」という問いに対する答えの最後に、

「隣国の多勢にして威強き大名多しといえども、伊賀の地を奪い取る事なし。 信長公ほどの強将たりといえども、伊賀においては敗北したまう也。 まして其余の大名、各此の国には望みをかけず。 小国にして人数少なきのみならず、大将もなき寄合勢といい、旁々(かたがた)以て頼りなき様なれども、隣国の大将ある大勢に一度も負けたる事なし。 勝利を得しは何故ぞ、是皆忍びの術の功にあらずや。 斯る故を以て伊賀を忍びの本とする也」(内閣文庫蔵本)

といっている。



天正六年(一五七八)二月、一人の伊賀者が雪を踏み締めて山道を越え、伊勢松ヶ嶋城の北畠信雄(信長の子)の門を叩いた。

伊賀の背信者、下山甲斐(しもやまかい)その人である。

「今、伊賀国は足並みが乱れており、郷士たちの結束も弱うございます。 伊賀国を攻めるには今をおいてございませぬ」

この一言で伊賀の悲劇が始まった。

信雄は時節到来とばかりに、まず伊賀国伊賀郡下神戸(しもかんべ)の丸山城再建を手がけたまではよかったが、伊賀勢に奇襲されて簡単に消失した。

翌七年、焼き討ちに激怒した信雄は兵を率いて伊賀の阿波口、伊勢地口、鬼瘤(おにこぶ)峠の三道から一気に伊賀侵攻を敢行。

第一次伊賀の乱の勃発である。


しかし侵攻軍の結果は悲惨だった。

情報収集とゲリラ戦に長(た)けている伊賀勢の待ち伏せは必至である。

鬼瘤峠は先鋒、柘植三郎左衛門率いる千五百が侵攻し、これを迎え撃つのが上忍、百地丹波。

結果は織田軍が惨敗、拓殖も討ち死にした。

阿波口侵攻は信雄自身が率いる八千の兵。

しかし伊賀勢の鉄砲や弓攻撃とそれに続く夜戦とで惨憺たる状況で退却、といった戦況であった。


信雄の失態と伊賀の反抗は信長の激怒するところとなり、木下藤吉郎、滝川一益、甲賀油日(あぶらひ)の和田推政、蒲生(がもう)日野の蒲生賢秀らと伊賀攻めが計画され、その数日後には商人に変装した甲賀者の姿が伊賀の地に見られ始めた。

あとでも述べるが伊賀の乱の特徴の一つに、盟約を交わしていた甲賀の伊賀からの離別があげられる。


天正九年九月、信長は五万の兵を率いて安土城を出発した。

第二次伊賀の乱である。

伊賀の兵力は僅か数千。

歴史の流れに抗するすべもなく、奮戦むなしく大勢は七日で決まったが、それでも約一カ月は持ちこたえ、柏原城の落城をもって伊賀の乱は終わった。

その後も惨殺が続き、伊賀の地は殺戮(さつりく)と焦土の地獄であったという。


信長は六つの伊賀口から雪崩(なだれ)の如く侵攻を開始したのであるが、その内訳は次のようである。


伊勢口からは北畠信雄を総監に一万三千、
笠間口からは筒井順慶の三千二百、
長谷口からは浅野長政らの一万五千。

興味深いのは残りの三口、

すなわち多羅尾(たらお)口は堀秀政、多羅尾光弘らの二千三百、

柘植(つげ)口は丹羽長秀、滝口一益、藤堂将監らの一万二千、

玉滝口は蒲生氏郷、脇坂安治らの七千三百である。


天正伊賀の乱
参考:第二次天正伊賀の乱図
http://www.e-net.or.jp/user/taimatsu/iganoran/map.html



これら三口はすべて甲賀国内で、伊賀と同盟関係にあった甲賀武士は、それを裏切って信長の通過を許したばかりでなく、信長軍に加勢した者もおり、多羅尾光弘は甲賀五十三家の家柄である。

甲賀は自らが生き抜くため、そして時代に即応した新しい生き方を選び、伊賀との古い盟約を破棄して行動した。

忍びの武士化という、新しい時代の到来である。


忍びの哲学の合理性からすれば、甲賀の対応は伊賀への裏切りとは言いがたく、むしろ甲賀こそ忍びらしかった、といえよう。

天正伊賀の乱は、たいていの書物では“戦った伊賀郷士=伊賀忍者”として語られている。

実利を捨て、自国の滅亡を選んだ伊賀の行為は、忍びではなく武士の哲学そのものである。

この伊賀の乱の生きざまから、六十近い士豪の連合体は武士の連合であり、忍びはそれに付随したものと考える方が妥当ではないだろうか。

(『忍術秘伝の書』、26~28頁)



織田信長の天下統一の時代。


唯一、権力に屈しない自治国を造っていた。


日本におけるかつてない虐殺が織田信長によってなされた。

その背後にはイエズス会が関係していたのかどうかしらないが、イエズス会の影響を受けた織田信長は天下統一に乗り出していた時期で「伊賀国」に目をつけたのである。

伊賀忍びと甲賀忍びの関係。

私は、縄文日本原住民が、限定的に言うと飛騨族の影響の強い、中央の権力者からは疎まれたエタ衆の勢力の強い土地柄ではなかったと考える。

縄文日本人、および忍びの生き方は自立していたので、「差別」とかそういう概念は持ち合わせていなかったとも考える。

そのように思えたのは、トム・ブラウン・ジュニアの描いたアメリカ・インディアン、アパッチ族のグランドファーザの生き方によることが大きい。



伊賀忍びの生き方。

甲賀忍びの生き方。

伊賀忍びは魂の存命を選び、甲賀忍びは現世での存続を選んだのか。

全滅を避け次の時代につなぐ本能が働いたのか。


勝者、敗者、手引きした者、身柄を引き受けたもの、簡単に区分けできない複雑な状況と内面の心理がある。

イルミナティの歴史を綴った世界史は、二次元的であり見た目に勝者、善悪をはっきりさせる特徴がある。

現代学校で教えられる歴史は全体の一面でしかなくイルミナティの侵略の流れの経過を見ているようなものである。


日本人は時代全体の流れの中で生き、二次元の世界で生きてはいなかったのであった。


奴隷制度は二次元の世界に貶めるようなものである。
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[ 2013年04月18日 21:11 ] カテゴリ:正忍記 | TB(0) | CM(0)
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