ビー太郎サバイバル日記

武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。「正忍記」その5
ビー太郎サバイバル日記 TOP  >  ビー太郎日記 >  消えゆく「人間」的知性=家畜人

消えゆく「人間」的知性=家畜人


新しく購入したパソコンがLED仕様で、昨年末から頭痛と目の痛みがひどくなり、度付のブルーカットレンズのめがねを新調してなんとか治まったもののやっぱりインターネットは向いていないと思うのこのごろである。

けれど、文字で綴る日記が長続きしないのに、これはこれで続いているのはどういう訳なのか。



5月23日の東京新聞朝刊第7面「論壇時評」覧に


大人のメディアと子どものメディア
消えゆく「人間」的知性


佐藤卓己(さとうたくみ=京都大学院準教授、メディア史・大衆文化論)

の記事が掲載されていた。

この論文は雑誌に掲載された論文の批評をしている形になっている。

そして、「新潮45」6月号の特集記事のひとつ濱野智史(はまのさとし)の「信者でもアンチでもなく」の」論文を大いに褒めている。


以下引用。


人間至上主義は、ウェブ技術が人間、すなわち理性的な主体を強化すると考える。

つまり理性的市民が熟議する「電子公共圏」の成立をウェブに期待するわけだ。

だが濱野によれば、ウェブは「人間」的ではなく「動物」的な知性を強化する。

それは「食欲」のグルメサイト、「性欲」の萌え系サイトなどで驚くべき「集合知」が蓄積されていることからも明らかだろう。

もちろん、これに反中嫌韓サイトなどの「破壊欲」を加えてもよい。

つまり、ウェブは熟慮する大人よりも即決する子供に適した技術なのである。

他方、機械至上主義者はウェブ上に蓄積された「ビッグデータ」のマイニング(解析)で人間行動の合理的予測を夢見る。

(中略)

濱野は、こうしたデータ解析も「動物」的な行動の分析には有効かもしれないが「人間」的な行動への適用では役に立たないという。

(中略)

その意味では、大人メディアである新聞雑誌を読む「スローな知性」の方が、ウェブ上の「ファスト的な知性」よりも実際には役立つといえるのかもしれない。

濱野も「人間という動物」の二面性を踏まえた技術の使い分けを主張している。


新潮45・6


以上。


人間は、「スローな知性」も「ファスト的な知性」も両面もつ生き物である。

「スローな知性」はこれこれこうで、
「ファスト的な知性」はこれこれこうで…

とデジタル的な解説で面白くもりたてて、現実ではその中間をとってアナログな生活をしている。


平凡にまとめるとたいていこのようなパターンでおさまるようだ。


私がインターネットはどうも慣れないと思いつつ技術的な面で使用し続けるように、現代はそのようにシステムが出来上がって生活の一部になっているように、道具として使っている。


ここでいうように、ウェブが「動物」的行動する子供に適しているというなら、現代のように生まれたときからインターネットに囲まれてウェブで育つ子どもは「動物」的反応に偏るのではないだろうか。

「スローな知性」とここで言っている新聞雑誌が肝心なことを突っ込まないことに日ごろから歯がゆさを感じているのは、結局、できあいの世界に収まっている感が強いからだ。

それは、社会全体が子供を「人間」ではなく「動物」にしようとしている事に加担しているのではないか。





この項目の前に『現代思想』5月号(特集・自殺論)の伊藤茂樹「子供の自殺を消費する社会」を取り上げ引用している。

「子供はもともと自殺する存在とは見なされていない。 動物が自殺しないことから明らかなように、自殺という行為はきわめて人間的なものである」


現代思想5月号


ここでは

(子ども=動物)→自殺しない


となっている。


しかし、自殺する子どもが増えているという痛ましい事実がある。

子どもは「人間」なのか「動物」なのか。


動物は本能の範囲で襲うことはあっても、人間のやるような民族絶滅を目論むような殺し合う「戦争」もしない。


人間の知性を失くした動物。

しかし、自然の動物でもない。


人工的動物とは家畜人のことになるのではないか。

そしてさらに考える。

家畜は自殺するのだろうか。






関連記事
スポンサーサイト
[ 2013年05月26日 17:46 ] カテゴリ:ビー太郎日記 | TB(0) | CM(0)
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
この記事のトラックバックURL

プロフィール

beetaro

Author:beetaro
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新トラックバック
検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR