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西尾幹二氏の日本国憲法前文私案 その2


会社の定款のような憲法が、国家の憲法になるためには、その前文の定義づけにかかってくるのではと思った。

なるほど、現行の日本国憲法前文は「日本」と銘うたないでもいいくらい、無味乾燥な前文であった。


西尾幹二氏の日本国憲法前文私案と伊勢神宮(2013年5月5日付)のつづき。


「天皇と原爆」西尾幹二著、新潮社、2012年

から引用する。


夢の憲法
参考:「夢の憲法前文をつくろう」
http://comcom.jca.apc.org/hi-hu-war/kenpou/kenpou.html




そして山折り哲雄さんと私という人文系の人間がこれを受けて、大変興味深いことに二人とも、日本列島の風土にナショナルな基点を置いて書いたんですね。

で、なぜ今こんな話をするかというと、そのとき編集部に頼んで世界各国の憲法の前文をコピーで送ってもらいまして、二十ヵ国ぐらいのものを読んだ記憶があるんですが、どの国でも憲法前文は宗教を取り上げていたからです。

自分たちの民族の宗教を冒頭に掲げているわけです。

(『天皇と原爆』、158頁)



西尾氏の日本国憲法前文私案は省略。

続いて西尾氏自身による「前文私案」の説明。


私が冒頭「日本人は古来、太平洋上に北東から南西へ連なる列島上に生活し、縄文の名で知られる一万有余年の先史時代の人間を遠い祖先とする。 砂漠と大河の文明で知られる世界四大文明の栄えた同時代に、森林と石清水の生活文化を築いた」云々と書いたのは、一万年以上に及ぶ世界最古の文明、縄文土器文明を念頭に置いての揚言です。

そして「外部から何が入ってきても内部が壊れない地理的環境によって、排他的な原理や規範にこだわらない柔軟で、寛容な文明を育んだ」と定義したうえで、

大陸の西方からさまざまな文明の流入してきた諸影響のいわば終着点、入ってくるばかりでここから先へは何も出ていかない貯水池のようなわが日本文明が「古代中国文明と近代西洋文明の二度にわたる波及をよく耐えたのもそのせいで」と述べたのは、もともと日本には文明があったんだ、そこへ古代中国文明と西洋近代文明が入ってきた、何もない所にいきなり外から文明が入ってきて国ができたわけじゃないと言いたかったからです。

無から有が生じたのではない。 無もまた有であった、絶妙なこの列島の先史時代、文字のない深い森と石清水の生活文化を想定しなくてはなりません。

だからこそ両文明の波及に対しても「逡巡と抵抗をへた」、つまり受け入れることにためらいもあり、ときにレジスタンスをもくぐり抜ける長大な時間をかけた「理解と吸収の結果、一個の新しい文明としての歴史の独自性を保持することに成功した」という次第で、日本列島は一つの文明であったという宣言を行なったのです。

(同上、160~161頁、太字強調は引用者)




まだまだ続いて、日本史のダイジェスト版のようになっている。
手際よくまとめられて、好印象を持つ。

伊勢神宮が西尾氏を評価するのも当然であると思った。




日本という処に人々が集まってきて、いろいろあったけど一つになった。

「外部から何が入ってきても内部が壊れない地理的環境…」と、地理的環境が前面に出されているが、ひとつになるための日本の根幹を成した人々のことには触れていない。

「もともと日本には文明があったんだ、」という、もともととは?

ぜひ、山本健造氏の研究の成果を参考にしていただいて、新たな展開を模索してもらいたいものです。


末尾を以下のように結んである。

「日本は幸福と繁栄が対立しない富国であろうとする。 長期の平和が無為無気力を招かない強国であろうとする。 節度と自己主張、謙譲と世界経営の理念が矛盾しない指導的大国であろうとする。 以上の自覚と覚悟をもって、憲法をここに制定する。」(前文私案末尾)


「以上の自覚と覚悟をもって…」

現行憲法になくとも、西尾氏の前文私案と同じでなくとも、各人が「自覚と覚悟をもって」生きることは、自分で憲法前文のような信念を構築するということと理解する。

そうでなければ、自分は何を根拠として生きているのだろうか。





西尾氏は「どの国も憲法前文には宗教が取り上げていた」と書かれていた。

当然米国を真っ先に検証し、そうだろうと思ったが、アメリカ合衆国憲法の前文日本語訳にはそのような個所がみつからない。

参考:アメリカ合衆国憲法邦訳
http://members.tripod.com/sapporo_3/ho/usaj.html



私の捜し方が悪いのかどうかわからないが、宗教抜きでは語れないことを前提にする。


アメリカ人のマイケル・ルパートが「GODを議題にすること」(英語原文2010年11月1日付)を書いた。

アメリカがキリスト教の国であるという自覚と信念が圧倒的に蔓延している中で、もしくはGODを押抱いているような人々に向かって、この議題を取り上げるということは、アメリカ合衆国憲法前文に書かれているであろう宗教に対し真っ向から異議を申し立てたことになる。



彼の言うアブラハムの宗教(ユダヤ、イスラム、キリスト)は、国土というより宗教が民族を呑み込んでいった。

そのシステムは、無限に成長が約束される教会を立て、金融の右肩上がりの成長理論と重ね合わせる。

宗教を前文に治めた憲法は、自己利益を追求する企業と何ら変わりなくなり、むしろ正当化して他国を呑み込んでいく。


マイケル・ルパートは、アンリカ・インディアンの知恵をもとに精神(spirit)性を回復したことで、アブラハムの宗教システムがこのインディアンの言う地球に拠点を置いた精神の上に構築されていないことに気づいたのである。

宗教システムによって精神が囚われてしまっていたのだ。

その結果、目の前で崩壊してゆく現実に直面しても、とるべき道を見いだせなかったのである。

故にこのシステムは変えなければならないが、変えるならば地球を拠点とする信条でなければならないのだと。



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[ 2013年05月12日 13:59 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)
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