ビー太郎サバイバル日記

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「橋のない川」の思い出/気枯れ


農場の研修が終わって家に帰ったのは1997年の11月。

帰ってからこの本「橋のない川」を読んだ。

この続きが読みたかったのは、どうしてこういうことが起こるのかその原点となるものが記述されていないかと思ったからだ。

第七部まではそのようなことは書いていなかった。

インドのアウトカーストは宗教によるものだとわかったが、日本のその似たような状況はどのように生じたのか、この本ではわからなかった。

私はその原因が知りたかったのだ。

いつものように新聞を整理していたら、この記事が目に付いた。


平成25年6月1日
東京新聞/文化面

「うゐの奥山」第15回「『手入れ』しつづける国」
玄侑宗久



古代の日本人は、「毛」や「木」や「気」をすべて「け」と呼び、その自己増殖力を讃えた。

抜いた「毛」から神が生れ、「木」にも神が宿ると考えたのはそのような「産霊(むすび)」の力を感じたからである。

こうした増殖力が枯れてしまうことを彼らは「けがれ」と呼んで非常に嫌った。

穢(けが)れるくらいなら、旺盛な産霊の力を枯らさないまま、手入れしながらつきあうしかない、ということだろう。


以上抜粋。

玄侑さんのいう古代の日本人は何時の頃の日本人か短いコラムでは書いていないが、「けがれ」を「毛」や「木」や「気」と当て字されたことにハッとした。

私が勝手に「気枯れ」、と漢字をあててみた。

何かよくわかった気がする。



私が漢字の「穢れ」以外に「ケカレ」を知ったのは、楢崎皐月(ならさきさつき)による相似相であった。

電位差の違いで植生の優劣が現われ、優勢なところを「イヤシロチ」、劣勢なところを「ケカレチ」とした。

このケカレチに炭を埋設することによって電位差の幅を縮小し「イヤシロチ」化する技術であった。

カタカナで名称が書いてあったのであまり漢字は意識しなかった。

なるほど、「気枯れ」だと妙にぴったりくる。


この相似相の考え方も人が手入れをして土地を豊かにしてゆく発想である。

それは、自然と人間の付き合いである。

アメリカ・インディアン、アパッチ族のシャーマン、グランドファーザーも自分の祖父から自然の手入れの仕方を教わっていた。


玄侑さんは続けて書く。

おそらく日本人は、自然の増殖力を敬愛するがゆえに、そのような態度で自然と接しつづけてきたのではないだろうか。

最近は、手入れが面倒だからと銀杏(いちょう)の葉は散るまえに枝ごと伐(き)ってしまう。

それどころか草が生えないようにコンクリートで塗り込めてしまう。

そんなやり方をよく見かける。

そこまで行くと、面倒を避けるため、恩恵まで拒否する態度だが、どうなのだろう?


以上抜粋。


確かに、うちの近所の公園や街路樹も早期に枝払いしている状況がここ何年続いている。

春なのに新緑を愛でるのではなく、枯木の無様な姿をさらし、盛夏には木漏れ日さえなくなった。



かつて、「気枯れ」を「癒やす」ほうへと行動を起こしていた日本人。


自然の摂理を無視すれば「気枯れ」たままである。

木が枯れれば移植すればいいという身勝手な問題ではない。

自然は循環の中で潤っているのである。



部落問題は、明治時代になって「穢れ」で定着された印象がある。

扱う方も扱われる方もである。

昔はそのように固定した発想はなかったはずだと思うのは、古代日本人の知恵があればなにかしら循環していたはずである。


現代の部落問題は「気枯れ」状態である。

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[ 2013年06月05日 20:50 ] カテゴリ:部民(部落)/伴 | TB(0) | CM(0)
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