ビー太郎サバイバル日記

武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。「正忍記」その5
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「知られざる福沢諭吉 下級武士から成り上がった男」の品格(3)

「知られざる福沢諭吉 下級武士から成り上がった男」
礫川全次著 (平凡社新書)2006年11月、初版第一刷



から内村鑑三による福沢諭吉批判。

とはいっても、内村が直接名指しすることでもなく、文章から察しが付くようだ。

著者も「憶測」と断っている。

以下引用。



内村鑑三の脱亜批判


キリスト者の内村鑑三が、明治の藩閥政治を厳しく批判していたことは、あまり知られていない。

しかし、たとえば『内村鑑三著作集』(全二一巻)の第二・三巻(時論・時評上)などに目を通した人は、藩閥政府批判の文章があまりにも多いのに驚くことだろう。

内村は一八九七年(明治三〇)の『万朝報』紙上に、「大虚偽」というエッセイを発表している。(四月二二日)。

短い文章なので、全文を引用してみよう。



余輩は思う、新日本は薩長政府の賜物(たまもの)なりというは、虚偽の最も大なる者なりと。

開国、新文明、封土奉還〔版籍奉還〕は、一として薩長人士の創意にあらず。

否、彼らは攘夷鎖港を主張せし者なり、しこうして自己の便宜と利益のために主義を変えし者なり、すなわち彼等は始めよりの変節者なり。

新文明の輸入者とは、彼らが国賊の名を負わせて斬首せし小栗上野介等の類を云うなり。

真正の開国者とは、渡辺崋山、高野長英等の族を云うなり。

封土奉還すら、木戸、大久保等の創意に出でしにあらずして、姫路の城主酒井雅楽頭〔忠邦〕の建白に基けりと伊藤博文侯は報ぜり。

薩長人士は、世界の大勢と日本国民の意向とに乗ぜしのみ、新日本は文明世界と日本国民との作なり、開港和親は、みな旧幕政府の創意なり、この点に関して、われら日本人は薩長政府に一の恩義なし。




内村は、薩長人士が、開国政策を取っていた幕府を打倒するや、その攘夷主義を捨てて開国政策に転じた変節を非難している。

内村は歴史家ではなかったが、その史眼はなかなかに鋭い。

おそらく内村は、幕府が採用した「脱亜入欧」イデオロギーが明治政府に引き継がれた事実に気づいていたのであろう。

(『知られざる福沢諭吉』、礫川全次著、212~213頁)





福沢諭吉は、蘭学の知識を買われ藩命にて故郷の中津(大分県)から幕府に出向した。一八五八年(安政五)のことである。

そこで、オランダ語が役立たないのを知り、英学へと転向する。

翌年(安政六)暮に、咸臨丸派遣のことを聞きつけ、「ツテを求めて木村摂津守喜毅に面会を求め、その従僕として随行を許可される。」(同書、237頁)とある。


遣米の話しは五年前にさかのぼり、寛永六(一八五三)年六月三日(西暦七月八日)のペリーの来航より、幕府は米国を見据えた政策を強いられ、交渉を開始した。

寛永七(一八五四)年、日米和親条約の締結。

それでも公家や孝明天皇の攘夷による反対にあいながら、「その後、大老に就任した井伊直弼(なおすけ)の決断によって、勅許を待つことなく安政五(一八五八)年、日米修好通商条約を調印しました。」(『小栗上野介 忘れられた悲劇の幕臣』、村上泰賢著、平凡社新書、2010年、26頁)

という。
続けて引用。


この条約の主な内容は、

(1)外交官の常駐
(2)神奈川、長崎、箱館、新潟、兵庫の開港
(3)領事裁判権をアメリカに認める
(4)民間の自由貿易
(5)江戸大阪の開市
(6)関税率は両国で協議する
(7)貨幣は同種同量で交換する
(8)アメリカへの片務的最恵国待遇
(9)アヘン輸入の禁止

というもので、領事裁判権で外国人の犯罪人を裁く権利が日本側にない、また関税自主権がないことなど、不平等条約という側面もありました。

また、その条約文中に「日本政府より使節を以て亜米利加華盛頓(ワシントン)府にて本書を取替すべし」という一文が盛り込まれていました。

条約批准書の交換をワシントンで行うことで、進んだアメリカの政治や社会を実地によく見聞し、日本の将来に資するところを得てきたい、という幕府側の意向が条約締結前の安政四年ごろから提示され、それを歓迎するハリスの思惑と一致して入った一文です。」(同上)



タウンゼント・ハリスは日米和親条約の締結から、下田に駐在した外交官。


以上のような経緯から、日本の幕府の正式な遣米使節三人とその従者たち一行が乗り込んだのは米国軍艦ポウハタン号で、オランダ船の咸臨丸はこのポウハタン号の護衛船という名目で随行したのであった。

名目とは別に、他に日本の海運技術の向上も目論んでいた。

咸臨丸はサンフランシスコへ寄港し日本へ帰った。

ポウハタン号は、パナマ運河を通過し目的地のワシントンに到着し無時任務を遂行した。
その後、世界一周して日本に戻った。

咸臨丸の責任者は軍艦奉行木村摂津守喜毅(きむらせっつのかみよしたけ)であって、その従者に福沢諭吉が乗り込んだ。

福沢諭吉は帰国後も幕府の外国方で翻訳を命ぜられる。

さらに、文久二(一八六二)年、文久遣欧使節(第1回遣欧使節、開市開港延期交渉使節)で、二度目の海外、ヨーロッパに渡航している。

このとき始めて香港に寄港し、最初のアジア体験から、まさにのちに出てくる脱亜入欧論の実体験をしたのであった。

しかし、福沢のそれは、

「いずれ『わが帝国』も国威を発揚し、支那人や英人を奴隷のように圧制したいものだ、否、ひとり世界中を圧制したいものだ。」(礫川氏による現代語訳、『知られざる福沢諭吉』、202頁)

というもので、

「アジアへの共感の欠如、西洋帝国主義への羨望と同化。」(同上)

だった。




福沢の脱亜入欧論は、幕末から晩年まで一貫した主張であり、それが与えた影響力は大きかった。 また、欧米に開国を迫られた日本が、攘夷の風潮を抑制しながら欧化を図ってゆくためには、これはきわめて現実的なイデオロギーであった。 特に「攘夷」を名目に幕府を打倒した維新政府には、このイデオロギーが必要不可欠であった。

脱亜があって入欧があったのではなく、入欧という既成事実があって脱亜があった。 脱亜は、入欧(欧化)によるストレスを中国や朝鮮を蔑視することで解消しようとする側面を持っていた。 このイデオロギーは、現実に明治政府の対アジア政策を規定し、人々のアジアに対する差別・偏見を助長することになった。

この影響は二一世紀の今日にまで及んでいるといってよい。 これはまさに「国家の品格」に関わる問題であると考える。(『知られざる福沢諭吉』、221頁)



礫川氏は「国家の品格」と言ったのは、ちょうど数学者の藤原正彦氏の『国家の品格』(新潮新書、2005/11)という本がベストセラーになったころ、この本を書いていたようだ。

その流行にのって、当時、私も藤原氏の講演を聴講する機会を得た。

当たり前のことを普通に言っていたような気がする。

「品格」というのは、特別変わったことでも特殊な事でもない。


万延元(一八六〇)年閏三月二十四日(西暦五月十四日)、日本から遣米使節団がワシントンに到着し、アメリカで初めて日本人を迎える群集でごった返した様子が伝わっている。



日本人の世話係として、ポウハタン号で使節一行に親しく接した乗組員のジョンストン中尉は日記『チャイナ・アンド・ジャパン』に、「あらゆる階級の人々は月世界より使者が来るとも、これほどのことはあるまじと思われるばかりの熱心を示した。……いずれも趣味ある題目として日本史節の事を口に出さぬ者とてなく、物見高き群集は町々辻々を充たした」と、そのときの様子を記しています。

最初に条約批准書の箱が下され、それを担ぐ海軍士官の後に続いて、使節一行の下船が始まりました。 正使を先頭に埠頭に足を踏み下ろし、列を作って進んでいきます。

これを見たアメリカ人は「日本人は列を作って歩ける!」と驚き、新聞でも、文明度が高い人たちと紹介されました。

従者柳川當淸(まさきよ)の『航海日記』に米国新聞が伝えたこととして、「日本人は、身長は低いが至って義心が厚く、また槍や剣術に熟達していて、剛勇な気性をもっている。 初めて外国に航海しているのに少しも恐れる様子なく街中を歩き、物を盗るようなこともなく、正直な人たちである。 今度の使節に加わっている者たちは勇猛な戦士が選ばれていて、常に二本の刀を身につけ、その刀は恐ろしいほどよく切れる」と、記しています。

(『小栗上野介 忘れられた悲劇の幕臣』、村上泰賢著、平凡社新書、2010年、67~69頁)



日本使節団 万延元年
参考:日本使節団 アメリカ派遣から150年「記念写真展」 遣米使節団に湧き立つ150年前のニューヨーク
レポート日:2010年 6月 27日

http://blog.looktour.net/13/150150


日頃の行動がモノを言うのであった。




この記事の最初に引用した内村鑑三の随筆の中で、「新文明の輸入者とは、彼らが国賊の名を負わせて斬首せし小栗上野介等の類を云うなり。」、というのは、小栗上野介が米国より帰国してから行った政策が明治時代の日本の土台となるようなまさに先見の政策だったからである。

そのようなことができたのは小栗上野介が「上士」であったからにほかならない。

明治政府の為政者たちは初代首相になった伊藤博文は「下忍」と言われていたし、政権を取った薩摩長州の「下士」達がフリーメーソンの介添えによる執政だったからではないのか。


福沢自身が著述したように「上士」と「下士」の分界が断絶に近いほどの開きがあり、「上忍」と「下忍」の分界もそのようであったろうと憶測する。

その違いは、どこにあるのか。


福沢の「脱亜入欧」のイデオロギーが江戸幕府から引き継がれた明治政府の原動力になったとはいえ、必ずしも福沢の思想のままでなく「大東亜戦争」で欧米列強からアジアを解放しようという方針がたてられたのも、軍隊の中に情勢の目付の効く「上士」が多く従軍したからではないだろうか。


[ 2013年08月02日 23:03 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

「知られざる福沢諭吉 下級武士から成り上がった男」の品格(2)

人の生まれ出た環境がその人の性格を決定するのか、それとも持って生まれた素質なのか。

「氏より育ち」ということわざもあるが、今生ではそれを出発点として人は成長進化することが要求されている気がする。




普通言われている唯物論の進化とは形態の変化であるが、人の場合、どうもそれだけの枠には収まらない別の進化が求められているようだ。


ここで取り上げた、「品格」について、私の考えを書いておくなら、

「品格」は、どことなく品があるとか、品を感じるとか、品が良いとか、使われるが、どういうものかと説明を求めれば、精神性が高いものからおのずと自然に醸し出されるように、しぐさに、言葉づかいに、作品に現れるものと考える。

どういうものが品格があるとは、その人間の考えと態度や行動が一体となったものとして在るのをいうので、身分で決まるものではないが、概して上級の名家は精神の素養を養うべき環境や習慣が整っている。


下級武士と言えども武士である福沢諭吉をなぜ著者は、「成り上がり」とみたのか?

この「成り上がり」というのは侮蔑の意味も含まれていると思うからである。


この本では福沢諭吉の出目を取り上げる。

以下、同書より引用。

…本章では、幕末明治の啓蒙家・福沢諭吉の意識、言動、品格を、「下士」という出目に注目しながら検証する。 その際、筆者が重要な手がかりとしたのは、旧幕時代の「下士」の生活について、福沢自身が回想した記録、『旧藩情』である。

中略

福沢の説くところによれば、旧中津藩奥平藩士は、「上(かみ)大臣より下(しも)帯刀の者と唱えるものに至るまで」、その数およそ一五〇〇名で、その身分役名は、精密に分ければ「百余級」に達する。 

ただしこれらは、「儒者、医者、小姓組より大臣」にいたる上士と、「祐筆、中小姓
(ちゅうごしょう:旧厩格)、供小姓、小役人格より足軽帯刀の者」にいたる下士の二つに大別できるという。

数の割合でいうと、上士はおよそ下士の三分の一である。


中略

この「下士」は歴史家などから下級武士と呼ばれることもあるが、それはのちのことである。

ともかく福沢は、この「下士」=下級武士の出身であった。

では福沢は
(福沢家は)、下士のうちで、具体的にどのような位置に属していたのだろうか。

「福沢諭吉年譜」によれば、諭吉の出生時
(一八三五)に、父・百助は中小姓格、一三石二人扶持、廻米方(かいまいがた)として大阪に在勤していた(諭吉も大阪生まれ)

すなわち旧幕時代の福沢家は「下士」階級の上位に属していたのである。


中略

福沢が『旧藩情』で記述したのは、豊前中津の藩士が、かつてどのような生活をしていたか、ということであった。

とりわけ、福沢が特筆し詳述したのは、同藩の藩士に上士・下士という二大階層があり、この両者の間には、生活や意識の点でハッキリとした断絶が存在していたという事実であった。


(『知られざる福沢諭吉』、礫川全次著、46~54頁)




「福沢は、『旧藩情』の中で、上士と下士のとの「分界」」を六項目に分けて具体的に紹介したとして、著者はかいつまんで書きだしている。


興味深いので引用する。


(1)権利を異にす

上士と下士の間には大きな分界があり、したがって下士から上士に昇進する事例はきわめて稀であるという(二五〇年間に三、五例のみ)。 ただし上士内部における昇進、下士内部における昇進は珍しくない。 また百姓が中間(ちゅうげん)を経て下士に昇進することも珍しくない。 あくまで上士と下士の間の断絶が大きいのである。 中略


(2)骨肉の縁を異にす

上士と下士とが縁組することはない。 これは藩法の上でも、風俗においても許されなかったという。 藩士の家族間で不倫事件が生じるところがあったが、これらの事件も、上士内部、下士内部で生じるものであり、上下士の男女が通じる例はきわめて稀だったという。 中略


(3)貧富を異にす

上士は一般的には正味二、三十石以上の家禄を得ており、衣食に差しつかえなく、子弟にも相当の教育を施すことができる。 しかし下士は正味七、八石から十数石のものが多く、生活は苦しかった。 したがって下士は、手細工、紡績等の内職を行なう場合が多かった。


(4)教育を異にす

上士は文武の芸を学ぶ余裕がある。経史を読み兵書を講じ、騎馬槍剣の術に通じる。 品行もおのずから高尚となる。 一方下士は、内職のかたわらに若干の武芸に勉めるのみである。 ただし下士は「算筆」の技芸において、上士を上回る。 この技芸は、下士の家産、栄誉の向上に寄与するところがあったために、下士の家庭は、その方面の教育に関しては熱心だった。


(5)理財活計の趣を異にす

「理財」という語は、近年はあまり使われないが、「財貨を有効に運用すること」の意味である。 「活計」は生活の計の意味だが、ここでは家計という意味で使われているようだ。 下士は、内職の収入で麦を買い、粟を買う。 粥や団子も食う。 また下士の婦人は、一五〇匁の綿を一反の木綿に織り上げ、これを三〇〇匁の綿に替えて、という形で家計を助けている。 こういう理財の道は、上士のあずかり知る所ではなかった。


(6)風俗を異にす

『旧藩情』全体の中で精彩を放っているのが、この部分の記述である。 当時の武士のメンタリティが、あるいは上士と下士におけるメンタリティの違いが、非常にわかりやすく描かれている。 この違いを一言でいえば、上士は誇り高く、体面を気にするが、下士は誇りや体面にさほど縛られていなかったということであろう(だからこそ、内職に励むことも出来たのだと思われる)。

(『知られざる福沢諭吉』、51~53頁)



という具合にである。

そして、著者は締めくくる。

「福沢が武士は武士でも、『下士』の出身であったことは、その人格の形成上、きわめて重要なことがらだったと考える。」(同書、54頁)

「だからこそ彼は、封建制を批判することもできたし、西洋の新しい精神に共感することもできたのであろう。」(同書、56頁)




著者は福沢自身が書き残した書物から、このように分かりやすく要約して分析されている。

これらの要素が、のちに批判につながってゆく。

福沢自身が臆面もないことまで自伝に書き残しているのは、『下士』出身だったからなのか。

なるほど、福沢は武士というイメージとはかけ離れているのはこういうわけだったのか。

時は、幕末、尊皇攘夷の末期。

明治時代に政権をとった為政者によって江戸時代幕府の治世はことごとく批判の対象となった。

この時代の「上士」とはいかなる存在だったのか別の資料をさぐってみることにした。





[ 2013年08月01日 01:50 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

「知られざる福沢諭吉 下級武士から成り上がった男」の品格(1)

福沢諭吉

「知られざる福沢諭吉 下級武士から成り上がった男」
礫川全次著
(平凡社新書)2006年11月、初版第一刷




「知られざる…」と題しているところから、これまで言われてきたこととは違うことが書いてあるだろうと思い読んでみた。


著者の礫川(こいしかわ)氏が、福沢擁護論者によらない、むしろあまり世に出なかった批判本を通して福沢諭吉像を端的に表している良書である。


だからといって、福沢を痛烈に批判しているわけではないのでそれを期待すると物足りなく思うかもしれないが、福沢諭吉という人物像と行動から幕末明治時代の変動期を分析しているのが共感できる。

以下抜粋。




生前の福沢が、始終「拝金主義者」と呼ばれ非難されていたことは、今日あまり知られていないかもしれないが、これはあくまでも事実である。

勝海舟の進退について論じた「瘦我慢の説」(一八九一年稿)は、一九〇一年(明治三四)一月一日の『時事新報』紙上に発表されたが(福沢:死の一か月前である)、これを読んだ徳富蘇峰は「拝金家の大和尚と歌われたる福沢氏の……世間に認められざる侠骨稜々(キョウコツ リョウリョウ)たる反面」が現出したという(『福沢諭吉選集』第七巻「解説」、家永三郎執筆、による)。

中略

ことによると福沢は、あえて「拝金主義者」という呼称を引き受けながら、日本人の意識の「近代化」という啓蒙活動を展開してきたのかもしれない。 しかし、そうした「仮説」の当否については、このあとの考証に譲らねばならない。

中略

幕末から明治にかけて、福沢諭吉は傑出した啓蒙家であり、啓蒙思想家であった。 幕末から明治にかけての混乱期に、もし福沢諭吉が、攘夷の風潮を厳しく批判し、欧米の科学や近代的精神をわかりやすく紹介しなかったとしたら、日本の近代化は、ずっと困難なものになったはずである。

中略

『学問のすヽめ』の冒頭の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」というインパクトに富む言葉は、たちまち全国に広まり、人々の意識を確実に変えていった。 そのほかにも彼は、多くの啓蒙書・実用書を出版する一方、慶応義塾を経営して近代にふさわしい産業人を多数育成した。

中略

もっとも福沢諭吉は、幕末から晩年にあたる明治三〇年代まで長期にわたって活動を続けた言論人であり、その思想や行動を「啓蒙思想家」というワクで括ることはできない。

彼は終始一貫して合理主義者、リベラリスト、あるいは民主主義者であったわけではない。

周知のように彼は明治一〇年あたりをさかいにして、藩閥政府に「迎合」的態度を示すようになり、「民権運動」に対しては距離を置くようになった。

また、一八八五年(明治一八)の「脱亜論」に代表される彼のアジア認識と脱亜入欧イデオロギーは、政府や国民に大きな影響を与え、その後の日本の対外政策をリードした。

福沢に帝国主義者としての一面があったことは事実であるが、多くの日本人はこの問題について、正確にして十分な認識を持っているとは言えない。


中略

この「福沢ルネサンス」のキッカケはいくつかあるようだが、その時代的背景について言えば、要するに、中国分割という福沢の主張が、一九三一年(昭和六)の満州事変によって実現し、福沢の先見の明が認められたということらしい(平山洋『福沢諭吉の真実』文春新書、二〇〇四、の解説に従う)。

それにしても、一九三五年前後には「福沢ルネサンス」が叫ばれ、一九三四年には郷里で福沢を「国賊」扱いする動きがあったというわけである。

毀誉褒貶の激しい福沢にふさわしい評価の「揺れ」というべきか。

さらに戦後においては、一転して、合理主義者・リベラリストとしての福沢が「再評価」されることになる。

敗戦間もない一九四七年、政治学者の丸山眞男は、「福沢に於ける『実学』の展開」および「福沢諭吉の哲学」を発表し、福沢再評価の動きを牽引した。

こうした傾向は戦後ずっと継続し、基本的には現代の「一万円札」にまで及んでいる。

ただし、歴史家の服部之総
(はっとり しそう)は、戦後初期からの「アジア認識」を問題にし、丸山眞男の福沢観に異議を唱えていた。


中略


戦後から今日にいたるまで、福沢諭吉の「評価」に関わる論争は、彼のイデオロギーをめぐるものが中心となってきた。

しかし、ここで注意しておかなければならないのは、同時代の人々の福沢への批判あるいは否定的評価は、必ずしもその「イデオロギー」を理由にしたものではなかったという事実である。

…同時代人の福沢に対する批判あるいは否定的評価は、彼の「品格」をめぐって、つまりその人格的側面に対してなされる場合が多かったのである。

曰く「法螺ふき」、曰く「変節漢」、曰く「拝金主義」。



(『知られざる福沢諭吉』、12~19頁)



という具合に、幕末明治時代という変節期に遭遇し乗り越えた日本人の様子が、下級武士出身の福沢の出目を強調しなければならなかったその時代の側面がみえてくるようだ。


[ 2013年07月30日 02:37 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)

すべては生きるために/「進撃の巨人」(2)

7月25日付、すべては生きるために/「進撃の巨人」、へコメントありがとうございました。


そして、投稿していただいた方への伝言ですが、

7月26日付の二つのコメントは、「管理人だけ表示を許可する」で投稿されたようなので、公開されていません。

私もこのブログの仕様がよくわからず使っているので、どうしたら表示できるかもわかりません。

もし、投稿者が間違えて「管理人だけ表示を許可する」で投稿されたのでしたら、もう一度、この項目をチェックせずに投稿しなおしていただけますか。

もし、非公開で投稿したものでしたらこのままでよろしいです。



そのような意向で投稿されたものから引用したら悪いかなと思いつつ、コメントをくださった中からいくつか紹介させていただきます。


「曰く人間の歴史は集合離散の繰り返しに過ぎなく、完全な善も悪もなく、大切なのは陰陽のバランスだそうです。」

私も、現世はそのように思います。

そして、イルミナティ悪魔主義者はこの陰陽のバランスの一部に含まれるものでありますが、人間が存在できる中庸には位置することはできません。

ですので、この地球進化における正統、主権は、人間であると考えます。



「広島長崎の原爆が日本人の仕業だった?」

このような書きかたは、投稿者がショックを受けたように、日本人にショックを与えたいのではないかという、目的意識が働いているのではないでしょうか。



ひとつの考えの中に、こういう風に考えてもらいたいという方向性を持たせれば、どのようにでも話をつくることが出来ます。


陰陽バランスをさぐりながら書いていると、断定のない説得力のない強調のない文章に仕上がって、なんかわざとつまらなくしているような気になってきます。


逆に、鼻息の荒い文章はひいてみてしまいます。





原爆は善でも悪でもない、

とすれば、

戦争に勝つために原爆が必要だ…

ということになりかねません。


経済発展のために原子力エネルギーが必要だ…

も同じ理屈のようです。


勝者/敗者である人間や自然環境に対する配慮がないところから、このような思考の出所がそもそも間違っていると断定できます。

どちらも、力を持つ推進派の目的がはっきりしているためにいくら反論がでようとぶりかえします。


原理や原則に沿っていないファンタジーをそのまま現実にもちこむと破壊します。


そんな追い詰められた状況下に置かれた日本も原爆開発に乗り出したところ、当時の研究者たちはその危険性にいち早く気づいたはずです。

日本の原爆研究が、アメリカの原爆製造のヒントになったようでした。



akazukinブログ過去記事より


「日本・原爆開発の真実」・彦坂忠義博士
2011-09-07

http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-11010909596.html


核の脅威とはなんだったのか?
2011-09-09

http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-11012402927.html


科学者たちの戦争
2011-09-10

http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-11013620422.html



彦坂博士の研究は常温核融合に近いものではないかとも思いました。



常温核融合
2012-03-11

http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-11190016755.html




彦坂博士は研究の主流から退いた後、戦争間近かに家族と大連に渡っています。

無事に帰ってきましたが、これ以上この研究は続けなかったようです。





陰陽バランスの考え方は、日本の武士に代表されるように日本人の中に浸透していたものと思われます。

そのような私たちを取り巻く状況や環境の中、日本人は新しいものを取り入れつつ中心を維持し変化してきた人種だと考えます。

そして、常に中庸をさぐってきたのだと思います。

これを説明するには、精神の分野になると思います。



イルミナティ悪魔主義者はそんな人間にまともになってもらいたくないので第五部隊である精神医学をつくり、躁うつ病、精神病患者であるかのように暗示をかけ増加をはかっています。


戦争や兵器がなくても人は殺せます。

しかも自ら死んでくれる。



このブログのタイトルの下の正忍記の言葉は、武士と忍びはとる態度は違ってもどちらも中心/中庸に身を置いていることを示したかったからです。

陰陽バランスのせめぎ合う中で、自分が最終的に勝たねばならないからです。

勝つというのは、何か景品賞金がでるとか、名誉の勲章をもらうというものでもなく、精神的に勝つことです。





『進撃の巨人』は、いまのところ好意的に視聴しています。

みなさんがどのように言っているか知りませんが、これも現代を写しているようなアニメだと思っています。

現代社会の仕組みを的確にとらえ、うっぷんや不満が素直に爆発して、主張が結構まともです。

大人には気づかないことを若者は感じているのかもしれません。



暑い日がつづき、パソコンの前に座るのも嫌になります。

ですので、ブログはさぼりぎみ。


[ 2013年07月27日 02:00 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(3)

すべては生きるために/「進撃の巨人」

テレビも見なくなったし、インターネット上でしかみていないのだが、「進撃の巨人」というアニメが最近大流行りだと言っている。

近辺に騒ぐ人もおらず、実感はないが、私は注目している。

作者はこの世界では若手の26才。

この作品が処女作だという。

まぁ、自分は詳しくは知らないし、宣伝をそのまま受け流しにはしたくないので、作品を見たことの実直な感想を述べたい。


私のこのブログのタイトルに「サバイバル」をつけたのは、昨年暮れからこの「サバイバル」つまり、「生きる」ということに強くひかれはじめたからだ。

このアニメは、人類が敵である巨人に食い尽くされるかもしれないという絶望した状況からはじまっている。

食われて、その巨人の糧になるのではなくただ食い殺されて吐き出されてしまう。

死ぬことが無意味なのである。



人類はこの巨人の弱点を研究し立ち向かい始めた。

絶望の中での一筋の希望を見出した…

と書くと、いかにもお話しっぽいのだが、


そういう話である。


私がふと思ったのは、主人公を初め巨人に立ち向かう姿は、戦時中の日本の特攻隊のイメージであった。

このアニメの状況は戦時中のそれに似ている。

戦ってしか生きのこる道はないそのような状況である。

それを、戦争体験のない若者が作品のテーマとし、これを見て共感する人たちがこれほどいるという現状は、現代に流れている雰囲気を単刀直入に写しだしたからではないかと思った。



西洋人はこれを、希望とは…生きるとは…愛とは…というように哲学という基盤にのせて論じるが、日本人はすべて「生きる」ことに集約されているのだ。

利己的な希望、利己的な愛、自分だけが生き残るのではない。

私という個人がすべてを活かす根源となるように置く思想は、日本人がこの世に生を受けた時からさだめのように受け継いでいる思想であった。


あの大戦で特攻隊が生れたのも、遠くアメリカに移民した日系人が442部隊でとった行動も、時を経て現代、マンガに著われでた主人公たち若者の行動も、自分の命を投げ出してこの窮地を脱し次につなげる姿勢にほかならない。



アニメは架空の存在の人類とは思えない巨人が敵であるので、思いっきりぶつかることができるが、現実では、人間の敵は人間になる。


現実には、人間の敵を人間に対峙させる策略がある。

敵を間違えてはいけない。



西洋の学問は人間から離れて観察されたところに構築された。

西洋思想で人間を知ることはできない。

日本人は「生きとし生けるもの」と云う思想があった。

そして、思ったことが、即、行動となった。




[ 2013年07月25日 11:18 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(2)
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