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武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。「正忍記」その5
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正忍記 その5/一流の次第の解説

〈武道選書〉
忍術伝書 正忍記


藤一水子正武著
中島篤巳解読・解説
新人物往来社 
平成八年八月二十日初版発行





以下、中島篤巳氏による解読・解説。


正忍記一流の次第の解説




ここで正忍記は忍びの生活体験の厳しさや術理について切々と説いている。


「忍術修行は困難の極みにあり努力するしかない。 忍びの仕事となると誰もが死を覚悟して家を出、もし無事に帰ることが出来たら不思議な程である。 忍びという字は刃の下に心という字を置いているように、我が心を殺し、無我の境地で忍ばなければならない。 忍びは不安なものである。

忍術は魔法じみた奇怪な術であると思われがちであるが、そうではなく理論的であり、まやかしではない。 忍びは心を実にして見かけは虚を装おい、またその反対の場合もある。 さらに敵の心の“虚実”も正確にとらえて術を仕掛けるのでうまくゆく。 これだから神業のように思われるのだろう。 忍び上手は時や理に応じて、常に弁舌が巧である」


(中略)


「未知の国のことや見たことがないことでも、あたかもそこに居たかのように話し、会ったこともない人を、さも自分の友であるかのように語る。 金がなくても物を買い、食事もどこかで手に入れ、酒を飲まなくても酔狂する。 芸という芸は一応学び出家山伏、山姥などに変装する。 夜になると忍び出て、宿には泊まらず野宿して、鹿の声に驚いて隠れたり、月の光が明る過ぎればそれを恨めしく思って居心地悪い森の木陰に身を潜める。 このような悲しさや辛さは誰にも話すことも出来ない。

世間で忍びが奇怪に思われるのは、こんな行動にあるのだろう。 忍びの苦労を知らない巷の人が問うなら、そうであると答えておけばよい。 それも忍びの策謀である。 忍びの不実は虚であり、真は実である。

忍びはただ一つ、本懐を遂げるだけが目的である。 道を踏み外したり、疑義に心を眩ましたりして、当流の術理を失ってはならない。 目的を遂げることがすべてであり、迷いを払って術理を守り抜かねばならない」


伊賀流忍術伝書「万川集海」の忍者問答の項では孫子の用間について「間とは間隙のことであり、敵の隙間に入り込んで諜報する」といった内容の説明がなされる。


また「虚実」の概念は忍術の根本原理である「機を見て虚を突く」の「機」を作るための手法である。

すなわち忍術は相手が実を持って仕向けて来た時にはこれを避け、自分の虚(実際には実)をもって相手を虚(隙)にし、その瞬間に自分の実(全力)を相手にぶち当てるという方法である。

忍びの世界観は物事を絶対的とはみずに、すべからく物事は相対的・流動的であるとする。

その流れすなわち「変」を的確に読んで「機」をとらえる。

自己、敵、主従関係、社会情勢など彼らの活動する空間は常に変化する。

利害を読み、力を読む。

虚と実の宇宙は大きく広がる。

忍びにとって、隙、自己の大局的損失など不利益は虚であり、利、力などは実である。

忍びは常に広義の実を選択する。


実すなわち充実した「実動力」の移動があれば、その反対側に「虚の部分」が生じる。

その時は相手が自分よりも絶対に弱くなければならない。

虚を突いても相手が自分よりも強ければ、それは単なる無謀ということを忍びは知っている。

目的のためには焦らない。

武士同士の対決は実と実との対決であるが、忍びが戦うときは常に自分は実であり敵は虚である。

しかし火花を散らして戦うのではなく、密かに仕掛けて最後まで相手に負けを覚らせないのが理想である。


(『正忍記』39~40頁)



『正忍記』
名取三十郎正澄/藤一水正武(ふじのいっすいまさたけ)丈夫著
巻頭言 勝田何救斎養真
延宝九年(一六八一)

解読・解説 中島篤巳
[ 2013年03月11日 12:32 ] カテゴリ:正忍記 | TB(0) | CM(0)

正忍記 その4/忍兵(忍び)の品の解説

〈武道選書〉
忍術伝書 正忍記


藤一水子正武著
中島篤巳解読・解説
新人物往来社 
平成八年八月二十日初版発行





以下、中島篤巳氏による解読・解説。




【忍兵(忍び)の品の解説】


「忍びには唐間、嚮導(きょうどう)、外聞、忍者、盗人の五種があり、技術をよく修得した独行独人を一単位の忍びとすべきで、二人、三人と組んで忍ぶことは未熟者が手かせ足かせとなってよくない。 よい仕事は結局一人の錬士の働きによることになる」として五種の忍びについて説明している。 ただしこの項は史実に誤りが多いので、読み下し文の用語解説を参照していただきたい。



一、唐間

正忍記は「中国の忍びの起源は軒黄帝(黄帝:こうてい)にまで遡(さかのぼ)るという。 “左氏伝”(孔子の魯国史記録書“春秋"に五家五種類があり、そのうちの戦国中期の左丘明による春秋)では忍びを長(諜)と言い、後には細作と呼ぶようになった。 (殷の)湯王(とうおう)の臣下に伊尹(いいん)という者が周(殷)の紂王のもとに忍び込んでこれを亡ぼしたという。 また呉王闔閭(こうりょ)の臣下である孫武は五間(後述)をもって戦術を練った」という。


ここで述べられている「黄帝」とは古代中国の伝説上の五聖帝の最初の一人で、後漢以降になって黄帝は神仙術や道教で神格化されたために幅広い信仰を集めている。 興味深いのは忍びの原形に少なからず関与したと思われる中世の職能集団である香具師(やし)の守護神が「神農」という点である。 神農は他にも中世香具師とは共通項であるが、薬師の神でもあり、薬売りは忍びが最も得意とした職業の一つでもある。 その神農は中国古代の伝説上の帝王であり、皇帝との重複が示唆されているところでもある。 すなわち正忍記の記録から読み取れる「忍び―中世職能集団―黄帝信仰」の連鎖は、一部ではあり得ることだろう。

忍びを「最初は諜(ちょう)、後に細作(さいさく)などと呼ぶようになった」とあるが、他にも遊偵、水破(透破:すっぱ)、徒破(つっぱ)、乱破(らっぱ)、軒猿(のきざる)、三つ者、出抜、忍び、郷談、間諜、遊子、行人、姦細、間など忍びの呼称は国や時代によって異なる。

歴史的には殷の湯王が討ったのは夏の悪虐王桀王(けつおう)であり、紂王(ちゅうおう)ではない。

「史記」(第三巻、殷本紀)によると、紂王は殷代最後の王となっており、この紂王に関しては藤一水子の認識に誤りがある。 しかし間違いとはいえ、これだけの論陣は藤一水子正武の教養の高さを物語るものである。

孫武は「孫子」の著者とされている人物であり、孫子は日本の兵法では諸流において必ずといってよいほど引用されており、兵法のバイブルである。

その孫武が使い分けた五間、すなわち「五品の間」に関しては「孫子」の「用語」編を抜粋して参考に供しておく。

「間を用うるに五あり。 

郷間あり、内間あり、反間あり、死間あり、生間あり。 

五間共に起こりて、その道を知ることなく、これを神紀となす。

人君の宝なり。

郷間とはその郷人によりてこれを用うるなり。

内間とはその官人によりてこれを用うるなり。

反間とは其の敵の間よりてこれを用うるなり。

死間とは的に委つるなり。

生間とは反り報ずるなり」。


さて「唐間」についてであるが、正忍記では五つの間をあげて次のように述べている。


“因口の間”とは、敵国の言葉を使いこなして、敵国人に成りきる間者で、日本の“奪口忍”と同じ。

“内良の間”とは敵国人を味方の間者として引き込む。
ただし敵も同じように間を仕向けるので、こちらから敵の偽間者を仕向けるので、こちらから敵の偽間者を作ってうまく使うもよい。 これは日本にもあるが、慎重に用いなければならない。

“反徳の間”とは敵の忍びを味方につけることである。 日本では“反り忍”という。 敵の忍びを見破る方法は下忍に不似合いな利口なことを言ったり、過ぎた道理をいう者などは、皆教えられてきた者と考えてよい。

“死長の間”とは一命に変えて目的を達成する間者である。 それ故に充分に恩を施してやり、ここぞと思うときに忍ばす。

“天生の間”とは敵国に潜入させて、そこで生活させておく。 以上五間を日本で“忍び”という」

以上は唐間即ち中国の間者についてである。 正忍記の忍びの種類は続く。



二、嚮導(きょうどう)

いわゆる案内であるが、これは土地の者が確かであり彼らと打ち解けるのが一番よい。 昔、佐々木三郎盛綱は浦の男と親しくして白鞘巻(しろさやまき)の太刀などを与え、馬を渡すことが出来る浅瀬を教えてもらったのも嚮導の類である。



三、外聞(がいぶん)

目的地に入り込むのではなく、周辺の噂などから情報を収集する。 しかしそれが間違いかどうかを注意しなければならない。



四、忍者

日本の間者で常にあぐねることなく、また昼夜の別なく忍ぶ。 盗人との違いは、忍びは私欲で物を盗まない。 名人ともなるとどんな所でも忍び込み、道が無くても無事に帰ってくる。 術の奥は深い。


五、盗人

不敵なやからで道理をわきまえない。 目先の理にとらわれて大局を失う。 結局は盗みで身を亡ぼすという語るに落ちる連中である」




この項ではすでに「忍者」「忍びの者」という言葉が使われている。


(『正忍記』解説、33~35頁)




黄帝の頃より忍びはあったと、語る。

アメリカ・インディアンのサバイバルの技術がちょうど忍者の技術と似ているといわれるように、人類の誕生とともに生活するうえで備わっていたものかもしれない。

日本の場合、縄文一万二千年といわれるごとく、平穏な日々が続いたことだろう。

忍びの技術が古代中国から伝わったというのは、戦術における技術と考えられないだろうか。

推古九年(601)、新羅の間諜者を捕え…云々は、その戦術が日本にも必要とされた時期、

日本に居ついた渡来人が戦術を教えたとも考えられる。




『正忍記』
名取三十郎正澄/藤一水正武(ふじのいっすいまさたけ)丈夫著
巻頭言 勝田何救斎養真
延宝九年(一六八一)

解読・解説 中島篤巳
[ 2013年02月27日 21:00 ] カテゴリ:正忍記 | TB(0) | CM(0)

正忍記 その3 當流正忍記の解説


先の序において忍術の由来を書いている。

推古八年(600)、新羅と大和とは臨戦体制にあり、新羅の間諜者を捉えた、という記録が残っているという。

間諜は、大陸由来の言い方でスパイみたいなものである。

推古八年とは、隋に遣隋使が送られた年である。
朝鮮半島のシラギでは任那との戦争が始まり大和はそれに加勢した年である。


新羅と大和との関係は、「暴かれた古代史」をベースに参照して仮説を立てる。
インターネットではakazukinのブログのカテゴリー「飛騨高天原」のなかに少々まとめた。


私が忍者に興味を持ったのは、紀元前、飛騨山脈の山から寒冷化によって国府を大和に遷都した飛騨族が、大和政権をシラギ出身の豪族に握られ、その周りに飛騨から移住した人々が居住していた、とこの本に書いているからである。

そして、出雲シラギ神崇拝者の追手から天皇の印である「八咫鏡」をトヨスキイリ姫が持ち出して逃れ、倭姫に引き継がれ現在の伊勢に落ち着くまでの道筋にこの伊賀と甲賀の領内が含まれている。





滋賀県の琵琶湖のほとり「お多賀さん」と呼ばれる多賀大社がある。

飛騨から大和へ降りてくるさいの途中にヒルメムチ(天照)の先祖であるイザナギ・イザナミを祀ってある。

尾張名古屋にはサルタヒコを祀る熱田神宮がある。

サルタヒコも古い飛騨族の先祖である。

これらの勢力圏があれば、倭姫は逃げおおせたのであろうと考える。


倭姫

倭姫命世記
http://www.yamatohime.jp/html/page_c.html


当時は忍者とは言わないだろうが、敵対勢力に太刀打ちできるような兵(つわもの)が揃っていたのではないかと思えてきた。

それでは、なぜ大和政権を攻撃し、政権を奪いかえさなかったのだろう。

天皇が人質だったのか、うまく融和されていたのか、わからない。



「八咫鏡」が何故三種の神器で天皇の印なのか、融和していたなら倭姫がそれを持って逃げたというのは何故なのか、融和していなかったとしたらどのような待遇だったのか、わからないことだらけである。

この時はまだ「天皇」という呼称もなかったようだ。

大陸文化と混ざり合って神器を作ったのか、または、インディアンのシャーマンのように修行を終え資格を持つものに授けられたものなのかどうか。

どこにも記述がないのでわからない。

それとも何か、先住民の人間がひそめなければならない時代の流れが存在したのか。




〈武道選書〉
忍術伝書 正忍記


藤一水子正武著
中島篤巳解読・解説
新人物往来社 
平成八年八月二十日初版発行






以下、中島篤巳氏による解読・解説。


【當流正忍記の解説】


「日本の忍びは古くからあるが、その名前を知ることが出来るのは、源義経が勇士を選んで忍びとして使った」とある。

この勇士とは「伊勢三郎義盛(いせのさぶろうよしもり)」とその一党であろう。

彼は伊賀国伊那古村才良(ざいりょう)で生まれ、焼石小六と名乗っていた鈴鹿の山賊であった。 義経と主従関係を結び、忍歌「よしもり百首」として知られた存在である。

その歌は「万川集海」にも多くが引用されている。

義経自身も陰陽師鬼一法眼に剣や兵法を伝授された京八流忍術の祖ともいわれている。

義経流に関しては「義経流忍術伝書」「当流忍衆覚書語之抄」「忍大意」などがあり、その基本は山伏兵法でゲリラ戦を得意とした。


正忍記に続いて「建武(けんむ)に至りて楠正成等数度これを遣(つか)う」と記している。

ここでは鎌倉時代末から建武中興、南北朝騒乱の時代に公権力に抗して諸国で暴れまわった中世の「悪党」の存在に注目しなければならない。

著者は「組織化された日本的な忍びの母体は中世の悪党である」と考えている。詳しくは拙著「忍術秘伝の書」(角川選書)を参考にしていただければ幸いである。




引用者注

建武中興(けんむのちゅうこう)
醍醐天皇(ごだいごてんのう)が鎌倉幕府(かまくらばくふ)をたおし,天皇(てんのう)中心に行った政治(せいじ)。

あくとう【悪党】

歴史的には鎌倉後期から南北朝期にかけて,秩序ある体制を固めようとする支配者によって,夜討,強盗,山賊,海賊などの悪行を理由に,禁圧の対象とされた武装集団をさす。《峯相(みねあい)記》によると,悪党はそのころ山伏や非人の服装であった柿色の帷子(かたびら)を着て,笠を被り,面を覆い,飛礫(つぶて),撮棒(さいぼう),走木(はしりぎ)など,特有の武器を駆使して,博奕や盗みをこととし,荘園などの紛争がおこると,賄賂をとって一方に荷担しつつ,状況によっては平然と寝返るなど,奔放な活動を展開した。
http://kotobank.jp/word/%E6%82%AA%E5%85%9A




楠正成は伊賀忍びを使っていたとされており、ここで黒田の悪党を考えなければならない。

それは強大な地侍連合体として東大寺支配に反抗し、主流が北伊賀の服部氏と南伊賀から河内にかけての大江氏である。

服部氏は平安初期から台頭し、平家側に付いて栄え、その頃には既に忍家として知られていたという。

服部家は少彦名命(すくなひこなのみこと)と金山媛(かなやまひめ)の二神を祖神とし、それが貞元二年(九七七)に伊賀一の宮である敢国(あえくに)神社に合祀されたということは、早くから服部は伊賀全域を席巻するほどの勢力に成長していたことになる。

大江氏は河内の豪族で、平安期の文学博士である大江匡衡(おおえのまさひら)を祖としている。

その子の匡房(まさふさ)は有名な漢学・兵法学者であり、また鎌倉幕府の政所別当の大江広元(おおえのひろもと)も突出した存在である。

忍術の服部と兵法の大江とが、この伊賀の地で結びついたらどうなるかは想像に難くない。

なお源平時代に活躍したのは服部家長であるが、それと同時代にこの地で大きな勢力を持っていたのが百地氏である。

鎌倉末期は文永・弘安の役で幕府の経済状態は最悪となり徳政令が発せられたほどである。 

それに追い打ちをかけるようにして後醍醐天皇は討幕の旗揚げをしたが、元弘の変に敗れて笠置(かさぎ)山に逃れた。

笠置山は山城国の南端にあり大和国に接し、足下の木津川と伊賀街道を抑えて京都と奈良・河内への動脈を掌握し、情報の流れの要である。

(後醍醐)天皇の笠置山逃落に呼応して楠正成が挙兵したことは諸家の知るところである。



楠正成が始めて史料に登場するのは「臨川寺領目録」(天龍寺文書)の正慶元年(一三三二)六月の記録の「悪党楠兵衛尉」という記載である。

それは臨川寺に施入された和泉国若松荘に悪党楠正成が兵糧米調達のための略奪を行なった時のことであるが、その頃には既に伊賀者を配下に置いていたようである。

面白いのは、南北朝騒乱期に山賊という忍者集団の原形が(正統)権力と結び付くことによって、「正義」となったわけで、ここで組織立った新しい忍群の方向付けがおこなわれたことになる。

正成は山に籠もって忍者的ゲリラ戦を展開して幕府軍を幾度となく撃破し、その過程が忍術の体系化に大きく貢献したことは想像に難くない。

楠氏の勢力範囲は摂津、河内、和泉であり、その系統は伊賀と関係が深い。 久保文武氏は伊賀上野の上嶋家本「観世系図」の観阿弥清次に付された「母河内国玉櫛庄橘入道正遠女」という記載に注目し、楠氏と伊賀との関係を明らかにした。


玉櫛庄(たまくしのしょう)は楠氏の庄(「荘園」に同じ)であり和泉、河内、摂津の中央に位置した奈良街道の要衝である。 

また橘入道正遠は楠正成の父にあたり、正遠女は「服部」姓をつぐ伊賀浅宇田荘の治郎左衛門元成のもとに嫁ぎ、観阿弥清次を生んだという。

これは楠氏と伊賀との関係、さらに忍びと猿楽芸能民との関係の深さを示唆する事実であるという。


正忍記は「北条氏康が風麻(ふうま)という盗人に知行を与えて各地を探らせ、甲州の信玄はスッパ(従者・透波)という盗人を使った」とある。

風麻(ふうま)とは風魔小太郎であり、相模国足柄下群風間(かざま)に生まれた、風間という地名から風魔を名乗り、その名を世襲したという。 

ラッパ(乱波)は関東で使われた言葉で、この小田原北条氏の風魔は北条ラッパである。


また「その後、伊賀の甲賀というところの住民に忍びの術が伝わった」と記されている。

著者蔵の稲葉丹後守道久が盗写したというもう一つの正忍記にも「伊賀の甲賀」とあるが、歴史のなかで甲賀が伊賀に属していたということはなく、正忍記の著者である藤一水正武の地理的誤解と考えられる。

忍びに地理的誤解は致命傷ともいえることで、これは藤一水子は伊賀や甲賀とは何ら関係ないということであり、正忍記と伊賀流忍術の関係の希薄さを意味するものである。

ただし、この二つが接する所は忍びの世界では非常に重要な地域であり、事実、互いに交流や相互扶助の掟があったという。

「彼らは一群一味の約束をしている。 忍びとして各国で雇われていても、彼らは固い神文を交わして散っており、お互いが助け合うようにしなければならない。 すなわちもし自分が探索に行ったら、彼はその国の秘密を教え、逆に彼が来たら自国の秘密を教えてやる。 しかし子孫の代になると相手が分からなくなるが、この場合は家にある証拠の松明が目印で、これを示されたら決して疑ってはならない」

とあり、これは常識ではついて行けない忍びの哲学でもある。

もっとも、密約は使用者側も知るところとなり、忍びは重要機密事項を教えられなかったという。

この項は忍びの生き様の凄まじさを感じるところで、忍びと主君との主従関係より忍び同士の関係を重要視し、お互いが秘密を教え合わなければならないという。

ただし上に立つ者は全面的に忍びを信頼してはいなかったようで、極秘事項は味方の忍びには決して教えなかったのも事実である。

古く孫子の「用間」にさえも、、「聖智にあらざれば間を使うこと能わず」とある。

正忍記は「今世の中に忍びの流儀が流れているが、これらはみな盗人の家伝であり、当流こそ忍びの正道である」と結んでいる。

このことは、忍びの多くが盗み盗賊の類であり、またこれが忍びの原点であったということも示唆しており、結局、「当流正忍記」こそ正しい道であると主張せざるを得なくなったのであろう。

「斬取(きりとり)強盗武士の習い」とはいえ、このような正義を主張する記載は万川集海、忍秘伝などを始めとする多くの伝書に見られるパターンで、忍びに悪行をさせないことの難しさが伺えるところでもある。

(『當流正忍記の解説』22~25頁)



『正忍記』
名取三十郎正澄/藤一水正武(ふじのいっすいまさたけ)丈夫著
巻頭言 勝田何救斎養真
延宝九年(一六八一)

解読・解説 中島篤巳
[ 2013年02月21日 14:40 ] カテゴリ:正忍記 | TB(0) | CM(0)

正忍記 序の解説


〈武道選書〉
忍術伝書 正忍記


藤一水子正武著
中島篤巳解読・解説
新人物往来社 
平成八年八月二十日初版発行



前回は解説者[中島]による、「はじめに」を抜粋した。
この本のだいたいの位置づけがかわった。

中島篤巳(なかしまあつみ)略歴

1944年山口県生まれ。

大阪大学卒・医学博士

伯蓍流柔術宗家、古流武術範士八段 空手道教士六段師範 天心古流挙法免許 天心古流捕手術皆伝 浅山一伝流体術免許 神伝不動流体術皆伝 不遷流柔術免許 その他

平成八年(1996)現在。[本書奥付]


と、何て読むのかわからない流派が並ぶ。
その他、スポーツ医。日本山岳会会員でもあるらしい。

『正忍伝』の構成は、

現代語に直したところは以下のように三つに分けている、

読み下し文
注釈文
解説文



本書の後半は原本(国会図書館蔵)の写しが挿入されている。


本文の四部構成は、大雑把に分けると次のようになる。

正忍記 序 (歴史、種類、生活の心得)
正忍記 初巻(技術編)
正忍記 中巻(心理・周辺環境編)
正忍記 下巻(心に関する奥義)


ここでは、中島氏の解説文を抜きだし序と下巻から引用して、実際の忍者の性格や考え方をおさえておくのが目的である。




『正忍記』
名取三十郎正澄/藤一水正武(ふじのいっすいまさたけ)丈夫著
巻頭言 勝田何救斎養真
延宝九年(一六八一)



以下、中島篤巳氏による解読・解説。



【正忍記 序の解説】


正忍記序には巻頭言から當流正忍記伝法の条件までが含まれる。 まずは巻頭言である。

「藤一水正武(ふじのいっすいまさたけ)丈夫が忍兵の書を丁寧に書き上げたが、その術策たるや隠怪であり、これをもってすればどんなに優れた人物でも術中におとし込むこと自由自在、まさに隠形夜来の仙術のようである。 私はこの書の序文を請われたが、忍兵の術を知らない素人で無才である。 固く辞退したが結局許されなく、やむを得ず一言だけ蛇足をつけさせて頂いた次第である。

延宝九年(1681)初秋三日
紀州藩士 勝田何救斎養真

これを書く」



とあるように、正忍記は藤一水正武によって書かれたものであり、紀州藩士である勝田何救斎養真が巻頭言を添えている。

正忍記、万川集海(藤林保義)、忍秘伝(服部半蔵)は俗に忍術の三大秘伝書と言われているが、巻頭言を第三者に託して書籍らしく体裁を整えているのは正忍記だけである。

この勝田何救斎養真が如何なる人物であるかは、文章力や用字法からしてかなり教養のある和歌山藩士で、かつ巻頭言を依頼されるほど高い地位にあったと考えられるが、残念ながら詳細は不明である。

その教養の武士は「忍びの術は策謀の指針であり、軍師にとっては軍略の鍵である。 進退利害に関することだから、武士たる者は決してこの術をないがしろにしてはならない」

と、忍術は忍びだけでなく武士も心得ておくべきであると強調している。

「しかしそれは困難の極致にあり、また仮に警護の者に尋問されても、些(いささ)かも動じることなく明々朗々とし申開くことが出来るほどの精鋭でなければ諜報謀略は出来ない。 人選を間違えると、敵に兵を貸したり盗人に食料を与えるようなもので、かえって有害である。 忍びは人選に気を付けて訓練をしなければならない」

と忍びに力量、人間性などで最高の人物を当てるべきであるといい、また忍びの使い方を誤った時の危険性の注意をうながしている。 余談であるが、史料の「冠に兵を籍す」の出典は『史記』の「李斯(りし)伝」であり、「兵」とは武器という意味である。

なお呉子の「用間」の項には、「三軍の事、交わりは間より親なるはなく、賞は間より厚きはなく、事は間より密なるはなし」と、

間者には決して裏切られないように手厚くしてやらなければならない旨が記されている。


正忍記巻頭言は「それ忍兵の術たるやその来ることひさし」と始まっているが、この節だけを読み込んでみると次のようになる。 すなわち『忍術」の語源は「忍兵の術」に由来し、「来ることひさし」と歴史も古く大陸伝来のものであるということを示唆している。

確かに忍びについての記録は古く、最古のものは日本書記(巻二十二、推古)である。 それには「九年九月戌子、新羅の間諜者“迦摩多(かまた)”対馬に到る。 すなわち捕えて云々」と記されており、勝田何救斎養真の教養の高さからすれば日本書記程度の書は読んでいたはずである。 巻頭言の「来ることひさし」とはこの史実を意味するのではないだろうか。

これは西暦六〇一年の出来事で、その背景には大和朝廷の任那(みまな)復興政策が関与している。

すなわち推古八年(600)には境部臣(さかいべのおみ)を大将軍として朝鮮半島に出兵し、新羅軍を撃破した。 翌年には来目皇子(くめのみこ:聖徳太子の同母の弟)を撃新羅将軍とした二万五千もの軍隊が組織されるなど当時は新羅と大和とは臨戦体制にあり、新羅の間諜が日本に潜入したということは充分納得できる。

内政的には聖徳太子と蘇我氏との抗争があり、太子が斑鳩(いかるが)の里から飛鳥の動きを伺うべく使った忍びが伊賀の間者で大伴細人(おおともさびと)といわれている。

太子は彼を志能便(しのび)と呼んだという。

日本書記の孝徳天皇紀には斥候を「ウカミ」と訓じており、類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう)には間諜を「ウカミス、伺見」とある。

さらに時代を下り、天武天皇は大和の多胡弥(たこや)という忍びを使ったということも知られているところである(「釈日本紀(巻十五、述義)」)。


(『正忍記 序の解説』、中島篤巳解読・解説、16~18頁)
[ 2013年02月15日 10:39 ] カテゴリ:正忍記 | TB(0) | CM(0)

忍術伝書 正忍記

〈武道選書〉
忍術伝書 正忍記


藤一水子正武著
中島篤巳解読・解説
新人物往来社 
平成八年八月二十日初版発行


正忍記

正忍記「しょうにんき」と読む。

忍者について調べようと思い立って、近所の図書館に行ったらこの本が置いてあった。

この本がどういういわれの本なのか紹介があったので、
解読・解説者による「はじめに」から説明を引用する。



「現存する忍術伝書として必ずといってよいほどよく引用される史料が『正忍記(しょうにんき)』『万川集海(ばんせんしゅうかい)』『忍秘伝(にんぴでん)』。 俗にいう三大秘伝書である。 これらは他の伝書にくらべると、確かにボリューム、内容、体系化などでは群を抜いており、忍術研究の基本書として確固たる地位にあるのはうなずけるところである。 なかでも『正忍記』は『エンサイクロペデォイア・ニッポニカ』(大日本百科全書)でとりあげられている唯一の忍術伝書である。
(『正忍記』、はじめに、1頁)



「エンサイクロペデォイア・ニッポニカ」とは、小学館の「日本大百科事典の」ことなのか外国の日本に関するブリタニカ百科事典のようなものなのかよくわからない。
いままでの忍者関係の本と比べるとなんか読みごたえがあるように感じる。

つづけて、原本の説明がある。



底本とした『正忍記』は延宝九年(一六八一)名取三十郎正澄(まさずみ)〔藤一水子正武(ふじのいっすいしまさたけ)、名取三十郎正武、藤林正武〕によって書かれたもので、国立国会図書館蔵本である。 本書は、全三巻(ただし序、初巻、中巻、下巻の四部構成)、計百二丁からなる美本で、奥付には「寛保三年(一七四三)に名取平左衛門が渡辺六郎左衛門に与えた」と記されているものである。

(同上)



さらに、伝書経路について書かれている。

『正忍記』は紀州忍術の伝書であり、新楠流とも呼ばれている。 天正伊賀の乱で伊賀の忍びは難を逃れて各地に離散した。 その頭領の一人である百地丹波(ももちたんば)は紀州の雑賀(さいが)・根来(ねごろ)方面に逃げて来たと伝えられており、紀州流はその後裔が起こしたものであるといわれている。

ところが、本文解説で触れるが、伊賀流・甲賀流の伝書『万川集海』と紀州流の『正忍記』とを比較してみると、意外なほど思想や方法論において相違点が多いことに気づく。 すなわち紀州流が伊賀流と同じものと考えるには多少無理があるようだ。


紀州流の流祖は名取三十郎正澄(正武)といわれている。 名取家は小幡勘兵衛景憲を祖とする甲州流軍法(武田流、甲陽流、信玄流、甲州家伝などともいう)を家伝としていたが、名取与市之丞正俊はこれを軸に名取流を極め、その後に新楠流、紀州流へと転化させていった。


この紀州流に大きな影響を与えたのが甲州流と鼎立する楠流軍学である。 江戸期は天下泰平でゆとりがあり、武術・軍学の体系化や諸流を育んだ。 戦国時代の楠流軍学は、江戸時代に入ると楠流から南木流、河陽流、陽翁伝楠流などの諸派を分派させた。三代目の名取三十郎正澄(正武)は楠流の一派である楠不伝正辰を学び、さらに島田潜斎、神戸能房、破鑑禅士らに師事し、ついに自らの一流「新楠流」を創始し、新楠流は紀州藩ではその空白の部分、すなわち忍び兵法をもって仕えたともいう。


(同上、1~2頁)



「天正伊賀の乱」は織田信長の天下統一の際、天正六年(1578)と天正九年(1581)の二度にわたる伊賀攻めのことである。
同解説者によるコラムがあるので、別の機会に取り上げたい。

忍術の特徴。



一般的に武術伝書には「口伝」という部分が非常に多いのが普通で、それは忍術伝書となるとなおさらである。 ところが『正忍伝』にいたっては、「口伝に曰く」、すなわち肝心なところは口伝、といった文言が記載されていない。 本書を読み終えてわかることだが、忍術は生きるための術である。 当然のことであるが、柔術や居合抜刀術、槍術などのように戦う方法のみを記した伝書とは大きく異なる。すなわち忍術の対象は他の武術とは比較にならないほど巨大かつ多方面にわたっている。 すなわち「口伝」などの文言を記載しなくてもほとんどが口伝と考えておかなければならないというわけである。

(中略)

『正忍記』序に、「當流正忍記」という項題がある。 注意すべきはここでわざわざ「當流」と記されている点である。 この意味は実に難解であったが、当時は武術は勝つための兵法、斥候、布陣、馬術、射術、剣術等々諸々の総合武術であった点を考慮すると、「當流すなわち楠流軍学の中で、忍びに関する部分の正しい記述」と解するべきであろう。

その理由として筆者(引用者注:中島)はもう一つ別系統の『正忍記』(写)を入手しており、内容的に国会図書館蔵本と大同小異であるが、それには奥付に国会図書館本とは異なった注目すべき記載がある。

すなわち、

「以上は楠流軍学秘書中より盗写せしものにて、決して自考には無之(これなし)、子々孫々に至るも伝えて練習せよ。

稲葉丹後守道久
六十七歳謹書
享保元戊牛水無月下之十日」


とある。

今まで漫然と、『正忍記』は「紀州流忍術の秘伝書」といわれ、独立した一流であるかのように受け止められてきたが、この史料の「楠流軍学秘書中より盗写せしもの」という事実から、『正忍記』は、「楠流軍学の一部であり、項目の内容は斥候・忍びである」と考えるべきであろう。

(同上、2~4頁)



私は武術や忍者について詳しくはないが、なかなか興味深い内容であることに間違いはない。
本書を引用しながら勉強したいと思っている。

[ 2013年02月08日 16:25 ] カテゴリ:正忍記 | TB(0) | CM(0)
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